「死」について考えてみました

 FX詐欺に始まり、去年のオクラの不作、また遡れば役所退職という人生の困難にあって、ふと頭をかすめるのが「死」の文字です。

 2019年5月に愛する人を亡くした直後から、「死んだら人はどうなるのか。何を感じるのか。窒息する苦しみを永遠に味わっているのではないか」などなど、大変な疑問と恐怖に苛まれました。

 そんな中、過去世療法・催眠療法、臨死体験の本や動画、そして少々宗教の本などを見まくりました。

 その中で辿り着いた結論は、やっぱり死は全ての終わりではないということでした。亡くなった後も命はこの世、仏法流に言えば一閻浮提に存在し続けるということです。これは一つの大きな救いとなりました。

 そうする中で、命とは何なのかを素人ながら考えるようになりました。もとより、哲学や宗教はかじったものの専門家と議論すればたちまち論破される類のものではあります。

 医学や法律の世界では、死は「瞳孔拡張」「自発呼吸の停止」「心停止」の3つと定義されます。これらは全て、肉体という目に見えるものから生者が判断したものです。

 そこで、今流行りの遺伝子やiPS細胞であらかじめたくさんの臓器を備蓄し、なくなりそうな人たちに移植することで、「死」を目前にした人に移植すればどうなるか。自発呼吸や心臓は自律神経が司っていますので、脳神経の分野に関わる部分、肺、そして心臓を総入れ替えする手術をすればいいということになります。瞳孔拡張は脳と結びついていると思われるので、先ほどと重複しますが、死ぬべき人の脳から細胞で作った元気な脳に置き換えればたちまち生き返るということになるでしょう。

 いわば、モノという次元で見る限り、弱った臓器さえ置き換えれば、つぎはぎだらけの状態でも人は今の何倍も生きられる可能性があるということです。

 しかし、医療も法律も、「いのち」については全く扱いません。もっと言えば、体や臓器というモノからのアプローチです。となれば、前述の三兆候が現れた時点でもう終わりです。その瞬間、ヒトは病院が扱う存在から葬儀屋で「処理」されるモノになり、一定の儀式のあと火葬されたり埋葬されるわけです。

 その中で、いのちというのはなんなのかがわからなくなる気がします。単なる頭脳作用や思考だとすれば、脳を移植すれば事足ります。心臓の鼓動でも神経伝達物質でもしかり。モノに置き換えている限り、いのちというものは所詮、身体機能にすぎないのかということになります。

 ただ、このような考え方に人は倫理的に何かおかしなものを感じるもの事実です。死ぬべき人が生き返ることはありがたすぎることです。将来、脳移植が実現してまっさらな人間に生き返させることが倫理的に認められれば、人は永遠を生きられるということになるでしょう。しかし、脳が変わるということは、もはや病む前の人の思考回路ではなく、別の何者かになるということになります。わかりやすく言えば、いのちは保たれているけど、人格はまるで違うものになり得るということ。確かに脳は人間にとって大事なものですが、そこにいのちがあるとすれば、人格や生き方といのちは切り離された存在になりはしないかと考えてしまいます。

 その意味で、いのちとそれにつきまとう死は、臓器や細胞とは別次元の問題なのではないかという思いがします。いのちという目に見えない、形もない、色もない、しかししっかりした主体を持っている。そういうものが体をつかさどっている。そして何らかの理由でモノの世界を離れて「死」を迎えると、今度はまた別の世界で別の形をとって生きていくと考えるのが、自然のような気がします。

 その意味で、最初に戻りますが、指数関数的に広大無辺な宇宙と僕らが呼んでいるものの中に、いのちは帰っていくのではないか。向こうの世界で和気藹々とやっている姿を、亡くなった皆さんを思うたびに想像してしまいます。

 ちょっと書いてて訳のわからない文章になったかもしれません。みなさん、どう思われますでしょうか。

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