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先輩という名の友達とは

こんばんは、CHIkaです。
めちゃくちゃ久しぶりの投稿です。

実は、1月中旬から最近まで、改めて自分の肉体を見つめ直し、肉体改造という名の実験をストイックにしていました。

この話はまた今度しますね!

さて、今日はどうしても話したい、この場で吐き出したい話をします。

タイトルは、「先輩という名の友達」です。

皆さんには、歳も上、学年も上、あるいは、いろんな状況から、いろんな先輩がいると思います。

わたしにもいます。

たくさんの先輩に囲まれて、ここまでやってきました。
たしかに「絡みの濃さ」という点では、先輩によって様々かもしれないです。
でも私にとってはどの先輩との思い出も本当に大切にして、自分の中で活きている、そんな気持ちで過ごしています。

そんな中で本当にありがたい事に、私の事を「友達」と言ってくださる先輩もいます。

皆さんにはいらっしゃいますか?

私は、本当に有難いと思うと同時に、
だからこそ失礼のないようにしつつ、「後輩」だと本来口にすることのない、
ありのままの言葉を伝える事を大切にしています。

だけど、先輩の大船に乗らせて頂いていると理解している事が大前提としてあります。

実はこの感情って、簡単なようで難しいんだと最近感じています。

結局、この先輩への私の感情は、私のただの独りよがりの可能性が大です。

だとしたら、実は、失礼を働いてる可能性だってあります。

でも友達と言っていただけてるから何も無く、
やりたい様にやらせていただいているんだと思うと、
この年齢になっても先輩におんぶに抱っこだなっとちょっと恥ずかしくなります。。。

一方で、私にも友達だと言う後輩がいました。

そうです。
残念ながら「いました」という表現です。

彼は、私にとって特別で大切にしたい後輩でした。
でも結果的に、陰口を言われていたことがきっかけで、縁を立っています。

そんな陰口の中で、今日新たな言葉を聞きました。

私にとって大切な友達は、その後輩1人を指していました。
だから、どこか自分と同じように、これが当たり前でないと感じてくれているかもしれないということを、期待していたのかもしれません。

でも、彼は、他の後輩にも分け隔て無く接する事を私に期待していました。
また、その周りの、後輩も私に同じように接してもいいと思っていたようです。

先輩としては、ありがたい、受け止めないと、と思いつつ、「特別」というのはそんな当たり前な事なのかと悩まされました。

はっきり言うと、特別である効果は思っているより効果がすごいです。

まるで、転職して、前職の福利厚生の凄さに驚くくらい。。。だとおもいます。

私は、先輩に施されたものは、後輩にも施し返してあげるという文化で育ちました。

でも所詮それは、どこかの組織のカルチャーであって、私のポリシーではありません。

やっぱり私は自分が好きで、正しいと思う人、物を大切にしていきたいと思います。

「勘違いしないでほしい」

あなたは特別で、私も特別だと言うことを。

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