【リレーエッセイ】#05「日本語教育、そして日本語教育学との出会い」衣川隆生(日本語教育学)
現在、大学では日本語教員養成課程と日本語教育学のゼミを担当している衣川隆生です。この大学に来るまでは、どちらかというと日本語を母語としない外国ルーツの人に日本語を教える日本語教育が中心で、私自身「教育」が専門だと考えていました。これから少し私がなぜ「日本語教育」に足を踏み入れたのか、そして、なぜ「日本語教育学」を専門とするようになったのかをお話ししたいと思います。
大学の教員というと、学生時代からまじめに学問に励み、研究を続け研究者、そして教育者になったんだろうと思う人も多いかもしれません。しかし、実際にはいろいろなキャリアを積んで、ひょんなきっかけから研究の道に足を踏み入れた教員も多いと感じます。私もその一人かもしれません。
私は実家が商売をやっていたこともあり、大学を選ぶ際には、「なんとなく」経済学部を選びました。その志の低さのせいかもしれませんが、「なんとなく」進級し、就活もせず、ゼミにも入らず、卒論も書かず、大学を卒業しました。あまり誇れた学生生活ではありません。
それでも大学3年生も終わりに近づいてきたころ、さすがに将来のことを考えるようになりました。「じゃ、どうしよう」となったとき、これまた「漠然と」海外で働きたいと思うようになりました。ここまでの選択は「なんとなく」「漠然と」決めてきた進路です。明確な目標や目的、意志もなく生きてきた人だと思われるかもしれません。
では、どんな資格を身に付ければ海外で働けるのか、と調べて見つけたのが「日本語教師」でした。ここでもまず「海外」が念頭にありその手段として「日本語教師」があったのです。私が大学生だった年代には、日本語学校の数は少なく、教員養成を行っているところもわずかでした。なんとか見つけた学校で講座を受講を始めたのが日本語教育との出会いでした。私はそこで始めて「自分の将来」と「学ぶこと」がつながるのだと感じました。
もう一つ大きな収穫がありました。それはその養成講座に通っている人たちとの出会いでした。受講者同士で自主的な勉強会も始めたのですが、そこに集う人の年齢層は代後半から代までと幅広く、ほとんどがセカンドキャリアを模索している人でした。学生は私一人で、最年少でした。当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、そこで本当に自分の教養のなさ、知識の少なさを思い知らされました。謙虚に生きよう、と学んだのもその結果かもしれません。
学生時代の、今につながるもう一つの学びについてお話ししたいと思います。それは勉強会に参加している人たちと勉強したことを活かせるような実践の場も持ちたいと始めたボランティア活動です。当時、神奈川県大和市にはインドシナ難民を受け入れていた大和定住促進センターがありました。センターでは日本語学習も行うのですが、退所後も継続的に日本語学習を行う場として日本語教室が開設されていました。そこに勉強会のメンバーと一緒にお手伝いに行ったのです。毎週行っているうちに、親と一緒に来ている代の二世の人たちと仲良くなりました。そして、彼らが原付バイクの免許を取りたいが、試験の日本語が難しくて合格できないという話しを聞きました。「じゃ、一緒に勉強しましょう」ということで「原付講座」を始めました。
講座を進めるうちに、「現実世界」における交通規則の中に「文型(形式)」が表す「意味」を織り込んでいかなければ効果はないと考えるようになりました。「文型(形式)」というのは「○○しなければならない」、「○○してもいい」、「○○してはいけない」という文の形を指し、「意味」というのは「義務」、「許可・許容」、「禁止」などを指します。交通規則の中には「義務」、「許可・許容」、「禁止」がやたら出てきます。試験で正しい選択肢を選ぶためには、実際の道路の状況やまわりの様子などを頭の中でイメージして、そこで「○○する」ことが「義務」なのか、「禁止」なのか、「許容」されているのかを判断する力を身に付けなければなりません。
では、その判断能力を身に付けるにはどうすればいいのか。そのためには「文型(形式)」だけを取り出して抽象的な説明をしたりするのではなく、「現実世界」の中での「文型(形式)」の使い方と「意味」を理解させなければならないと考えるようになりました。このような考え方は言語教育の関係者の間では「言語教育観」と呼ばれます。学生時代に身に付けた言語教育観は、今でも私の教育観の土台となっていると思います。私の教育観がどのように変容し、その結果、最近の研修でもよく取り上げる「構成主義的教育観」に至ったかについては次回以降に取り上げたいと思います。