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「天才」という言葉

左利き。

字が汚い。

という私の“個性”。

「左利きって天才らしいじゃん!」と話してくる右利きの人。

「字が汚い人は頭が良くて天才に多いらしいね!」と話してくる字が汚くない人。

思春期に葛藤した「今の自分ではない“何者”かになりたい」という考えと左利きと字が汚いという個性が期待に重圧をかけた。

でもある時、ふと気づいた。

「自分は何者でもなく、自分は自分」なのだと。

諦めのような自己肯定のような、「歳をとったとはこういうことをいうのか」と思ったりもした。

でも、いまだに「天才らしいじゃん」という言葉をかけられて少し嬉しくなる自分がいて、「天才」という言葉が現実を苦しめることがある。

でも自分は調子に乗りやすい性格なので実際に「天才だね」って言われると本来発揮できるスキルが全部発揮できるとは限らないので、今のままでもいいのかもしれない(突然吹っ切れる←

でも、自分のことは年を取るたびに好きになるというか、至らなさも認める(許す)ことができてきていて、きっとこれも、「歳をとったとはこういうことをいうのか」と思ったりもした。

でも、先日書いた自分の性についての考えや、左利きで字が汚いというマイノリティな面が「生きづらさ」を加速させる。

そんな自分の中の「生きづらさ」の種を認めて、愛して毎日がハッピーならそれはそれで最高なのだろうなと思う。でも、いわゆる大衆派の“フツウ”と呼ばれる性についての考えや、右利きで字が汚くない人と比べてしまうと、どんどん辛くなる。

人と比べて良いこと、悪いことがあるのだと最近ようやくちゃんと理解した。

でも、人と比べて悪いことも自分が理解していれば、同じ境遇の人々の気持ちに寄り添えることもあるのだと気づいた。

人の良いところを共有して共感するのも楽しいが、何故か私は人の至らなさだったり、「それ、良くない」と言われるけれど直せないホントウの癖のようなものを人と語り合っては慰めあったり、別の視点から見るとチャーミングに見えたりすることに気づくことの方がすごく楽しく感じる。

左利きで字が汚い自分だけれど、右利きで字が綺麗な人とはまた違った良さがあると思うし、いやだなと思っても今まで直してこなかったということは、やっぱりどこかこんな至らなさを愛している自分がいるのだと思う。

そういえば最近、「いい作品は病んでいる人にしかつくれない」というような内容のネット記事をチラッと見た。

「あっ、天才だから自分は慢性的に病んでいるのか?」なんて思っては自分で茶化したりもした( )

でも、天才にも凡才にも他者の目があることに気づいた。

結局のところ、先ほど述べた「人と比べる」のと同じように“天才”という概念も、自分ではなく他者の目が加わっていて、きっと人と比べたら“悪いこと”なのだろうと思った。

でも、天才じゃなくても人生そこそこハッピーなら幸せだなって思うし、天才が幸せとイコールだとは限らないし、自分が自分のことを“天才”だと思っておけば良いのではないか、という結論に至った。(この“そこそこ”が難しいのだけれど、今回は割愛)

そして、なりそこないの“天才”、いや自分から見て“最高の天才”たちと出逢って、これから人生を彩っていければいいなと思った。

“天才”のもつ言葉の意味は、きっと一つじゃない。

私は天才。

あなたも天才。

譲れない個性や「それ、良くない」と言われても直せないホントウの癖をどうか、ぎゅっと抱きしめて生きてほしい。(でも直したら、もっと自分が自分のことを許せたり、愛せたり、好きな自分になれるというのならば直すのもありだと思う)

そしていつか一緒に会って話す機会があれば、お互いのぎゅっと抱きしめている自分の至らなさについて笑い交じりでのろけあいたい。

きっとそれは、自分を認めるという難しい事柄ができる“最高の天才”だと私は思うからだ。

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