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僕がゲーム業界で「ディレクター」という肩書きを拝命するようになるまで【そこらへんのゲーム関係者 vol.7】

こんにちは、そめ吉です!「そこらへんのゲーム開発者」今回はUnityのオリジナルキャラクターで有名な『ユニティちゃん』プロジェクトの生みの親の1人であり、ユニティちゃんトゥーンシェーダーやAnime Toolbox、Projcet TCCにも関わりが深い元Unityの小林さんに、思い出深いお話を伺いました!

業務委託の依頼も受け付けているとのことですので、ご興味ある方はsupport@nidan-jump.comまでご連絡ください!それではどうぞ!


こんにちは。元Unity Technologies Japanの小林といいます。Unityでは日本におけるUnity開発者コミュニティの支援をしていましたので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。

もう少し具体的に言うと、ユニティちゃんプロジェクトの企画立案の他、ユニティちゃんトゥーンシェーダー2.0の開発など、主にキャラコンテンツ回り、アニメ・映像コンテンツの制作ツール回りの担当など、いろいろとやってました。

Unityに入社する前は『涼宮ハルヒの憂鬱』や『とらドラ!』などを題材に、完全オリジナルシナリオのアドベンチャーゲームを開発しました。その時に、今のLive2Dなどに繋がっていく2.5Dのキャラクター表現をコンシューマゲームに取り入れて、東京ゲームショーでフューチャー賞を貰ったこともあります。

僕にとってのゲーム業界のことはじめは一風変わったものでした。それは当時ゲーム開発も行っていた、あるアニメスタジオだったのです。今回はまったくの異業種からやってきた僕が、ゲームを含むコンテンツ業界で『ディレクター』という役職名を拝命するまでの思い出をお話します。

テーマ1. あなたはなぜゲーム業界に?

実はこのテーマを前にしばらく考えこんでいる。というのも僕の場合、元々「ゲーム業界に就職した」という意識があまりないから。

大学院生時代は計量経済学という分野で、プログラミングを駆使しながらデータ解析とモデル分析をおこなう研究を政府系金融機関の研究所で行っていて、そこから最初に就職した場所は当時『新世紀エヴァンゲリオン』のTV放送が終わった直後のアニメ制作会社ガイナックスだったから。

ただなんでそんな経歴を持つ自分と、ガイナックスというスタジオ、そしてゲーム業界が結びつくのかというと、いくつか理由がある。

当時も今も「ガイナックス」というスタジオは、アニメで知られたスタジオではあったが同時に一風変わった、よく言えば革新的なゲームを作るスタジオとしても知られていた。

古くは『電脳学園』『プリンセスメーカー』そして、劇場用アニメ作品の脚本を思わせるような完全フルボイス版のアドベンチャーゲーム『サイレントメビウス』『ふしぎの海のナディア』。これらは、日本のゲーム文化にとっては本道ではないが、明らかに異彩な輝きを放っていた伝説のタイトルだったのだ。

また『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版を知っている人ならわかるかもしれないが、この作品には大量のフォントやAdobe Illustratorで作画された透過光マスクが使われている。今のデジタル撮影時代には、当たり前の技法である。しかし当時アニメの背景やプロップ内で用いられる文字はすべて手描きだった。それを今のような、当たり前の商業用フォントに置き換えたのはガイナックスだったのだ。それができたのはガイナックスには当時でも最先端のDTP部門があったからだ。つまりガイナックスというスタジオは当時、異様にデジタルやITが強いスタジオだったのだ。

この辺りを説明していくとなんとなく理解できるかもしれないが、僕とガイナックスは、最初はPCを使いこなせる経験と、キャラコンテンツが好きだという2点で結びついたのだ。

ぶっちゃけ、当時のNIFTY-ServeにあったSGAINAXという公式ステーションで、「ガイナックス経理部のトップの方が手下を求めている」という話があがったので、当時少々、研究の行く末にクサクサしていた自分は「ダメ元」気分で応募し、三鷹のスタジオにまで面接にいったのだが、その帰りの足で秋葉原を彷徨っていた時のことだ。

いきなりPHS(当時はまだ今の携帯電話方式はお高いものだったので、皆、PHSという別の規格の携帯電話を使っていた)が鳴りだした。着信ボタンを押すと、ついさっきまで話していたガイナックスの人だ。

聞くと「アナタを採用することにしました」とのこと。あんまり現実感がなかったので「はあ。それではいつから行けばいいんですか?」と聞いたら「木曜日から来てください」という。ちなみにその日は火曜日だったので、2日後。マジ?

無茶苦茶のように思われるかもしれないが、2000年よりも前のゲーム業界ではこういう風に採用された人はとても多い。それくらいゲーム業界を含むコンテンツ業界は、まだまだごく普通(?)の文系大学院生がいける就職先とは思われていなかったのだ。

テーマ2. その後はどんなことを?

最初がガイナックスだったということからも判るとおり、それ以降も僕は、主にゲームの中でも特にキャラ性が強い、キャラクターコンテンツの開発を中心におこなってきた。

そんなある日に、自分の上司(注:上のイラストの方。自分の中ではエヴァの葛城ミサトさんのイメージ)から声をかけられた。なんか深刻な顔をしている。聞くと「アナタに任せたい仕事があるんだけど、そうとう難しいので、辞退してもいい案件なのよ」とのこと。

「なんですか?それは」と尋ねると「実は…ウルなのよ」と教えてくれた。

なんと『蒼きウル』に関係する仕事が自分に舞い込んできたのだ。そりゃ「やります!やらせてください!」と返答するだろ?実際そのように返答したものだ。

そう答えたのにも訳がある。コンテンツ開発を行う制作本部に移る直前の頃、ガイナックスが扱う通販商品の在庫管理を任されるようになった僕は、一時、ガイナックス倉庫の鍵を預かっていた時期がある。コンテンツ制作を本気で学ぼうとこちらの業界にやってきた僕にとっては、そこはガイナックスの歴史が詰まった宝箱にしか見えなかった。

在庫管理の必要上、倉庫に積まれた沢山の段ボール箱を整理していると、否が応でも宝が発掘されてしまう。僕がそこで見て学ぶことができたのは、『トップをねらえ!』の企画書、ほれぼれするようなミスティメイの大判セル、そしてレイアウトから始まり、セル画と背景のセットになるまでを収めた様々な作品のカット袋。そしてそこに書かれた沢山のスタッフ達の意見交換の記録……。

そんなものの中に、秘蔵のウルの資料もあったのだ。

なんで『蒼きウル』の仕事がそこまで難しいと言われたのか。それは簡単な話である。まだ誰も『蒼きウル』を見たことがなかったからだ。しかもその完成品としての姿は、原作者でもあり監督でもある山賀博之氏の中にある。

しかしこの仕事に当たって、山賀さんのお仕事を止めてはいけないので、一切聞くことはまかりならない。故に「山賀さんがやりたいことを、山賀さんに訊くことなしに、その世界観を込みでコンテンツにしなければならない」という条件だったのだ。加えて「王立のデザインは一切使ってはならないが、新規に起こすデザインは王立の世界観に沿っていなければならない」という条件もあったと思う。

考えてみれば、不可能なことばかりだ。しかしガイナックス倉庫で、歴代のクリエイター達が見てきたもの、作ってきたものの原点に触れていた僕には、なんの迷いもなかった。

「その条件でいいです。やりましょう」と快諾したのだった。

考えてみれば、その時の経験が後に『涼宮ハルヒの憂鬱』のゲーム化などでも役に立ったのだな…と、コレを書いている最中に気づいた次第である。

何が言いたいのかといえば、こういうことだ。

あるコンテンツから新しいものを生み出す時に必要とされるものは、そのコンテンツの表面をなぞるだけでは得られないということ。

本当に必要なのは、そのコンテンツを産み出し、関わった人達が見てきたものを実際に知り、その考え方を理解するということ。彼らと同じ考え方で、彼らが見てきたものをもう一度探り、そしてそれが生まれてきた過程を追体験すること。

コンテンツを作るのも「人」である。ガイナックスの倉庫で僕はそういうことを学ばせてもらったのだ。

結局その『蒼きウル』の関連ゲームを2つ作ることになり、僕はガイナックスを卒業することになった。卒業する時、僕は「ディレクター」という役職名をスタッフロール中で正式にもらっていた。

その実績をもって、今度はマルチエンディング&マルチパスのシナリオ制作を実践するために、次の戦場へと向かったのであった。

そこからの思い出のいくつかは、Toggterでまとまっているので、興味があったら読んでみてください。

テーマ3. そこらへんのゲーム関係者として楽しかったこと

一番楽しかったのは、その後アニメ制作会社のJ.C.STAFFさんと一緒に作ることになる『白中探険部』というこれまた無茶なオリジナルゲーム作品の企画立案、さらにはシナリオ構成に関わった時のことかもしれない。

もっとも、楽しかったというだけであって、この企画は最終的には僕の手の中では完成しなかった。請け負った会社が潰れてしまい、その元請けの会社に企画自体は吸収されてしまったからだ。

とはいえ、ここでの手ひどい失敗体験は、同時に最高の思い出として今でも自分の中で生きている。

特に、当時JCのPさんに、当時も難しかったアニメのカット制作を引き受けてもらう直前、規模と予算感を合わせるために仕様を大きく調整したこと――約900カット近くあった必要カット数をばっさりと削り、必要最小限のカットでストーリーが展開できるように調整したこと。確か214カットぐらいに抑えたんじゃなかっただろうか。

そのカット数をPさんに伝えたところ、即答で「それなら受注できるよ!」という答えをもらったぐらいだから。多分その時の決断は、おそらく後年『涼宮ハルヒ』や『とらドラ!』などのゲームを作る時に下したいくつもの決断のどれよりも大きく、そして難しかったものであったことを今も思い出すことがある。

ミドルウェアやゲームエンジンをつかって制作することの大切さを知ったのもこの時だった。これが後年、Unityに参加する時に活きることになるとは思わなかった。

ゲーム業界にきて、かれこれ20年以上経つのだが、多くの人と出会い、同時に多くの人とも別れてきた。今も友達の人もいれば、いつのまにか自分の元に近づかなくなった人も沢山いる。

そんなかつての友人と、夜ずっと一緒に歩いて、夢を語りあったことを、時々夢の中で思い出すことがある。今は連絡先もわからなくなってしまったかつての友人たち。彼らとの思い出、彼らがコンテンツ業界にかけた想いも、皆、自分の中で活きているのを感じる。

元気であって欲しい。またいつか、どこかで一緒に酒でも呑みたいものだ。

この記事を書いた人

小林 信行|@nyaa_toraneko

Unity Learning Materials:セッション一覧(小林 信行)
https://learning.unity3d.jp/speaker/nobuyuki-kobayashi/


小林さん、ありがとうございました!小林さんへの業務委託にご興味ある方はsupport@nidan-jump.comまでご連絡ください!

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