【リレーエッセイ】#04「文学との出会い、太宰治との出会い」山口俊雄(近現代文学)
近現代文学を担当している山口です。私がどういう経緯を経て、文学への関心を深め、文学研究者になったか、綴ってみることにします。
丙午(ひのえうま)の年に奈良市で生まれましたが、すぐに大阪府S市に転居。小3になる時にK市の、駅から遠い自然豊かな土地に作られた新興住宅地へ転居、高校卒業までそこで過ごします。転居したのが春休みで、学校が始まるまでの間、友だちもいない状態で新興住宅地の中をローラースケートで駆け巡ったあのときの解放感と孤独、白紙状態の感覚はいまでも忘れられません。
お約束の(軽い)いじめの洗礼を経て新しい場所に溶けこんでゆきましたが、ハード面でもソフト面でも文化的刺激に乏しい土地だったものの、内向的でシャイな人間なので、少年時代に豊かな自然との対話を通じて内面世界を育めたのは悪くなかったと思っています。のちの文学の世界への親炙とも関わっているはずです。
小5ぐらいから、えせ楽器でバンドのまねごとを友人と始め、楽器が十分揃わない中、オリジナル曲すら作ったりもしていましたが、あの熱気は何だったのか。あの頃、夢中になったのはスポーツでもなく、読書でもなく、もっぱら音楽でした。
というわけでなかなか文学のほうへは向かいませんが、家に母親が会社員時代に買い揃えたという新潮社の赤い箱の日本文学全集があり、漱石の巻をぱらぱらめくったりするぐらいでしたが、背表紙にある作家名などは自然と覚えてゆきました。
中学2年ぐらいだったかと思いますが、バンドのまねごと仲間の一人でスポーツ抜群勉学抜群早熟型のY君から、「山口、「人間失格」って読んだことあるか。これちょっとすごいで。」と勧められたのがきっかけで、太宰に出会います。ほぼ同時期に国語の授業で「走れメロス」も読まされたはずなのですが、まったく記憶にありません。私の太宰との出会いは、取りも直さず「人間失格」との出会いでした。
自尊と自嘲のバランスが不安定ないわゆる思春期のさなかにあった私に、「人間失格」はどう刺さったか。ここに書かれているのは自分だ、といったような単純な共感では決してなかったように記憶します。語り手の大庭葉蔵(おおばようぞう)の他者認識・世界認識は暗すぎるように感じましたし、育ち方もあまりに違う。時代も場所も違う。
強烈な印象を受けたのは、大庭葉蔵の自分は違うという他者との線引きの鮮やかさでした。自尊と自嘲との間を無秩序に揺れ動き、周囲との距離をうまく取れずにいた自分に痛切に感じられたのは、葉蔵のように割り切れたらどれだけラクになるだろうということでした。今思えば、そういう読み方がどこまで作品の言葉に忠実だったのか、疑問もありますが、当時、「人間失格」はそのような角度から強烈に刺さってきました。
「人間失格」をそんな風に受け止めたあと、同じ太宰治の作品を、旺文社文庫に入っていたものなど、女性一人称語りの作品を含めいろいろ読み広げてゆく中で、言葉で、言葉を並べるだけで、こんなにいろいろな人物、人物を取り巻く状況を描けるんだということ、そのすごさに(遅ればせながら)気付き始めます。
そうや、全部言葉で創られているんや、と気付くと、母親の赤い箱の文学全集も自分のために用意されていたように感じ始め、いわゆる無頼派系の坂口安吾や織田作之助をはじめとして、いろいろ読み漁り始めることになります。
こうして太宰治「人間失格」をきっかけに文学への関心を育んだ結果、大学は文学部へとなったかというと、そうスムーズには行かないのが人生です。(続く)
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