EXIT↔entrance

クリスマスだからといって誰とも約束のないいつもどおりの一日になると分かっていた。12月は伸ばした手が求めるまま中村文則の「何もかも憂鬱な夜に」、ジョージ・オーウェル「1984」、村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の3つを続けて読んでいた。別々の作家で別々の小説なのだけど、不思議なことに一つ読み終えると次に読む作品が「次はこれ」と用意されているように頭に浮かび、なぜだろうと思いながらも深く考えずにそのまま導かれるように読んでいった。ジョージ・オーウェルの「1984」以外は数年以来の再読だったが、ほとんど新鮮な気持ちで読めて、こんなに素晴らしい登場人物たちが、私がいつ戻ってきてもいいように本棚に佇んで待っていてくれたことに改めて感謝で胸が一杯になった。欠点だけで生きているような女が、好きな人から選ばれるはずもなく、想いを募らせる相手は小説の中にしか存在しない、そんな日々が再びやってくるのだろうか、とも思った。もうすぐ2021年が終わるというのに本を読む気力残ってるかな。

なぜならここ数か月、自分のメンタルは相手が分からない巨大な蜘蛛の網のように張り巡らされた幾多の視線によって憂鬱と緊張の繰り返しで心身共に疲れ果てていたのだ。細かい現象はいいとして、これじゃ気力だけで制御できないと思い、せめて余計な情報は排除しようと数日前からテレビを24時間消すことにした。テレビからも視線を感じていたからだ。消したらそれだけで少し楽になった。善意であれ悪意であれ、それらが絡み合った他人の視線というものが、想像以上に自分の意識を強力に引っ張っていたことが分かった。その上、意識の上にどっしりと乗っかる重しとなって文章を書く意欲すら奪う、書き方も忘れてしまう、意識自体も委縮して視野が狭くなる、こんな状態が数か月も続けば普通の人は狂ってるはずなのに、自分が正気を保っていることが不思議でもあった。私は本当に不思議な空間にいた。

それにしてもテレビを消して静かになったのはいいが、最後に読んだ村会春樹の小説から次に読む作品が頭に浮かんで来ない。どうしたものかと自分を持て余している状態だったので、何とか気力を振り絞って本屋へ行き、いつも見ているお気に入りの動画で紹介され、少し興味を持っていたEXITの兼近さんの「むき出し」を買って読んでみることにした。

お笑い芸人?EXITの兼近?知らんわ、と思いながら読み始めて60ページくらいまで進んだとき、なんか語り手であるentranceの石山という人、中上健次の『奇蹟』に出てくるタイチみたいだな、と思った。数ある中上作品の中で、タイチの破壊的気質と挑発的態度はずば抜けている。「むき出し」を真面目な気持ちで読んでいるつもりはなかったのだけど、なんとなく石山にはタイチを彷彿とさせるところがある。

しかしそのまま読み進めていくと、200ページあたりからこの小説が自分に迫ってくるのを避けられなくなった。

なぜこんなことが起こるのか。

それを上手く説明できない。以前に読んだ又吉さんの『劇場』と『人間』でも同じことが起こった。ストーリーの問題ではない、小説と自分とのあいだに何かが起ころうとしている。

誰かに「おまえは悪いことをしたのだ」と言われてもそれは自分にとって“悪いこと”には入らない、「何かをした」と言われても“何かをした”うちには入らない、人からの注意の何もかもが自分には大袈裟に聞こえる。そこまで目くじら立てて怒るようなことなの?と思ってる自分が小説という形になって自分に迫ってくるような、何とも落ち着かない気分になるのだ。自分とぶち当たってどう反応していいのか分からない。又吉さんの「劇場」は、読んでる途中で本を閉じて椅子から立ち上がってしまったほどの衝撃が走ったものだが、それが再び違った形で迫ってくる、それも至近距離で。なんというのか、小説と自分の関係の特殊性だけが際立ってしまい、こういっては失礼だが、よし!レビューを書こう!という気持ちになる類いの作品ではない。一年のうちにそんな特殊な小説に3つも出会うなんて、2021年はやっぱりどうかしている。

ただ、動画で紹介してされていたように、小説家という"職業"というより、小説を書くという“行為”から生まれた小説であることがこの作品を読んで感じたことだ。吐き出さずにはいられなかったという生理的な行為にも感じ取れる。

作品の中で石山のいる空にヘリコプターが飛び始め「この騒ぎ、俺です」というシーンがあるが、つい最近まで私のいる空にもヘリがずいぶん飛んでいた時期があった。とうとう視線が空からも降ってくるようになったのかと思ったほどだ。

けれど、今朝の新聞の折々のことばに以下のエドガー・アラン・ポーの言葉が載っていて、少し元気が出た。

「警察はけっきょく、異常なるものと難解なるものとを混同するという、甚大にしてお定まりの過ちを犯したんだよ」(12月27日掲載)

これを見て、主人公の石山に言っているのか、私に言っているのか、はたまた以前に書いた私のnote(タイトル「殺人の動機は“太陽のせい”」)を読んだのかと笑ってしまった。

面白いといえば、EXITの兼近さんがentranceの石山を描いているということ。出口と入口。私は今年、Twitterやnoteを手段としてどこかに表現の入口がないか苦労して探していたのだけど、この暗中模索から脱するために見つけるべきは入口ではなく出口なのだと悟った。しかし悟ったものの、なかなか文章を書くための糸口が探せないままでいた。注目されようとは思わない、作家になろうとも思っていない、ただ思うことを思うように表現したい、思うように書きたいだけなのに、何か訳の分からないものが覆いかぶさって力が入らない、その正体が分からないという不気味な曖昧さに苛立っている状態が長く続き、そんな自分をなんとか攻略したいと何度も思った。が方法が分からなかったのだ。

でも考えてみれば、ある部屋に入るための入口というのは部屋に入った途端、出口に変わるのだから、入ったところから出て行けばいいのだ。そして一旦外に出れば、出口は入口となってまた自分を迎えてくれるかもしれない。動画で紹介してくれたこの小説に素直に手を伸ばしたら、魑魅魍魎とした2021年の出口がそこにあった。心のドアに人々を快く迎える木の扉がなく、人を寄せ付けない鉄の扉がほぼ剥き出しになっている私が、「むき出し」を出口に文章を書き出した。最近はノートにペンで1~2行の文章しか書けなかったのに不思議なものだ。でもそれが特別なことではなく、自然な流れのことのように思えるのが嬉しい。

言い知れぬ不安で蓋をされた時間はまだしばらく続くのかもしれないが、焦ることなくまた入口に戻ればいいのだ。

私は、意思を伴った戻るべき入口を見つめている。



#むき出し #兼近大樹 #出口 #又吉直樹 #入口

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