いつかのはなまる

子どもの頃の自分の好きなエピソード。
計算ドリルの丸つけをするとき、自分の書いた数字が正答と合わなかったら、正答に二重線を引いて、その横に自分の答えを書き写して、自分が書いた回答欄の答えに赤丸をつけていたことがあった。
当時の自分の名誉のために言っておきたいのだけど、ずるをしているつもりは微塵もなくて、一度本当にミスプリがあったのだ。
大人が一緒に計算してくれて、「これは間違いだなぁ」と言ったときの「答えだって、間違ってることあるんじゃん」という衝撃を今も覚えている。
以来、計算ドリルの正答ページに、ちらほら二重線が登場するようになった。

大人になってから何度か、子どもの頃の恥ずかしいエピソードとして披露しているのだけど、実を言うとさほど恥ずかしくはなく、当時の自分に、いいぞいいぞ、とすら思っている。
恥ずべきは、聞き手が当時の自分を可愛らしいと思ってくれるに違いないと確信している今の厚かましさなのかもしれない。
まぁそれもあんまりピンとこないから、結局は今も、正答に二重線引くようなことをときどきしてるんだろうな、多分ときどきだと思うんだけど、そんな感じで大人をやっています。

帰りの電車に揺られてるときとか、スーパーのレジ待ちの列が進まないときとか、本当に、生活の中のなんでもないシーンで、何のきっかけもなく、「あ、そうだったんだ」って、わかる瞬間がある。
何かを好きって気持ちは、どれだけ詳しいか、どれだけお金や時間を使ったか、だけじゃなくて、どれだけ満たされるかで決めていいんだ、とか。
水泳を長く続けていたけれど、好きなのは泳ぐことっていうより、水中に存在していることだったんだな、とか。
歌もラジオも、ききたくないことをかき消すためだけのものじゃないんだ、とか。

子どもの頃ずっと、どうしたらいいのかわからずにいたこと。
正解があるなんて考えもしなかったこと。
何年忘れていても、自分のどこかに残っていた疑問や不思議、違和感。
そういうのが、ふっと解放される瞬間がたまにある。

答え合わせをしているな、って思う。
他人に救われた経験も、感謝する気持ちも、人並みにあるつもりなんだけれど、全身で、本当に本当だ、と思えることに辿り着けるときって、自分ひとりしかいない。
誰かに話せるようなエピソードじゃないけれど、赤丸あげたい日の私は、多分まだいる。
なんか、大人になって良かったし、もう少し、やってみようと思います。

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