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闇と闇のあいだで子どもたちは光を掴む

家出なんて、そんな子どもじみた言葉では表せない。あれは、おとなになってみて初めて分かった、逃避行だったんだね。そう、切ない気持ちを抱えた、初恋の君。

裸足で飛び出したマンションの廊下のタイルの冷たさを、ざらりとした砂を、今でも忘れられずに覚えている。泣きそうに冷たい、気持ちが悪い、それでいてなじみのある触感。けれど、その日はいつもと違った。

ガチャーン!
窓を割って、お母さんが泣き叫んでいる。ときどき、そう、それは突然にやってくる。憎悪に満たされて、闇に飲み込まれてしまったお母さんのこころ。どろどろとした闇を取り除こうとしても、わたしの手はいとも簡単に振り払われてしまう。おかあさん、おかあさん、おかあさん、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。何度も、呪文のように唱えるけれど、何をしてももう、闇に飲み込まれてしまったお母さんには届かない。

わたしがいる限り、お母さんはどんどん深くなる闇から出られない。わたしもそのうち飲み込まれて闇でいっぱいになってしまう。
窓が割れたとき、そう確信した。

たぶん、ほんとうはもっと小さなころからわかっていたんだろう、たまに会うお父さんがくれたお年玉や、気まぐれでもらえるお小遣いは、貯金箱に入れて、少しずつ貯めていた。それだけ持って、一気に外に飛び出した。


「乗って!」

わたしとお母さんがいた闇を切り裂くように目の前に突然現れた男の子が、そう叫ぶのが聞こえた。一瞬のちに、後ろからお母さんがわたしの名を叫ぶ声が聞こえる。その手には、鈍く光る闇の切っ先。
ああ、あれがわたしの闇。

無我夢中で自転車にまたがると、男の子の自転車は一気に加速して、わたしは自分より少しだけ高い位置にある、真っ白なシャツに包まれたその肩に、泣きそうな思いで縋り付いた。
お母さんはとうとう、どろどろに膨らんだ闇が飲み込んでしまった。


すこしずつ話すにつれ彼もわたしと似た境遇にあることがわかってきた。同じマンションに、あの冷たくて熱くてどろどろした闇がいくつも渦巻いていることに驚いた。いくつも、もしかしたら、わたしや彼の家だけではなく、どの家にもあるものなのかもしれない。みんな、わたしたちよりも少し、隠すのが上手なだけで。それでわたしたちが救われるわけでは、ぜんぜん、ないけれど。

どれくらい自転車で走ったのか、わからなくなってしまっていたけれど、空には星が見えて、寒くなってきた。
君はずっと自転車をこいでいたから、疲れ果ていたけれど、それよりも二人して、闇におびえていたね。後ろにひたひた迫ってくる闇と、目の前に途方もなく広がる、闇に。

わずかな知識で公園のごみ箱から新聞紙を拾い出してきて、二人の体に巻き付けて少しだけねむった。

つぎの日から、本格的な逃避行が始まった。目的地は、彼のおばあちゃんの家。電車と車なら半日で着くけれど、自転車なら何日かかるか、見当もつかなかった。持ち出した貯金箱の中身は当てにしていたほど豊かではなく、子供二人分の電車賃にもならなかった。
「半分ずつ持とう。」と提案したら、君は遠慮したけど、結局それが役に立ったね。「じゃあ僕はこれを出すよ、何の役にも立たないけどね。」君はわざと明るく言って、ポケットからレモン味の飴玉を取り出して、わたしの手に握らせた。
そう、君はいつも明るくふるまっていてくれた。後にも前にもわたしと同じ闇が見えていたのに、震えながら、それを隠して、ずっとずっとやさしくしてくれた。


いくつも街を通り過ぎた。夜は誰も住んでいない廃屋や漁師小屋を見つけて新聞紙にくるまって寒さをしのいだ。天気のいい日は海の見える公園の芝生で寝た。

夕方、君の足に限界が来て、海沿いで休憩していたときのことだった。
100均で買った大きすぎるビーチサンダルで、砂浜をぺたぺた歩きながら、わたしはちょうどいい流木を見つけて、大きな家の絵を描いた。不格好な間取り図だったから、台所がめちゃくちゃ大きくて、お風呂なんて三人くらいいっぺんに入れそうな、大きな家。

わたしたちは光に飢えていた。追われていると感じていた。もうすぐ日が暮れる。いつ着くかも分からないおばあちゃんの家も、全部闇のなかだった。

「おなか減ったねえ……。」わたしたちはいつも飢えていた。

砂浜にカレーライスの絵を描くと、君はまた、わたしを元気づけるために、むしゃ、むしゃと食べるふりをしてくれた。そんなつもりじゃなかったのに。無理してほしくない、一緒に頑張りたい。わたしだって君を元気づけたい。カレーの砂がこぼれないように、お金をくるんでいたハンカチを彼の膝に敷くと、残り僅かになった硬貨が夕日を浴びてキラキラ光った。
横に並んだちいさな2人の影は砂浜に伸びてゆく。二の腕あたりがそっと触れたとき、ドキドキした。胸の中に小さな光がはじけた気がして、いつもと違う怖さを感じた。もっと、感じとりたいと思った。甘くて、苦い。その光を抱きしめた。
「寒い?」
そういって君は、ハンカチを肩から掛けてくれたけど、それよりもこの気持ちの名前を知りたいと思った。ずっと一緒にいられたら、いいのに。君がわたしにこのチカチカするきれいな光をくれたように、わたしも君に、こんなにきれいなものをあげられたらいいのに。

闇は思ったよりも足が速かったみたい。
「君、ひとりなの?お父さんかお母さんは?」
急にうしろから声をかけられて、思わず体がびくっと震えた。
「どこの小学校?黙ってちゃわからないだろう。」
振り向くと、青い制服の警察官がいた。闇はこんな形で迎えに来たんだよ。

向こうの柱の陰に、君がいるのを見つけたから、さりげなくそちらを向かないようにした。君が闇につかまることはない。君は、そう、君はわたしの光だから。わたしに与えられた、きれいな、初めての光だから。

警察官は無線で連絡を取って、二人に増えていた。辺りはざわざわし始め、大ごとになっていることが感じられた。わたし、悪いことなんてしていないのに。

わたし、悪いことなんてしていないのに!

そう叫べば、きっと君が飛び込んできてしまう。だから、必死で口を押さえておとなしく連れられて行くことにした。それでも涙はなお流れ続けて、息が苦しくて、どろりとした闇の味を思い出した。

君は、光の中にいて。お願いだから、わたしに光をくれた君。

パトカーに乗せられて、どこをどう通ったのか、どんな話があったのかは、あまり覚えていない。ただ、何もない部屋で女性の警察官が「お母さんがどれだけ心配していたか。」と教えてくれた。
『お母さん』。あの日わたしに、鈍く光る闇の切っ先を向けた『お母さん』。


そのお母さんが、わたしを迎えに来た。わたしよりもずっと泣いていて、痩せて、ふらふらで。あの日あれだけどろどろと力強く波打っていた闇は、薄く消えて見えた。
どろどろの闇でパンパンになってその手でわたしを傷つけてきたお母さんが、それでもわたしにはその闇をまとわりつかせなかったこと、最後の最後で、守っていてくれたこと。
そのことに、気づいてしまった。

そうして、前方の闇に飛び込んだ私はうしろの闇につかまって、逃避行を終えた。
それでも、胸に芽生えたこのあたたかな、チカチカしている光だけは、忘れないで、生きていく。
「ありがとう。」わたしはその言葉を、誰にも聞こえないように、そうっと、大切につぶやいた。


いまでも取ってあるんだよ。君がくれた、レモン味の飴。外側は色あせて、中も熱でくちゃくちゃになってしまっていると思うけれど、ランドセルにつけているお守りの中に、しまってあるの。

逃げていた。逃げて逃げて、わたしと君は、闇と闇の間の、光の中にいた。



==追記======================

こちらの作品をリライトさせていただきました。

なぜその作品をリライトに選んだのか?

「子どもがおなかを減らしている」という描写を何とかしてあげたくて選択しました。何ともできませんでした。

どこにフォーカスしてリライトしたのか?

闇に飲み込まれそうな二人がいた、束の間の光の中で、二人の間に同時多発的に芽生えた幼い恋心にフォーカスしました。


貴重な機会をどうもありがとうございました。

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