昭和の時代の残像−僕につきまとう影

 この4月から、人の勧めで農家を一時中断し、事務職に復帰することにしました。

 が、まだ10日ちょっとしか経っていないのに、早くも持病のうつ病が再発気味。理由は簡単で、職場のベテランおじさんがえらくきつい物言いをしてくること。確かに役所という事務系の仕事に長くいたものの、新しい職場は一般事務とは違う法律の専門知識が要求される場所。法律の心得は若干あるものの、電話対応を終えるたびに対応の仕方が悪いときつい言葉で注意されるので、頭がうつでフリーズしてどうしていいかわからない状態です(ただ、誰でも転職しててはこんな感じなのかな?)。

 ただ、そのおじさんの様子を見ていると、小学校時代の担任の先生がなぜかオーバーラップしてきます。小学校6年制の担任の先生は昭和一桁生まれの方でしたが、ものすごく厳しい短気な方。忘れ物やらをしようものなら「そんなことでは社会で生きていけない」と全否定するようなことをおっしゃる方でした。

 職場のおじさんも言ってることがすごく似てます。「自分が地銀にいた頃は、毎日怒られに仕事に行っていたようなものだった。定期貯金や預金のノルマを達成できなかったら詰められ怒鳴られる厳しい世界だった。」といい、暗に公務員出身の僕の甘さをついてきます。

 長じて、語学やら、強制参加だった放課後のクラブ活動を家の百姓仕事を楯に断り没頭したのは、そういう小学校時代の先生や「社会」から逃れるためだったような気がします。ただ、大学時代にうつを発症し就職氷河期に飛び込んだ公務員の世界は、僕が忌避してきた「社会」そのものでした。

 小さい頃、受験戦争で同年代のみんながなぜ荒れるのか、また都会でいじめ自死する人たちがいるのかがわかりませんでした。今から思えば、僕は幸せな子ども時代送ったんだなぁと思います。6反(=1,800坪, 約6,000m2)の田んぼで休みの日には仕事をし、チェーンソーを持って山に丸太を切りに行ってお風呂の薪を作りに行き、夜は好きなことにのめり込んでたわけですから。将来の自分が見えてしまっている世界というのは、ある意味絶望以外の何者でもありません。

 四国の山奥で文盲の両親の元で生まれ育ったからこそ、ある意味僕は自由でいられたような気がします。両親は「社会」に適合することを強制しなかったからです。もしこれがごく普通の家庭で「社会」を前面に出す親だったら、とうの昔にグレていたでしょう。

 「社会」という言葉をこれまで僕は使ってきましたが、僕はそこに昭和の時代を見る思いがします。それは懐かしい昭和というより、新しくそこに参加しようとする新「社会人」を押し込もうとする「社会」です。

 「社会」不適合な僕がこれからどうやって行きていけばいいのか。幼い頃からずーっとそのことが僕の課題として頭に蘇ります。

「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ、みなさん。
 人間が美しくあるために抵抗の精神をわすれてはなりません。」
   −『兎の眼』灰谷健次郎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?