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052.みおくるということ

お父さんが死んだはなし。
最後に葬儀の写真(棺とか遺影とか写ってる)あるので苦手な人や「葬儀の写真を撮るなんて不謹慎だ!」っていう人は見ないでね。

※マガジンにまとめるために有料になっていますが、この記事は全編無料で読めるようにしています。

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9月5日にお父さんが死んだ。73歳。
余命1ヶ月から3ヶ月です、といわれてから結局1週間。せっかちすぎる。家族みんなで外食しても自分の分だけさっさと食べてひとりで車に戻っちゃうような、ものすごくせっかちなお父さんだったけど、最期の最後までせっかちだった。

■8月26日
夜にお母さんからお父さんの体調があんまり良くないとメール。コロナのこともあったので少し迷ったけれど、すぐに荷物をまとめて実家に帰った。

■8月27日
朝お父さんを乗せて病院へ、そしてそのまま即入院。(8月31日に実家に帰るつもりで8月28日にPCR検査を予約していたのだけどそれもキャンセルした。)入院手続きの後、お母さんと私だけ先生から話を聞いた。「余命1〜3ヶ月です、今日から酸素吸入とモルヒネをはじめようと思うのですが大丈夫ですか?」それしかすることがないのなら、とお願いすることにした。帰りにお父さんの病室に会いに行ったら「こういうのはいつかくることだから」って少し笑いながら「エミの今日の運転はうまかった」って言ってた。車に乗せるたびに文句言ってたのにな。

■8月28日
面会はできないとわかっていたけれどお父さんの荷物を届けるために病院へ。病棟の看護師さんに「どうにか面会したいので、早めに緩和病棟に移動したい」旨を伝える。
夜にお父さんから電話があった。「安倍さん辞めたね」と話していた。これがお父さんからの最後の電話になった。

■8月29日
家にいても仕方ないので外に作業しに出かけた。

■8月30日
葬儀屋の下見、お姉ちゃんとお母さんの喪服を買いに行く。

■8月31日
お父さんの口座がある銀行、年金事務所、家がある役場、熊本のお寺に連絡をとる。お父さんが死んだ後に具体的にどのような手順を踏めばいいかをまとめておいたりした。お経は近くのお寺さんにあげてもらって、戒名は49日法要のときに熊本でつけてもらうことにした。

■9月1日
緩和ケア病棟への移動許可が降りたので会いに行った。お父さんはもう喋れなかったし、意識も朦朧としていた。酸素マスクしてるのにすごく呼吸が苦しそうだった。酸素マスクをすごく嫌がっていた。でもお父さんはお父さんだった。手がすごく冷たかった。看護師さんから、お父さんが退院する時の服を持ってきておいてくださいねと言われた。

緩和ケア病棟は面会が1日2人まで、15分と決められていたのでその日からお母さんと、お姉ちゃんと3人で予定を決めて会いに行くことにした。わたしはお父さんが緩和ケア病棟に移った日に実家から東京の自分の家に戻った。病院もそこから通うことにした。実家の方が病院は近かったけど、自分に余裕がない、とわかっている状況の中でお母さんに冷たくあたってしまうことが怖かった。


■9月2日
お母さんとお姉ちゃんが会いに行った。

■9月3日
お母さんにお願いして、私1人で会いに行った。わたしはこの日、お父さんの前で初めて泣いた。去年の12月、抗癌剤治療をしているお父さんのところに面会に行きすぎて「また来たのか、仕事は大丈夫なのか」って逆に心配されたことを思い出した。お父さんに「また来たのか」って言って欲しかった。
お父さんはホワイトボードにわけのわからない数式をずっと書いていた。お父さんがすごく苦しそうで、「早く楽になった方がお父さんも楽なんじゃないか」と思ってしまった。でもそれはお父さんが楽になって欲しい、という気持ちじゃなくて、自分がもうこの状態のお父さんを見ている苦しさから逃れたい、という気持ちから出た言葉だということに気がついてひどく自己嫌悪になった。

■9月4日
お母さんと2人で会いに行った。この日から担当の先生が消化器外科の先生から緩和内科の先生に変わった。生きる仏のような先生だった。お父さんのいまの状況がかなりよくないこと、全身にガンができていること、肺がもうほとんど機能していないこと、「終末期せん妄」というのがかなりひどくなっていて、昼間はほとんど寝ているけれど深夜に壁をどんどん殴り続けたりしていることなどを聞いた。せん妄は怖いものが見えたりするらしいと聞いて、せめてお父さんにとって怖くないものが見えていればいいのに、と思った。
この日の夜は久しぶりに友達と夜ご飯を食べた。

■9月5日
昼間、お姉ちゃんと孫が会いに行った。わたしは家で仕事をしていた。
その日の夕方に病院から電話があって急いでタクシーで向かった。お母さんが先についていて、お父さんは眠ったみたいに死んでいた。看護師さんからお父さんの最期の時の様子を教えてもらった。ベッドを乗り越えて帰りたそうにして、そのまま亡くなったと教えてもらった。

お父さんが死んだらわんわん泣くのかなあって思っていたんだけど不思議と全然泣けなかった。「死んじゃったのか」ってぽかーんとするしかできなかった。お父さんの癌が見つかってから頭や心の大部分を占めていたことが、お父さんが死んでしまった途端にいきなりすぽーんとなくなって、「悲しい」よりも「からっぽだなあ」って気持ちばっかり。

そのあとは病室を片付けて、予定通りの葬儀社に手配の連絡をして、葬儀社で簡単な打ち合わせをして、家についたのは深夜2時だった。

お父さんが入院してからその日まで、病院との連絡はわたしがとっていたから、いつ病院から電話がかかってくるのかとひやひやする日が続いていた。その日もいつも通りに深夜に目が覚めてしまって、「そっかもう電話はかかってこないんだ」って、そこでなんだか急にお父さんが死んだことの実感が湧いてきて悲しくなったりした。

■9月6日
お父さんから生前もらっていた「連絡して欲しい人リスト」に載っていた人10人ほどに連絡を入れた。そのあとお父さんにお線香をあげに葬儀場へ。綺麗な真っ白の布で包まれて寝ているお父さんは病院で寝ている時とくらべてすごく遠くに行っちゃったみたいだった。
幼稚園からの幼なじみが会いに来てくれて「エミちゃん頑張ってるから」とポチャッコのグッズをたくさんくれた。一緒にお父さんと海に行った話とか(全然覚えてなかった)お互いの家族の話とかをしたりしながら回転寿司を食べた。ビッくらポンは1個も当たらなかった。

■9月7日
11時から葬儀場で打ち合わせだったのに全然起きれなかった。その後お父さんが寝ている部屋で作業した。小さい頃、お父さんの会社に連れて行ってもらってそこでお絵かきしたりしたことを思い出した。夕ご飯はお母さんとスーパーのお惣菜を買って帰った。

■9月8日
お通夜の日、なにがなんだかわからないまま終わった。お寺さんの派遣サービスで頼んだ和尚さん、どんな人なのか心配だったけどすごくいい人だった。法話で話してくれた「お母さんへありがとうと言えなかった話」が自分と重なった。ありがとうは言えるうちに言わないとダメだなって思って、でもこういう大事なことをすぐに忘れちゃうんだよなとか考えたりした。
お通夜の後はお父さんをひとりにするのがあんまりよくないので、葬儀場にひとりで泊まった。夜、お父さんと2人でお酒を飲んだ。お父さんの同級生だった寿福さんが作っている球磨焼酎。

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■9月9日
告別式、熊本から従姉妹も会いに来てくれた。告別式もなにがなんだかわからないまま終わった。骨になったお父さんは意外としっかり骨だった。(もっとパサパサの粉みたいになるのかと思った)ちょっとだけ骨を分けてもらいたかったけど、入れ物を買うのを忘れたのでコンビニでプラスチックのボトルに入った焼酎を買ってその容器に入れてもらった。火葬場の人に「これですか?」って怪訝な顔されたけど「お父さんがこれに入れて!って言ってなんで!」と嘘をついた。お父さんごめん。
全部終わってからお母さんとお姉ちゃんとお父さんと4人で家に帰った。「お父さんが目立つところにいるのはいやだ」というお母さんの希望でお父さんの骨と位牌と写真は家の隅っこに追いやられた。お母さんはろうそくは火事になるから怖い、と言いながらお線香にガスコンロで火をつけていた。

お通夜とか告別式とか、ひとつひとつ手順を踏んでなにかをこなす、ということは気持ちを切り替えるためにも必要なものなんだなってぼんやり考えた。こんな感じでバタバタすぎる2週間が終わった。

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去年の11月に見つかった食道癌、そこからすぐに抗癌剤の治療をして、1月末に食道を全摘出、しばらくはすこしご飯も食べれていたけれどその後に癌が再発、誤嚥性肺炎も起こしてしまったのでそこから4ヶ月、水も飲まず、必要な栄養も水分も腸瘻(チューブで腸に直接ながしこむこと)で摂取、7月には最後の希望で放射線治療に1ヶ月通ったけれど結局お父さんのガンは全く小さくなっていなかった。
癌が見つかった時、「手術をしなければ余命1年」と言われていた。手術したのに、まだ1年経ってないよ、手術しなかったら、最後までお父さんはご飯食べれていたのかな、大好きなお酒も飲めていたのかな、ってぐるぐる考えていたら自分がご飯食べれなくなった。

でもそれじゃあダメだと思った。お父さんとの最初で最後のお別れの時間と、ちゃんとひとりで向き合わないと自分が絶対に後悔すると思った。飲み込めないほどの悲しみは、これと向き合うことできっと自分の糧になるはずだから、これはお父さんが最後にわたしにくれた勉強の時間だ、って思わないといつでもどこでも泣き出してしまいそうだった。「わたしが落ち込んでもお父さんの病気は治らない」ということだけは忘れないようにした。こういう状況の中で、暗くなることもネガティブになることも簡単だけど、それで終わりたくはないと思った。


お父さんの余命宣告されたあたりから4コマメンタルセラピーと称してどうにもならないこととかを4コマでかきはじめたりした。「悲しい話」を悲しいままで誰かに話すことがものすごく苦手な自分にとって、これが一番の発散方法だった。

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最後の最後まで自分のことは自分で決めて自分でやっていたこと、最後まで別れが悲しいと思わせてくれたこと、「ありがとう」を言いたかったと思わせてくれるような父親でいてくれたこと、これからもずっと忘れないよ。

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長くなっちゃったけど最後まで読んでくれてありがとうございました。
またね。

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洋服も私とお姉ちゃんのおさがりばっかりで、腕時計も財布もダイソーの使ってたお父さん、会社員の頃からずっと使ってた小銭入れと手作りのキーケースを形見にもらったよ。

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普段考えていることはなるべく作品としてアウトプットしたいとおもっていますが、その前のぽつぽつとした言葉や気持ちをストックする場所としてこの日記をはじめました。仕事のこと家族のこと、いろんなことを書いています。

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