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感傷に浸るオタクは痛い、でも……

逆張りするドライな人間

「エモという言葉が嫌いである」そんな言説はインターネットで何度繰り返されたのだろうか? もはやエモはメインカルチャーで、だからそのアンチもそれはそれで表通りなのだと感じる。
 言葉に価値など無いのだろうな。そもそも言葉ほど時代と共に移り変わるものは無い。何故ならそれは心を表現するためのツールであり、人の心は絶対的でないからだ。
 今更、「新しい」を「あらたしい」とは呼ばないし、「いとおかし」を使いもしない。いずれ「永遠と」も定着し(或いは既に……)、「萌え」は「推し」に代替される。

 ウギギギギギギ……! 許せん! 俺は違う! 俺は違うんだ!

 逆張りをしてみても、他にも似たような逆張りしている奴が多すぎる。そこで逆張りの逆張り的態度として、敢えて順張りをする奴はあまりいないけれど、それは何処か空しいのだ。

 俺はさあ、高校の頃のアンケートで「本当の友達はいますか?」っていう質問の意味が分からなかったんだよ。教師に本当の友達の定義を聞いたら、それを保護者に笑い話として報告された。でも、答えは教えてくれなかった。
 もう成人したけれど、未だに本当の友達とは何か分かっていない。ポケモンのバイオレットをやったときに、主人公と仲間のこういう関係性が本当の友達なんだと思ったけれども、現実には無いよ。
 どれだけ青春らしい行動をなぞってみても、他ならぬ俺が人を大切に思えない。大切だったらこうするだろうなという行動をしたことは何度もある。けれども実感としてその行動をする意味を理解できたことは無かった。

 兄弟とか家族とか友達とか、本当は全部どうでも良いよ~!
 はいはい、こうすれば良いんでしょ? みたいな、半ば諦めで義の男らしい言動をした。そのあとは決まって胸糞が悪く、全員死んでしまえと思っている。

 人前で悲しんでいる人間も、苛立っている人間も、落ち込んでいる人間も、平気そうな俺の隣でいつも悲しそうだ。

 小学生の頃、俺が泣いたのは二回。
 一回目は道徳の時間。身近な何かが死んだ話をして皆が泣いていたから、その悲しみ合戦に俺は『ペットの金魚が死んだ話』で参戦した。クラス替えの無いクソ田舎だったから、友達面をした一人が卒業まで執拗にそれを弄り続けた。金魚の死で泣くのは可笑しくて、猫の死で泣くのは正しいのかよ?別に金魚も猫もイモリも蛙も、死んだときに何も感じなかったよ。
 二回目に泣いたのは、いつだったか? 同じクラスの人間に大したことではないけれども、泣いても良さげなことをされた。だからなんとなく泣いた方が良さそうだと理解し、気が付けば自然と涙が出ていた。周囲の人間は謝れの合唱、俺を泣かせた奴は腑に落ちない顔で謝って来た。俺がそのときに一番共感していたのは、現状が理解不能だという顔をしている目の前のソイツだった。
 あと泣いてはいないけれど、小学校の行きと帰りで動物の死骸を見る度に、道徳ぶって神妙な顔をしていた。それに無言だった。一緒に登下校する妹が、気まずそうにしていることに気が付いてからは止めた。

 俺は冷たい人間か? 姉には何度もドライだと言われた。煩いな。だったら貴様はウェッティか? 馬鹿馬鹿しい、ジメジメと鬱陶しいだけの癖に。
 そんなに家族が大切かよ? みんな当然のような顔をして、家族は特別な人間と当たり前に受け入れている。つまり、前提として人を特別に思う機能が備わっているのだ。その家族に向かう愛情を猫や友達に転用すれば、ノットドライな人間の完成ですってか。
 たまたま俺を生んだというだけの理由で他人を特別に思えるのなら、そりゃあ誰だって特別に思えることだろうよ。特別ってそんなことか? そんなんで良いなら、別に良いけど……。俺は特別って、そういうことじゃないと思う。

家族について考えすぎる

 中学時代、クラスの女子から「考えすぎだよ」と言われたことを思い出した。そいつだけではない、何人も何人も俺に考えすぎだと言ってきた。
 きっと考えすぎなんでしょうけれどもね、それにだって理由はあるんですよ。

 小学生か中学生の頃に、伊坂幸太郎の『魔王』を読んだ。最初は市立図書館にあった漫画で読んで、次に小説の方を読んだ。主人公の台詞に「考えろ、考えろ、マクガイバー」というものがある。これは主人公が幼少期に見ていたドラマの台詞で、主人公が事あるごとに脳内で唱える。思考停止をしないために。
 俺が「考える」ということを意識し始めたのは、思うにこの本を読んでからだ。最初の頃は意味も無く、ただ「考えろ」と心の中で唱えていた。敢えて意味をつけるのなら、主人公が格好良く思えたというただそれだけ。

 けれども、明確にこの言葉が自分のものになった瞬間があった。今まで理性的だと考えていた父親が、新興宗教を抜けたいと言う俺に対して「宗教を抜けたら事故のような酷い事になるかもしれない」と大真面目に言ったときだ。そのあまりにも典型的な洗脳された人間を前に、俺は思わず引いてしまった。そしたら「頑固で話し合いができない会社の人間と違って、お前とはちゃんと話し合いができるから良い」だってさ。
 俺がメタ視点と思考に執着するのは無理なからぬことだと自分で思う。

 俺は小学二年生のとき、親に感謝の気持ちを伝えましょうという課題で「おかあさん、毎日たまごやきを作ってくれてありがとう」と書いた。寝たきりで家事の多くを子供にまかせている母へのあてつけだった。思えば性格の悪い子供だな。でも、保護者がいないと子供はどうしようもないと理解していたから、俺は表面上感謝の体を崩さなかったんだ。
 小学生の頃に習った、人と人とは助けあって社会を作っている。だから感謝を忘れてはならない。それが真なら、人と人とは迷惑をかけあって生きているのもまた真の筈で、だから嫌悪を忘れてはならないとなる筈だ。表裏一体。
 実際のところ、人と人とは良し悪しに関わらず影響を与え合っている。だから感謝だけを救い上げて、それが社会だと言うのは嘘だ。こういう嘘が、俺は昔からずっと納得できない。たぶん真面目なんだと思う。

 そもそも俺は、他のガキ共と違って気づかいのできる子供だった筈なのだ。親への感謝を伝える課題で、罵詈雑言ではなく卵焼きへのお礼を書いたことも、立派な気づかいで優しさに分類される行為の筈だ。でも、というか、だから、アニメとかで大人に気をつかう子供を見ると、止めろと思う。
 大人の振りをしていた子供は、二十を過ぎてもこんな思春期みたいな文章を書いている。
 こういうのだって本当は全部、絵とか小説で表現した方が格好良いんだ。でも俺は自分が大好きだから、自分の事を自分の事として、物語みたいに書きたくなる。

 ……自分が大好きというのも、嘘かもな。自分に興味があるだけ。というより、自分以外に興味が持てない。アニメを見る時も、人と話す時も、それらを通じて自分を観察している。それはそれは詳らかに。
 でも、本当は皆自分を通じてしか世界を見れないだろ? なのにさあ、「他人に興味がありますよ!」みたいな顔して平気で生きている。自分越しに見る他人は本当に他人なのかよ? そういうことを気にしていたら、また「考えすぎだ」と言われる。でも、じゃあ、どうやって疑問なく他人を大切に思えるんだ?

 俺は様々な人間に「家族とは自由意志が介在し難い強制的人間関係であり、本質的には道でふとすれ違った人間と友人以上の深い絆を結ばされる事に変わりない」と主張した。「長時間一緒にいた結果の愛着が家族愛の正体であり、それには何の特別性も無い」と。
 多くの人は「そうだね」と言ったけれど、だから家族が特別視される現状を疑問に思う人は一人もいなかった。
 彼らはどうでも良いのだ。自らの感じる『特別』が嘘八百だとしても。

人間嫌いが好きな人

 美少女の話をします。アニメとかの美少女です。
 俺はツイッターで流れてくる、美人とされる少女の写真が嫌いだから。加工とか、幸せそうとか、色々と嫌いな理由を考えた、でも違うな。人間が嫌いなんだと思う。俺、ツイッターで流れてくる、イケメンみたいな男の写真も嫌いだし。
 いや、やっぱりそれも違う。オタクとか、素朴な女の子の写真は好きだから。雪の降る町みたいな。本当のところ、美醜とかどうでも良いよ。アニメのキャラも含めてさ。
 本当にちゃんと考えて考えて考えて、優しく在れる人とか、優しくなれなかった人とか、そういう重みの価値に肉の配置が適うわけなくないか?
 化粧とかダイエットとか頑張ってるんだろうけど、俺はその頑張った結果より頑張ろうと思った理由とか、頑張れたじゃんってところの方が興味ある。でもあれだ、ツイッターの美女イケメン写真じゃ結果ばっかり評価されるみたいで、嫌だ。
 勿論、人間が嫌いというのも、やっぱりあれらが嫌いな理由の一つとしてはあるのだろうけど。

 アニメというか、エロゲの美少女。三波舞さんというキャラクターがいて、その子のことをたまに思い出す。あの子は真面目で気立てが良くて、なんでもできる子だった。それで、なんでもできるから人から頼られるばっかりで、頼るのは苦手なんだよ。こういう人がさ、一人でなんとかできる人がさ、なんとかできるから放っておかれる社会は嫌だよ。
 そりゃあ、ネットに生きづらいよ~って書いている人の方が生きづらいんだろうし、だからそういう人を先に助けるというのは理にかなっている。
 でも、助けを求められる人は誰かが助ける。世界はまあまあ優しいし。ただ、助けを必要としていなくて、助けがなくてもなんとかできる人間が、だから平気というわけではないよねっていう。いや、平気ではあるんだろうけど、平気だから色々我慢していて、人を助けて、その人は助けが必要ないから助けてもらえない。それが理由で病んだり自殺したりもしない。

 でも頑張ってんじゃん!

 クラスにいただろ? ちゃんと勉強してるから勉強ができて、仲良くも無い連中に勉強を教えている人。その人に親切で勉強を教えてるやつっていた? その人、宿題見せてとか、勉強教えてとか、言っていたか? 俺はそいつに勉強以外の価値観を持って関わろうとすることで他の連中は違うんだって顔してたけど、本当は勉強を頑張って「分からないとこある?」って聞かないと誠実じゃなかった。表面上ばっかり義の男をやっている人間は、これだから駄目なのだ。

夜を更かす感傷

 でもなんか、最近は毎日のように夜更かしをしている。
 ほら、今だって4時02分。学校も卒業して今や社会人で、明日だって物を分かったような顔して敬語で喋る。それが信じられなくて、納得していないから、起きたら社会人なのが嫌で、だから眠らない。
 前に、夜のことを「すごく短い夏休み」と表したら少しウケた。でも、本当にそうなんだよ。終わらないでくれって願ってるけど時間は止まらないから、だんだんと余裕がなくなっていく。昔は11時が夜更かしで、それだけでワクワクした。妖怪なんかも出る気がしていた。それが今じゃあ、現実逃避=夜更かしなんだから、ただ情けないよ。
 本当の友達の意味も分からないのに、ごくたまに寂しくなって通話してみたり、スペースをしてみたり、過疎配信にコメントしたり、終わったライブ配信を聞きながらDSでテトリスをする。それで寂しさが紛れたら、また寂しさって何なのかよく分からなくなる。

 メタ視点も自意識も、本当はいらなかったよな。
 いや、いまさら捨てないよ。

自意識猫子「安心したにゃ~!」

ネコネコ天使モモモモ


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