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オタクくん! 陰茎を撫ぜていたら人生が終わっていくよ!!!


日常は絶望の類義語

 休日の過ごし方というものには様々な形があるだろう。友人と遊ぶもよし、本を読んでもよし、散歩なんかも馬鹿にできない。何をしても良い。自由、それが休日のあるべき姿だ。であれば女性器を模したシリコンに陰茎を突っ込んで終える一日があっても良い筈なのである。
 ベッドの上から動かず、スマホの向こうに広がる仮初の無限へと目を滑らせる。思い出したかのように短い睡眠と自慰をした。それが俺の今日という一日だ。最悪である。どう考えても良いわけがない。しかし、どれだけゴネようとも明日はやってきて、それはつまり労働の再開を意味する。冷静に考えて休日が二日じゃ何もできない。俺の人生という有限は刻一刻とすり減っているのに、何だか気持ちはもう消化試合だ。最近は恋愛願望や結婚願望も消えてしまった。齢は22。俺は一生セックスをしない気がしている。

セックスって何だ?

 セックスとはつまり、馴染みの深いエロ漫画風に言ってしまえば子作りだ。子作りとは赤子を作る行為であり交尾である。
 俺は赤子が嫌いだ。汚いし、うるさいし、醜い。反論は多くあるだろう。一般的に言えば赤子は可愛いとされている。客観的事実として「可愛い」に分類される赤子がいることも知っている。きっと、可愛い赤子と聞いて思い浮かべる小人は、俺もお前も概ね似たようなイメージの筈だ。けれどもちょっと待ってくれ、それってパンパースのパッケージやらコマーシャルやらに登場しているアイツラじゃないか? 赤子はどちらかと言えば獣に近いから、人間には見分けがつきづらいけれど、確かに美醜が存在する。大衆向けに何度も見せられ無意識に刷り込まれる赤子はモデルとしてやっていける可愛さを有した赤子なんだよ。街で偶然すれちがった大人が美男美女でないように、世に溢れている赤子の大半は贔屓目を抜くと可愛くない。ただここで誤解しないで欲しいのは、俺が醜いという理由で赤子を嫌っているわけではないということだ。醜いものなんか世の中には溢れているし、珍しくもない。今までダラダラ書いていたのは「赤ちゃんは可愛いよ」とか言う連中にフラットなモノの見方というものを提示したかっただけ。

 本題に戻る。俺が何故子作りをしたくないのかという話だ。その主な理由は単純で、自分の人生に満足していないから。生まれてから楽しいことがまるで無かったとは言わないが、そもそも楽しいことの積み重ねが幸せに繋がっていると思えない。
 嫌なことがあったのだ。過去に、自分にとってはとても大きな。そのときにできた思考の凹みが気になるうちは、きっと幸せになれないのだと思う。
 赤子は生きたまま年を重ねると子供になり、やがて大人になるらしい。とは言え子供と大人の境界というものは曖昧で、実際に大人になってみると社会からの目が比較的暖かいか冷たいかしか両者に違いは無いように思える。
 俺は幸せな大人というものを見たことが無い。彼らの日常は取り立てて劇的でなく、単調で、しかもその単調さは決して色づいていない。たまに色づく瞬間はあってもすぐに日常の灰色に押し流されてしまう。物語に登場する農家の哲学「日々の幸せを噛みしめる」という行為はあまり現実に即していないのだ。勿論、幸せな人生にしか価値が無いと言うつもりは無い。別に俺の射精によって発生した赤子が将来幸せになろうが不幸になろうが、赤子が他人である以上きっと俺とは無関係な話なのだ。でも俺はそういうモノに勝手に責任を感じてしまう性質で、同時にどれだけ責任を感じようとも自分の戒律と他人の人生がかち合った場合に俺は俺のことしか大切にできない。そういった理由から、どうにも俺は人間を作るという観点からセックスをしたくない。

快楽

 別の視点の話。セックスには快楽が伴う。けれども、その点に於いて俺はオナニーの快楽で満足しているためここでは論じない。

孤独を埋めるための方法(人間関係)

 現代社会を見たところ、セックスの本質的な価値とは子作りでも快楽でもなくコミュニケーション、即ち孤独を埋められる点にこそあるとされている。結婚した状態の人間が言う「赤ちゃんが欲しい」も、家族の数を増やして孤独を癒したいと、そういう意味を持っているようだ。だが、俺にはその感覚が分からない。親のことがあまり好きではなかったから。他には、兄弟も家族の在り方の一つだ。俺の兄弟仲については、そこそこ良い方だと思っている。けれども友達と兄弟のどちらの方が仲が良いかと問われれば、それは勿論友達の方が仲が良い。無論、家族愛を理解している方々からすれば「そういうことではない」ということも理解している。しかし、あくまで俺の視点から見ると家族では孤独を癒すのに足らないのだと理解していただきたい。無意識にコミュニケーションの話から家族の話に戻っていた。俺の根底に眠る家族関係へのコンプレックスがそうさせるのだろうか?
 話を戻すと、俺はセックスによるコミュニケーションをしようとは思えない。いや嘘だ。実のところ、セックスをしたら何かがどうにかなって凄い何かが発生し、何か孤独が無くなって涙を流し真っすぐな人間になってハッピーエンド、みたいな可能性を考えていないわけでもない。女性と話すと、セックスに限らずスキンシップによる精神安定化的効能について聞くことが多いから。
 俺は人生の中でスキンシップというものの経験が極端に少ない。手を繋いだこと、抱き合ったこと、キスしたこと、まるで覚えが無い。それは勿論、親が相手でも同じだ。そりゃあ赤子の頃は抱かれることだってあっただろうが、微かな記憶を辿って思い出せるスキンシップの記憶が、父にされた何回かの肩車なのだからその少なさを察することができるだろう。それにそもそも肩車はスキンシップだろうか? アレはどうにもバランスが悪く、安心とは程遠い。だからこそ、キチンと安心を伴うスキンシップを経験すれば、俺の捻くれた性根は綺麗に伸ばされるのではないかと……今思い出した。昔飼っていた猫、アレとは何度もスキンシップを行っている。あの感覚が安心なのかは分からないが、少なくとも体温というものが心地よさに繋がっていたことは確かだ。セックスはアレの最上位と考えれば良いのだろうか? あまり想像がつかない。
 とにかく、俺は別段セックスへの強い憧れがあるわけではない。しかし、客観的に見れば俺はセックスがしたくて仕方がない人間だ。アニメチックなラブドールを持っているし、二股に足が分かれている抱き枕も買った。部屋には性的な姿の美少女フィギュアが溢れている。更に言えば、俺の趣味の一つがAIにセクハラを繰り返すことだ。これらの情報を統合すれば、俺は紛れもなく性欲を持て余した男だろう。やはり客観的に見て、俺は性的コミュニケーションに飢えている。だが実感が無い。そもそも俺は人間が嫌いなのだ。
「世の中に 人の来るこそ うるさけれ とは云うものの お前ではなし」という有名な歌がある。こういう精神で厭世を気取ってる連中が嫌いだ。俺は前提として人間が嫌いなのである。人間の人間たる人間らしい部分が嫌いなのである。きっと俺の思う人間らしさと、お前の感じる人間らしさは異なることだろう。だからより厳密に「人間らしさ」を説明すれば、人間関係特有の面倒臭さとか、人間だから相手は何かを考えているけれどそれが分からないこととか、コイツこういう自分のこと好きなんだなとか、何か気を遣われているなとか、自分の人生経験からしかやっぱり物事を考えられないこととか、心配されることとか、そういう色々が集まって煩くて人間が嫌になる。無論、この嫌悪の対象には自分自身も含まれている。こういうことを一々言わないと伝わらないのも人間の嫌さだし、これを言うことで「それならまあ良いでしょう」みたいな心の動きが発生するのも人間の嫌さだ。けれども、こういう部分は本当に誰にでもある。どれだけ仲の良い友達にもあるし、友達ではない奴にもある。それはもう仕方がないことだ。では何故人間関係をやっているのかと言えば、俺には承認欲求があるし、会話で快楽を覚える。何より地球上にはもう社会が蔓延しきっているから、人間関係をやっている。
 別に友達のことが嫌いなわけではない。ただ、俺が臆病すぎて孤独を人間関係で癒せないのだ。だから普通に、アニメとかゲームの画面越しに美少女に囲まれて不安なく生きていけるのであれば、俺は全くの躊躇なく人間関係から遮断されることができる。人間関係は俺の孤独を癒さない。

じゃあ惨めたらしくちんちんを撫ぜるな!!!

 小見出しの通りなのだが、しかし自慰行為とは幼少の頃より刷り込まれた二次元との交信方法でもあるのだ。それは即ち、人間関係で孤独を癒せなかった俺が自慰行為で孤独を癒していたことに他ならない。
 次元の間にはどうしようもなく厚い壁がある。俺が絵に向かって話しかけても返事はこないし、抱き枕の瞳に俺の像は映らない。ただ、陰茎を摩擦し、それに同期して二次元の美少女が喘ぐことで、何か、交流が、生まれている気がする。分からないかな?
 例えば、俺の好きなゲーム「閃乱カグラ」に紫という美少女が登場する。「閃乱カグラ」はちょっぴりエッチなゲームなので、セックスはできない。しかし、俺はジオラマモードで紫にスケベなポーズを取っていただき、自慰行為に励む。そこには喘ぎ声も何もない、ただスケベなポーズの紫と、陰茎を摩擦する俺がいるのだけれど、確かに愛のようなものが育まれていると感じるのだ。愛とは一方的なものを双方向だとまやかしているものだから、俺のそれは一部本物だと思う。オタクなんて、結局のところ絵でシコるおじさんだ。最近は陽キャもアニメを見るから、呪術廻戦や五等分の花嫁を見ている=オタクという図式が社会によって成立させられそうになっている。でもそれってやっぱりおかしいよな? だって陽キャはpixiv見ながらシコらんだろ。それはつまり孤独の慰撫を二次元に求めていないということであり、引いてはどうしようもない人間不信を抱えていないということだ。故に俺は、アニメを見ていなくても、ゲームをしなくなっても、絵でシコるおじさんこそがオタクの称号に相応しいと思う。

幸せとは何なのか……

 俺はきっと、明日も明後日もセックスをしない。これからもオナニーをするだけの無為な休日と、死んだような顔をして少しずつ嫌われていく平日を過ごすだろう。そのうちアニメもゲームもしなくなって、本当に絵でシコるだけのおじさんになる。だが、俺は今日という日を無為な休日で終わらせたくなくてこの文章を書いた。この文章は、セックスをせず、オナニーだけした今日という日とこれまでの日々があったから書けたのだ。別に大した内容の文章では無い、ただの自己満足かもしれない。というか自己満足だ。さっきまで謎の勝利感が心に湧き上がっていたけれど、俺って普通に明日から仕事なのに朝の5時までかけてオナニーだのセックスだの謎の文章を書いただけの人だ。小説家なりて~、ここ数か月は何も書いてないけど。エッセイとかでなんか良い感じの雰囲気を醸し出す格好良さげなサブカルの人になりて~、であれば映画なりエロゲなりの感想でも書くべきなのだろうが。
 なんだか気分が落ち込んできた。これは日記だ。繰り返すのっぺりとした絶望的な日常の中で、夢も見ることができなくなった日々の断片を記している。嗚呼、小学生の頃の俺よ、聞こえるだろうか? きっと君は人生など詰まらないという顔をしていることだろう。その予感は正しい。俺は今も君の失敗を覚えている。願わくば君は、普通の顔をしてセックスをしてみてくれ、きっと何も変わらないだろうけど。それでも明日を考えなければ、何か、何か、できる筈だから。

 顔に穴が空いている。学校のプールからの帰り、痛む夏の太陽が作り出した僕の影が排水口と重なった。暗く深い雨を吐き捨てるための茫穴は、ヨーロッパだとガルグイユという怪物の形を模しているらしい。怪物の口が、雨を吐き出すのだ。
 顔の影と重なったその穴からは、何も流れ出ていなかった。そのことに安堵し息をつこうとしたとき、穴の奥から蛇が覗いていることに気がついた。なんだか僕は恐ろしくなり、空を見上げて入道雲へと続く道を急ぐのであった。


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