時間と沈黙とおしゃべりと

この世には「本当に仲のいい夫婦」というのが存在するのは私も知っている。実際に見たことがあるから。でもそんな本当に愛し合っている夫婦って世界にどれだけいるのだろうとも思う。恋の勢いに乗るのは大事で、後先考えないで理性など吹っ飛んでしまうのが恋だ。でもその恋の勢いに乗って、現実的で実際的な義務が発生する前に、情報が多すぎるせいか準備として義務を作ってしまう、そんな結婚もあるようで、私には彼ら彼女らが気の毒としか思えない。

仕事も似たようなものかもしれない。組織に入って、組織の色、組織のサイズ、組織のテイストなど、自分を型に嵌めて“慣れ合い”というこの国の根深い習慣に自分を染め、これが人生なんだと自分に言い訳しながら死んでいく。そんな考えただけでウンザリするようなクソ面白くない人生、(最悪の場合)立派に見えて、素敵に見えて、実はダラしねえだけの人生に一歩でも踏み込もうものなら爪先から腐っていく。ああ書いてるだけで嫌になる。

結婚の経験がないせいか、よく「結婚したこともないあなたに、口にできない主婦の苦労が分かるの?知らないからそんなにのうのうと暮らしてられないのよ」と言われる。空気で伝わってくることもある。結婚生活や育児の現実など分かるわけがないということが前提なので、もちろん私は何も答えない。経験がないのだから仕方がない。ただなんでしょうね、結婚したくてしたんでしょ?子供が欲しくて産んだんでしょ?だったらそのために強いられる苦労や忍耐に文句言うなっつーの、とは思う。

結婚以前の小学生のような恋愛でもそう。恋人がイケメンで高収入だけど性格が最悪で別れたくなるとか殺したくなるとか私に言われてもね、顔と収入と愛?で選んだんでしょ?だったらそれ以外の不都合な真実が出てきても黙ってろっつーの。

べつに私は誰かに「何か大事なものを忘れてませんか?」なんてここで問うつもりはない。人生が何で決まるかなんて人によって違うのだし、個人の原点や存在理由、そこには一般論なんて必要ない。正直、邪魔なだけだ。確かにとてつもない強運が降ってきて突然人生に激震が走るということはある。でも強運はただ人生に作用するだけ、それだけだ。

ただ本当に危なかったな、と思うことはある。常識や尊いはずの人間愛ですら自動的に取り込まれそうになるからだ。人生は短い、時間がない、だから後悔したくない、悔いを残したくない、その想いが激しい焦燥感を生み、焦りが錯覚を生み、錯覚が幻想を生み、既に一線を超えていることに気づかないまま答えだけを性急に迫られる。そこに愛だなんて…笑わせないでほしい。
彼ら彼女らはいったい何をそんなに急いでいるのか。あまり気づきたくなかったけれど、気づいたからには黙っていられない。つまり彼らと私は違う人種、属しているクラスが違う、しかもそのクラスは厄介なことに目に見えない、社会性とかコミュ力とかそんなクソみたいなこととは全く無関係なもの、私が急いでいるのはたった48時間や96時間で出せるような誰もが一度は聞いたことのあるその辺に転がってる答えではなく、もっと別のことだ。

昔(といってもそれほど昔ではない昔)、TVでタレントさんたちが「家族みたいな関係」という言葉を多用している時期があって、私は気味が悪かった。血が繋がっていようとそうでなかろうと、一人一人は異なる考えを持って異なる人生を歩むのだから、家族といえども所詮は他人の関係だと思っている。そのせいか「家族」とか「親族」という言葉は自分にとってそれほど重要だとは思っていない。
でも本当に実際のところ、私は親戚との縁は薄いし、それどころかズバ抜けた厄介者だと思われている。そもそも私は家族というものに何の期待もしていないし、何の希望も持っていない(ああ、こういうことを言うとまた人が離れていく)。

そこから転じて先日妙なことを考えていた。子供の頃(物心ついた頃)世界で初めて会う他人としての親に叱られたとき、
もし
「親に叱られる自分を憎んだらその人はマゾヒストになりやすいのでは?」
もし
「自分を叱る親を憎んだら、その人はサディストになりやすいのでは?」

そう考えると自分は天性の(つまり生まれつきの)サディスト性が備わっているんじゃないか、と自分を再発見した気分になった。もちろん極端な考えではあるけれど、それは物事の根本を疑う性質に関係しているようにも思える。昔から相手が誰であれ簡単に平伏さない、簡単に反省しない、簡単に組されない、要は我が強いのだ。

言い方を換えれば自己愛がタフということなのだろうか。本格的な心理テストは受けたことがないが、かの007と同じように「権力や権威に拒否反応あり」とか「社会人不適合の殺し屋」とか診断されそうで少し怖い。確かに私は「権利」は好きだが「権威」は嫌いだ。でも考えてみると、その心理テストを作った人間が異常だったり問題があったりしたらその診断は正しくないかもしれない。そういう可能性はあるのだから、心理テストの診断結果で「狂人」とか「変人」とか「病人」とかレッテルを貼られたところで、実は狂人や変人や病人が作ったテストかもしれない診断結果に一喜一憂することほど馬鹿馬鹿しいことはない。

大体においてマゾヒストは楽だ、与えられるものがないと何もできない。プレイを仕掛けるのはいつだってサディストだ。

そう考えると、人は100%のS、100%のMとは言い切れないのだろう。人間であれば、つまりメンタルが健全であれば、いつだって矛盾していて、混乱していて、いつだって優柔不断で、いつだって期待や予想を裏切り、いつだってどちらに転ぶか分からない。それが端から見て分かりやすいか分かりにくいかというだけだ。
世の中では「ブレない人」が尊敬されるけれど、価値観や意思が全くブレない人のほうが余程危ないのではないかと思う。

たとえ相手からどんな人格が現れても、同じ人間だと思うから、私は正気を保つことができているのだと思う。相手の職業、社会的地位、年収、何かの受賞歴など、ハッキリ言って私にはどうでもいいことだ。そんなものは取っ払って、その人自身がどういう人かということに興味があるのだ。もちろんそれぞれの人が獲得してきた技をどう駆使しているかということも大事であるけれど、その職人芸や職人技、その人の経験を通して、そこに自分を通して新しいものがあるかどうか、自分の心を突き動かす何かがあるかどうかということ、私の興味はその一点に尽きる。

もちろんプロ集団の高い技術や熱意を無視しているわけではない、むしろ感謝の念はありきたりな言葉で表せないほどだ。コンテンツの密度や完成度を見れば、その制作のみならずチームをまとめることも決して簡単ではないことは私にも想像できる。それでも既成の価値観をアップデートするものはそう簡単に生まれない。コンテンツを数多く制作するスピードとは別のスピード感が必要なのではないか。

そしてお互いが独立しながらも、お互いの感性で影響し合っている、それが私の望んでいることだ。
選挙めいた騒ぎや注目とは無縁でいたい。私以外の新しい魅力を発見したのならその人を家族だ親族だといって愛を持って迎えてスタートすればいいのではないか。外から見えない水面下で元々仲の良かった人から足蹴りを食らって黙らせられるのはもう嫌だ。人は意識が働くところでは本心を見せない、見せるわけがない。神経は独り言も発せなくなるほど過敏になり、ただただ激しい消耗が残るだけだ。ニュースも然り、新聞記事も然り、記事内容は正しくとも、毎日悪いパロディーを見せられているようでまともに読んでいると病気になりそうでたまらない。

人は見かけだけでは分からない。黙っているから何も考えていないわけではない、やることがないから昼間も寝ているわけではない、口笛を吹いているから呑気でいるわけではない、何も反応しないから想いがないわけではない、無視しているわけではない。第一、人は全てを言葉にするわけではない。相手のことを想像すればするほど、思えば思うほど、状況を知れば知るほど、相手を尊重すればするほど、言葉にできないことが増えていく。以前の記事で「不器用な人ほど誠実なのだ」というのはそういうことだ。

話がズレてしまった。

こうやって書いていると、あれも書かなければこれも書かなければと焦ってまとまらなくなってしまうのが私の悪いところだ。読んでもらえば分かると思うが、こんなことを書くつもりはなかったのだ、全然まとまっていない。

今の時点で思うのは、私はどこかの組織、そこかのチームに属するよりも、一人単独で思い付いたことを思いついたときに書いているほうがいいのではないかと思っている。そのほうが低能な頭が多少なりとも回り出すし、動きやすい。

なぜこんなことを何度も繰り返さないと分からないのかと自分の無能さに落ち込むが、これでは私には先を読む能力も学習能力も備わっていないことが証明されただけだ。

さて、さきほどサディストとマゾヒストのことを話したが、その最中に谷崎潤一郎の「春琴抄」を思い出した。ドSの春琴とドMの佐助という安易な構図だけでは語れない究極の物語だ。



#雑記 #日記




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