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最近思う事

近年の社会情勢や人々の考え方、”当たり前”や”普通”という概念に対する変化は目まぐるしいもので、多様性やそれに対する受容力が求められているような気がします。様々な情報が即座に手に入るようになり、言葉の持つ力だけが独り歩きしているような印象を私は感じていますが、この混沌とした世界について思う事を少し残しておきます。

一つの事柄について話す時、表と裏は今までも存在していました。しかし現在は、その事象を面でとらえるのではなく球体のような立体で捉えて話をするのです。見る角度は人それそれで異なりますから、もちろん答えが一つにまとまるはずもなく複雑化し、つぶさに論じることができるようになりました。もしかすると、その小さな声だったものが社会や表面に届くようになっただけなのかもしれませんが。
たった一つの内容ですら答えを導くことが難しくなったわけなので、その他の事柄を合わせるとそれはもう大変な作業となりました。そうこうしているうちに「多様性」がたくさんの「矛盾」を生んだように思います。

「会社は生き物」という言葉がありますが、それは大きく見ると社会や国家においても当てはまるはずです。それぞれを動かしているものは細かく見ると人であり、感情のある生き物が支えています。その細胞となる部分が矛盾を抱えたまま生きているが故に、社会も矛盾を抱えたままになっているのではと思うのです。

答えが複数あっていいと個人的には思っていますが、それが組織として多人数が関わる場合はまた別の話です。個人によってバックグラウンドは違いますし、それによって生まれる思考もまた違うということを大前提に、意見の擦り合わせをすることが組織では必要になってきます。誰もが納得できる答えは難しいので、その答えに深みを持たせ落としどころを見つける作業がいわゆる「話し合い」というものなのです。

ある種の軸を決めることは、属している組織の統率を図り体制を保つ意図があります。それは小さく見ると、各家庭の決め事やルールであり、大きくみると企業の経営理念や国の法律という事になり、ひいては「当たり前」や「普通」となっていきます。 ただし、大きくなりすぎた集団や一つの組織が対応できないほどの人の増減があった場合、その秩序は保たれなくなるのでしょう。細胞が正常に機能しなくなった時、どういう事が起こるのかは容易に想像できますよね。

「決め事」や「ルール」が全て正しいとは限らないという考えも納得できますが、その考えが「モラル」や「最低限の礼儀」のようなところにまで持ち込んでいる人もまた増えてきています。普通や当たり前という概念を持たないことは、自分の誤った行動を正当化するために使っても良いという事ではありません。

ここに書き出すにあたり、私自身も気をつけねばと感じています。
多様性も矛盾も、いい塩梅で私生活に取り入れていきたいですね。
走り書きでしたが、また脳内が整理出来たら丁寧に記載したいです。



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