悪役

不安定な状態というものはとかく不快なものだけど、去年2021年の夏からその不快な空気の中で私は生きている。それはほとんどの場合、自分の外部から視線や情報としてもたらされるので、自分で制御しようにも限界がある。

どうしてこうも不快なのか?情報というけれど種類があって、ニュースやYouTubeなどの動画やラジオ配信があるが、これらが自分に中に入ってこないよう自分の意思やそれほど立派とは言えない自制心である程度はコントロールするしかない。

親鸞が何を言ったかしらないが、やめたくてもやめられない精神が自分の自制心と拮抗する中で自分というものを保つのは、私のような俗物には嗜好品を断つのと同じくらい難しいのだ。

情報といったけれど、そこには人の気持ちというものが含まれている。だからひとまとめにして不快といっているわけではもちろんない。

私は神経を集中して自分の感覚を捉えようとした。さっき自分の外部といったが、自分の内部に目を向けてみると、そこには何かから逃れようともがいているイメージが浮かぶ。何か、過剰なものから。

その過剰な何かは私が自分を保とうとするのを邪魔するように作用する。そして情報の他には、どんな隙間も通り抜けて追ってくる視線は防ぎようがない。が、ここでは情報に限定することにする。

情報の中の人の想いや好奇心。ヒューマニックなものだが、それが度を過ぎると不快になる。これは自分のみならず自然の摂理だ。私は何から逃れようとしているのだろう。

SNSから感じ取る、というより絡みついてくるもの、それは世の中に蔓延する過剰な優しさだ。

相手に対する優しさは人間同士の繋がりで絶対に必要なものだ。だけどそれが過剰になるとどうなるか。今まで受け入れられなかったものが受け入れられ、今まで許されなかったものが許されていく雰囲気や流れができてしまう。世の中のシステムというのはこんなふうにできあがっていくのだなとつくづく思う。それが河のような流れになるとその流れに抵抗するのは不可能に近い。その流れに乗った者は時代の流れに乗ったかのように錯覚して、自分が本当にそのシステムを受容しているのかどうか疑うことすらしない。システムに取り込まれてしまった人間、つまりそれは何かを諦めてしまった人間だ。

人の頭脳や心は何もかもを受け入れるようにできていない、それを私は何度も何度も言葉を変えて形を変えて言ってきた。事実が真実とは限らないし、真実が事実とは限らない、そんなことは大人であれば分かっている前提で話してきたけれど、なかなか通じない。事実とは目に見えるもの耳に聞こえるものだ、それに対して真実は目に見えないし耳にも聞こえてこない。でも人は敏感な生き物なのでどんなに些細なことでも感じ取ってしまう能力がある。毎日SNSでどれだけの人が喜び、どれだけの人が傷ついているのだろう。

幸せとは言えない環境で生きてきて、幸せとは言えない環境がその人を作りあげる。その作り上げてきた人間像は結果であって、原因ではない。だからなおさら、受け入れられるものと受け入れられないものは個人によって全然違う。なのに均一に受け入れることが優しさだと勘違いさせられている。

その結果、大人であるはずの人間同士が「もっと甘えていいのだ」「もっと頼っていいのだ」と迎え入れ、精神的な自立が阻まれてしまっているように思える。本来なら自分で解決できること、自分で解決しなければ意味がない領域まで人が介入してくる。繋がりすぎるから。

Twitterにもチラッと書いたけれど、私が考える優しさとは(意味を限定するのではありません)、自分で処理できないもの、手に負えないものなどに対してヒントをくれたり、手を差し伸べてくれたり、力を貸してくれたりしたときに感じるものだ。そこで初めて人は自分独自の感覚で”救われた"と思うのだ。人の悩みの中には、人の手を借りて救われるものがちゃんと存在すると私は信じているし、信じられるのは私にもそんな経験があったからだ。「優しさ」と「救い」は似ているのかもしれない。
でも、救いにはもう一つある。

人の手から逃れることで得る救いだ。

これは救いを得るというより、獲得する、と言った方が感覚的には正しい。つまり誰の手も借りずに自力で自分を解放する。会社、組織、家族の概念、コネクション、世の中のあらゆる固定概念から自由になろうとする意志のようなもの。

なのに今のSNSを見ていると、前者(人の手を借りる救い)の優しさが過剰になって、人間として本来なら処理できる可能性があるものまで優しさの触手が伸びてきているような気がする。気がするというよりそれはおそらく事実だ。

私は3年前にTwitterを始めたが、1年2年と続けるうちに、全てを感じていながら全てを無視しなければならないという矛盾した感覚が強くなってきているが、おそらくそういうことだろう。

私がロボットではなく人間なら、もっと感じられる、もっと考えられる。なのに自分が答えを出そうとするずっと前の段階で外からの情報が”優しさ”という巧妙な形をとって、答えを植え付けようとする。

その一方で、後者の方法で救いを得ようとする者は世の中から狙われ、不明な理由で追跡され、追い詰められていく。人の優しさや親切を無視する非人間的な人間として、だ。

誤解をしないでほしいが、私だって人に優しくされれば心が潤うし、感謝もする。愛を感じれば心は満たされる。でも他人が介入してくる必要のない領域にまで達する優しさは、私にとってもはや優しさではない。

どうしてこういうことになるのか?人によって歩んできた通過点が違う、あなたの通過点と私の通過点は違う、通過点が違うということは、苦しんできたものが違うということ、それは磨いてきたものが違うということだ。

自分を苦しめてきたもの、それがたとえ世の中で尊いもの、美しいものとされるものであっても、私はそれに苦しめられてきた、辛かった、たとえ恩知らず、恥知らずと言われ、憎悪と嫌悪の対象となっても、私にとって苦しいものは苦しい、辛いものは辛いのだ。

これが優しさだ、これが思いやりだ、これこそ愛だと人はあらゆる方法で示そうとするけれど、優しさが過ぎれば、愛が過ぎれば、それは諸刃の剣となる。

孤独だって、受動的に孤独にならざるを得なかった人もいれば、能動的に一人でいることを選択した人もいる。そうするしか方法がなかったからだ。

家族が、父親が、母親が、子供を無条件に愛するというのは本当だろうか?悪い子になって欲しくない、人に嫌われるような子になって欲しくない、なってほしくないから親は一般的に好かれる子供のイメージを思い描いてそれを子供に徹底的に、あるいは暴力的に力づくで屈服させようとする。情操教育に有害な音楽を聴いていないか、有害な漫画を読んでないか、有害な映画雑誌を読んでないか、鍵付きの日記帳でも持っていようものなら中身を見られない腹いせに子供に向かって投げつける、子供を監視してがんじがらめにする。それが親の愛だと言われても、私なら何の躊躇もなく親を憎むだろう。今でも「家族」という言葉と響きにどうしても抵抗を感じる。人は窮屈なものから本能的に、破壊的に、逃れようとするのではないか。

悪い子ってなんだ?有害ってなんだ?愛ってなんだ?でもそれが親の信じる愛なのだから仕方がない。

私は今、仕事をしていない、つまり無職だ。会社を辞めて何年か経って、想っていること文章に書き出した。それを読んでくれた人の中に兵庫の尼崎市出身のライターさんがいて、尼崎で進学した高校がダウンタウンの松本人志さんと同じだったとかで(数学の先生が「あの松本に数学を教えたのはオレや」と自慢していたらしい(笑) )、そのライターさんはズバ抜けて頭の切れる人で、彼の書いた文章を読んだら3日は笑っていられた。私はなぜかこの人なら自分の存在を受け入れてくれるような気がして、自分は仕事もせず24時間一人なのだと伝えると、「その状態で生きてるんだから、Mollyさんはその状態で既に世の中と戦ってるのだと思いますよ」と言ってくれた。その言葉が今までの私をどれだけ支えてくれたことか...
そして彼はこうとも言ってくれた。「Mollyさんはこのまま書き続ければ注目されると思います」と。しかし私は注目されたくなかったのだ。それこそ世の中には私のような人間がいてもらってはたまらないと思う人が大勢いることを知った今だからこそそう思う。

いったいこれからはどうなるのだろう。自分が逃れたがっている、超えたがっている当たり前の壁は、依然として巨大なハードルのように私の前に立っている。一つ一つを打破するには多大なエネルギーと度胸がいる。だから寂しいときもある反面、人が望むこまめな反応はできない。反応の良い人が選択され残っていく時代だから、私は時代に取り残されていくのだろう。でも、そんな私を理解して優しく包み込んでくれる人がどこかにいるかもしれない、たとえそれが0.002%以下の確率であっても。死ぬまでに一つでも多く壁を超えて、自由になりたい、それだけなのだ。

今年に入ってまだ1月だったが、部屋で一人、ロッキー山脈の雪崩をDVDで見ていた。連立した樹々を薙ぎ倒しながら進む雪崩の速さは時速300㎞だそうだ。間近で見れば凄まじい速さだが、スケールが大きいため遠くから見れば酷くゆっくりに見える。おそらくそれが今の時代の視座なのだ。時代は狂ったように変化しているように見えるから、雪崩はどうしようもなくゆっくりに見えてしまう。ゆっくりすぎて何も変化してないように見えるのだろう。

冬のあいだ、枯れずに蕾のまま数か月間寒さにじっと耐えていた粉粧楼(バラ)が、昨日開きだした。粉粧楼を見つめているのは、当たり前だが今日も私だけだ。

#雑記 #日記









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