三女神様はサイコロを振らない

その時は突然やってきた。突然、と言っても、いつかはそうなるんじゃないか、その『いつか』は、そう遠くない未来なのではとは思っていた。

「トレーナーさん。少しお時間よろしいでしょうか」

トレーナー室で事務作業をしていると、理事長秘書のたづなさんがやってきた。たづなさんの表情、度々俺の元に訪れてきた際の彼女の言動、そしてここ最近の担当ウマ娘の戦績を鑑みれば、彼女が何を言いにきたのか分かってしまう。

「担当ウマ娘さんは…」

寮に戻っている。ここには来ないはずだ、と伝えると、たづなさんは大きく息を吐く。

「そうですか。それでは、本題に入らせていただきます。…トレーナーさんと担当ウマ娘さんとの関係解消の勧告にやってまいりました」

新人トレーナーである俺の、初めての担当ウマ娘。スカウトにやってきた俺を『新人』という色眼鏡で見ずに、パートナー関係を承諾してくれた。

トレーナーとして初めて育成を担当したウマ娘なのだから、やはり気合いを入れて育成を担当した。彼女も、俺なりに理に適っていると感じたトレーニングについてきてくれた。しかし、未だに1着の景色を見せることはできず、ついに関係解消のお達しがやってきた。気合いが空回りした、というわけではない。俺の持つ全てを彼女に叩き込んだつもりだ。ただ、それだけでは足りなかった。

「関係解消を悪い意味で捉えていただきたくない、というのがこちらの考えです。トレーナーさんと担当ウマ娘さん、お互いのステップアップのために。……こういった言い方は不適切だとは思いますが、珍しい話ではありません」

ウマ娘として大成するのは一握り、という話はトレーナーの中でも共通の見解だ。実際、トレセン学園の入学は他のトレーニングセンターと比べても狭き門だと言われており、その中でさらに選抜レースが存在し、我々トレーナーが素質のあるウマ娘をスカウトする、とメイクデビュー前から何度も水面下で競争が行われる。その上で、活躍できるのはほんの数人。心苦しい話ではあるが、担当トレーナーがつかないウマ娘もいる。

無論トレーナーもそんな彼女たちに見合うだけの努力をしてきている。中央のトレーナー採用試験では合格者0という年もあり、学歴だけで、コミュ力だけでどうとでもなる職種ではない。

だからこそ、俺はトレーナーとなった自分に自信があった。知識は人一倍有している。ウマ娘への想いも誰にも負けていないつもりだ。新人であったとしてもG1ウマ娘を輩出したという事例もたくさんある。彼女もきっと…と、夢を見ていた事も否定しない。なぜ、こんな結果になってしまったのだろう。

俺が、ダメだったのか。

「誰かが悪い、というわけではありません」

ならなぜ、関係を解消しなくちゃならない?

「それは……関係解消の通達、と言っても、あくまで最終決定権はトレーナーさんと担当ウマ娘さんにあります。あなた方で納得のいく決断をしていただければ」

独り言のような俺の呟きを丁寧に拾ってくれるたづなさん。こんな事を言っても困らせるだけ。頭では分かっていたのに歯止めが効かなかった。たづなさんが好きでこんな話をしているわけではないのも分かっていたが、瞳を真っ直ぐに見ることができなかった。自分でも信じられないくらい、憎悪の目で見てしまいそうだから。
 
とあるウマ娘がいった。一流のウマ娘には才能と努力と運、この3つが完璧に備わっていると。では、俺の担当する彼女には何かが欠けていたのか。

才能はあった。トレセン学園に入学している時点で才能はあるといえる。その才能をいかにして伸ばしていくか、という部分をトレセン学園で学んでいく。

努力もしていた。文字通り、血の滲むような努力を。乗り越えれば必ず成長できる、という厳しいトレーニングを与えても、何時間、何十時間、何日もかけてこなしていた。

運が悪かった、というわけではなかったはずだ。枠順や天候で大きく不利になったレースは無かった。もちろん、彼女の世代に有望株はいたが、そんな彼女たちの出走するレースには出られていない。時代が悪かった、という言い訳は通用しない。

自分でいうのもなんだが、俺だって才能も、努力も、運も有している。超高倍率の中央のトレーナーライセンスを取得し、睡眠時間を削って彼女に打ち込み、少し抜けたところがあるものの真面目で熱心な担当ウマ娘を持つことができた。そこまで尽くしてきたのに。なぜ彼女を真の意味での『ウマ娘』にしてあげられなかったのか。

振り返ってみても、大きな失敗はしていなかったはずだ。彼女の身体能力を数値化し、彼女に必要なステータスを言語化し、そこから資料を漁り合理的かつ効率的なトレーニングを施してきた。同期には焦るあまり担当ウマ娘を壊してしまったトレーナーもおり、同じ轍は踏まないと彼女のアフターケアまでつきっきりで。先輩トレーナーから休日の担当ウマ娘との向き合い方を伝授してもらい、彼女をお出かけに誘いリフレッシュさせた。その際、彼女を理解するためにたくさん話をして、共通点を見つけ、関係を築いて、信頼を得て。

勝てない日々が続いても決して悪態などつかず、同期が次々と活躍していき自己肯定感が低下していく中、彼女だけには頼れるトレーナーとして見てもらおうと、なんともないように、それでいて、成長に合わせトレーニングを模索して。彼女が思わず吐露してしまった弱音を、ヘタクソな励ましの声でかき消して。それなのに、なぜこの結果なのか。

誰でもいい。答えがあるなら教えて欲しい。たとえそれが取ってつけたような答えであっても、俺は無理やり納得できる。

関係解消の最終決定権は俺たちにある。俺たちが納得のいく決断を。仮にそれで関係を継続するという選択をしたら、状況は変わるのか?変わらない、と思い込んでいるのは…トレセン学園上層部も変わらないと考えたため通達をしてきたと思ってしまうのは、俺が悲観的に考えすぎてるだけだろうか。



翌日。トレーニング終わりに彼女をトレーナー室に招いた。俺1人で結論を出すわけにはいかない。加えて、こういう話は早い方がいい。先延ばしにしても辛いだけだ。

いつも以上に饒舌な、まるで俺が言わんとする事を察し、必死にその話題を避けようとする彼女の声を遮り、関係を解消しないか、と告げた。

嫌です、と彼女は即答した。はっきりとした…はっきりとしすぎな物言いだった。これは悪い意味じゃないんだよ、と昨晩のたづなさんの言葉を伝えても、彼女の意志は固かった。

ウマ娘が引退する理由は大まかに分けて三つある。一つ目は、レースに出走できないほどの大怪我を負ってしまった時。これはどのスポーツにおいても変わらない。二つ目が、周りとの力量の差に打ちひしがれレースを離れる選択をする時。多くのウマ娘はこれに該当する。三つ目は、全盛期を過ぎ周りについていけなくなった時。基本的にここまで到達したウマ娘は成功したといえる。

どうする事もできない一つ目を除き、引退するかどうかはウマ娘に判断が委ねられる。勿論そこにトレーナーが関与している場合もあり、引退を勧告するケースもあるし、留意するケースもあるが、ウマ娘が走りたいと思う限りは戦績問わず走る事ができるのだ。しかしながら、プレッシャーに押しつぶされ引退を選ぶウマ娘が多くいるのも事実。

話が少し飛躍したが、つまるところ彼女はまだ諦めるという選択を視野に入れていない。その前提の上、冷静に考えれば彼女にとって関係解消はパッとしない現状を変えるための手段。勝ちだけを望んでいるウマ娘ならば、勝たせてくれないトレーナーの元に居るよりはと喜んで受け入れるはずだ。だが、彼女はそれを望んでいない。きっと俺に引け目だとか、恩を感じてしまっているのかもしれない。

言葉を選んでその事を述べていると、彼女が口を開いた。

確かにアタシはウマ娘だから、勝ちたいから走っています。でもアタシはトレーナーさんと勝ちたいんです。アタシが1着でゴールして、ふらふらになりながら胸に飛び込む先はあなたじゃなきゃダメなんです。

俺だって何度その光景を夢見たことか、という言葉をグッと飲み込む。

彼女は続ける。トレーナーさんよりも育成の上手いトレーナーがいる事は知っています。トレーナーさんよりも褒め方や励まし方が上手いトレーナーがいる事も知っています。お出かけに行った時にお金がないからとファミレスでただ駄弁って時間を潰す、なんてプランを実行する情けないトレーナーは、気分転換に勝負服のデザイン画を描いてみよう、なんて意図の分からない提案をしてきて、ここはアクセントとして色を変えてみないかだの、胸元を出しすぎじゃないかだのお節介な口出しをして、アタシをただ虚しくさせるトレーナーはトレーナーさんだけだという事も知っています。それでも、トレーナーさんがいい。トレーナーさんじゃなきゃダメなんです、と。

俺じゃなきゃダメだなんて言われるほど特別なトレーナーではない、と返すと、アタシにとっては特別なんです。トレーナーさんが自らを特別にしたんです、と。皮肉にも彼女の想いを、本心を、こんな状況で伝えられて、溢れそうになった涙をグッと堪える。感情に流されてはダメだ。俺と彼女にとって、ではなく、彼女にとって最良の選択を。トレーナーが願うのはいつだって担当ウマ娘の成功だ。仮に、担当トレーナーとして居られなくなっても。

そんな俺の心を見透かすように、彼女は俺がどうしたいかと聞いてきた。トレーナーさんはアタシと関係を解消したいのか、と。

それを口にしたとて、という考えが俺にはあった。非情と言われてしまっても構わない。それが事実であり、リアルであり、現実であるのだから。

分かりました、と彼女は声を漏らす。立ち上がると俺の前に立ち、鼻を思い切りつまんできた。ぶん殴られてもおかしくはないと思った。蹴り飛ばされても文句は言わないつもりだった。どんな罵詈雑言も受け入れると。それでも、彼女がそうしてささやかな反抗にとどめたのは、やはり俺に普通以上の恩や何かを感じていたのかもしれない。

ぎゅぅぅ、ぎゅぅぅっと俺の鼻をつまんだ彼女は、大きく息を吐き、力を込め、気合が入ったとしか言えない声量で、こう言い放った。

アタシが次のレースで勝てばいいんです。トレーナーさんのご指導は間違っていないと、アタシのトレーナーはトレーナーさんしかいないと、走りで証明すればいい。覚悟しておいてください。1着を取って、アタシが好きだった、大好きだったトレーナーさんに戻ってもらいます。

俺と彼女の、最後になってしまうかもしれないレース。彼女は7番のゼッケンを身に纏っていた。

ラッキーセブンですよ、ラッキーセブン。毎日校舎周りのゴミ拾いをした甲斐がありました。神様もアタシに味方してくれていますね。って、味方してくれてるなら内枠にしてくれてるはず…なのかな?

緊張からか引き攣ったように笑う彼女の背中を、言葉もまとまらないままそっと押した。そうして普段以上にガチガチになっている俺を見た彼女は、そんなんじゃアタシのトレーナー失格ですよ、と震えながらそれでも冗談混じりに言い残しパドックへと向かった。

アタシのトレーナー失格、か。そうだよな、俺が弱気になっちゃダメだ。

彼女は6番人気。お世辞にも有力ウマ娘とはいえない。それでも、気迫だけならどのウマ娘にも負けていないはずだ。

偶然でもマグレでもなんでもいい。勝ってくれ。不謹慎と言われても構わない、彼女以外の出走ウマ娘は全員スタートと同時に怪我しない程度にすっ転んでくれ。そのままゲート付近で突っ伏していてくれ。

ゲートに入る彼女を見て、想いが次から次へと溢れ出してくる。

他のトレーナーが彼女の担当になる?ふざけたこと言うな。彼女の1番の理解者は俺だ。彼女は俺が担当トレーナーである事を望んでいて、俺も彼女が担当ウマ娘である事を望んでいる。ただそれだけの話だというのに、どうしてこんなに苦しまなければならない?どうして彼女が昨夜、不安に押しつぶされ泣かなければならない?どうして俺は、目元が腫れたままの彼女を送り出さなければならない?どうして俺は、そんな彼女に俺たちの全てを託すことしかできない?

神様、今日だけは彼女に勝たせてあげてください。それ以上は何も望みません。明日からも、この先もずっと、彼女と一緒に居させてください。そのために、俺は全力を尽くしてきたんです。俺はこんな想いをするためにトレーナーになったわけじゃないんです。俺はこの世界の誰よりも、今日の彼女の勝利を願っています。だから…どうか、どうかお願いします。

神様だけには、本当の俺を見せることができた。

レースが始まる。彼女はスタートで少し出遅れたようだ。だが彼女の脚質を考えれば大きなロスにはならない。前日何度も、何度も何度もやってきたシミュレーション通りにレースを運ぶ彼女。順調だ。本当に彼女はやってくれるかもしれない。いや、やってくれるに違いない。

最後の直線。行け、と俺が声を上げるのと同時に彼女が溜めていた脚を解放する。仕掛けどころは完璧。ぐんぐんと着順を上げていく彼女。そのまま…そのまま…

やっぱり1着は4番だったな。

完璧な逃げ切り勝ちだった。

7番は4着、か。予想以上に頑張ってたけど。

あとひと伸びといったところだな。

7番、そろそろ勝たないとヤバいんじゃないか?

目を覆っても周囲の観客からレースの結果が嫌というほど耳に入ってくる。レース場では無情なほど淡々と速やかにウイニングライブの準備が進められていた。

結局のところ、トレーナーとウマ娘との絆や信頼関係、これまで積み上げてきた俺と彼女の云々がレースでは大して役に立たないのだと痛感した。もしそういった精神論的な部分がレースに多大な影響を与えるとするならば、彼女は今日のレースで勝っている。さらに言えば、彼女はすでにG1ウマ娘であるはずだ。

神頼みなんて意味がない。偶然やマグレなんて起こらない。レースは実力で勝つものなのだから。

決して目を合わせようとしない彼女がやってきた。俺は何と声をかけるのが正解なのだろう。彼女も、何も言わずゆっくりと、俺の胸元にこつんと頭をぶつけてきた。

もう、我慢ができなかったんだろう。

人目も憚らず声を上げて泣く彼女を見て。アタシがダメだったんです、アタシが悪いんです、アタシが弱いから、と嗚咽しながらそれでも言葉を紡ぐ彼女の声を聞いて。彼女の背に手を回し抱き寄せる事もできなくて。頬を滴り、顎の先で大渋滞を起こし、彼女の頭に落ちた涙も拭わず立ち尽くすことしかできなくて。

俺の中で何かが瓦解する音がした。

その日のうちに、俺は学園長の元へ関係解消を受け入れる旨を伝え、同時にトレーナーを辞職する事を伝えた。長期休職という形にする事もできる、と説得されたが、俺は考えを変えるつもりは無かった。

もう無理だと察した。どれだけ担当ウマ娘に最適なトレーニングを伝授しても、どれだけ担当ウマ娘に人生を捧げても、どれだけ担当ウマ娘の勝利を願っても。これが結果だ。結果より過程が大事?いや違う。入念に過程を積み重ねていっても、結果が無ければ意味がない。結果を出して初めて過程が評価されるのだ。結果が全てのこの世界において、俺たちはこんなに頑張ってきたんだとアピールしたって、得られるのは周りの同情と救いようのない虚脱感だけ。

そして、何より耐え難いのは、なぜこの結果になったのかが分からない。何が良くて何が悪かったのか。なぜ勝てないのか、何が周りと違ったのか、なぜ、何が、なぜ、何が。教科書が無い。どこを探しても答えが見つからないのだ。

俺はこのままトレーナーとして、きっと何人ものウマ娘の育成を担当する事になるだろう。育成をするだけなら良かった。トレーニングだけを考えて、トレーニングだけを観察して、レースに出して、使えないと思えば迷わず切り捨てて新しいウマ娘を招き入れて、トレーナーとしての自分の経歴を豊かにするただそれだけに尽力するだけなら。育成ゲームのようにトレーナー業をこなすだけなら。

俺にはそんな事できない。必ず情はわくだろうし、担当ウマ娘と喜び合い、いがみあい、悩みを分け合い成長して行くのがトレーナーだと考えている。ただ『悩みを分け合う』という部分についての認識が甘かった。

ウマ娘として大成するのは一握り。裏を返せば、大多数のウマ娘は成績が振るわない。必然的に俺たちトレーナーはその大多数のウマ娘を担当し、今の俺のように虚しさだけが残る。今回はダメだったと、次回もっと頑張ればいいと、すぐに切り替えられるほど冷酷ではない。人並みに人間味があり、まともな考えを持つ俺はトレーナーには向いていなかった。狂人に染まる事はできなかった。

彼女の次のトレーナーへの引き渡しも全て学園側に投げ出して、俺はトレーナーバッジを返却した。最後に無責任だと分かっていながら、彼女の今後の成功を祈って。



その後、かなりの時を経て俺は地元のちびっ子ウマ娘クラブのコーチの職に就いた。まだ走り方もままならないウマ娘たちに指導をしていく。トレーナーを辞めた俺に残っているのはトレーナーとしての知識だけであったし、夢見る幼いウマ娘たちをスタートラインに立たせてあげるだけなら精神的にも幾分か楽で、俺にもできない事は無かった。

中央でトレーナーの人員が足りないように、こうしたクラブでも教育者の数は足りていなかった。クラブで受け持つウマ娘の数も桁違いではあったが、それでも、目を輝かせながら俺の指導を待つウマ娘たちのためにトレーニングを施す。

責任から逃げた自覚はある。けれど、やはり俺はウマ娘のために尽くしたいという想いだけはある。無垢な彼女たちが羽ばたいていくだけの翼を与える。その後は、俺より能力的にも精神的にも優秀なトレーナーの元で四苦八苦しながら、それでも君だけの翼を広げて自由に飛んでいってほしい。そう思えば、トレーナー時代と同等の激務もこなすことができた。

クラブのウマ娘に自由時間を言い渡し、木陰で休む。今日は日差しが強いため、水分補給をこまめにするようにと指示したが、彼女たちはへいそーだへいそーだとコースを走り回っている。純粋なほど、走る事を楽しんでいる。

彼女たちのほとんどは、数年後走る事が苦痛だと感じてしまうのかもしれない、という感情を必死にふりほどく。そんな彼女たちを見るのが嫌で、俺はこうして逃げてきたわけなのだから。そこから先は俺の領分ではない。

俺が唯一トレーナーとして担当した彼女は、あのあとその名をニュースや記事で見ることはなかった。俺が持っている情報はそれだけだ。彼女が今、どこで、何をしているのか。知りたいとは思っているが、その資格は無いだろう。ウマ娘とトレーナーは一期一会の関係。例えどんな別れ方をしても、それを受け入れるしか無い。

もう10分だけ休憩しよう、と大きく伸びをすると、頬にひやっとした何かを押しつけられた。驚いて見てみると、ペットボトルに入ったスポーツドリンクだった。

ドリンクを差し出してきた先を見ると、ひとりのウマ娘が小さく笑っていた。クラブに所属するウマ娘の母親、というにはまだ若いと感じるが、現在俺が指導している子たちより一回りも二回りも大きい子だった。

彼女は呆気に取られる俺の隣に座り、聞いてもないのに自分語りを始める。

「アタシ、あのトレセン学園のウマ娘だったんですよ」

…あぁ、知ってるよ。

「まぁ、色々あったんですけど、結局一度も勝てずに引退しちゃって」

そうか。それは…トレーナーが悪いな。ははっ。

「それでですね、ド派手に就職活動も失敗しまして。いや、ちゃんと頑張ったんですよ?ただ、実績がちょっと…ね?やっぱトレセン学園のブランド力だけでどうこうはできませんでした」

見慣れた表情で、聞き慣れた声で、感じ慣れたあたたかみで。彼女は待ちきれないというように言葉を続ける。

「で。めげずに職を探してたんです。折角だし、現役時代の経験を活かしたいなぁ、と思いつつ。そしたらここを見つけたんです。見たところ、トレー…あなた1人でこの場を回してるっぽいじゃないですか。大変でしょ?だからアタシもお手伝いしようかなって」

もちろん、と俺は答えた。是非一緒に、と添える。彼女は全身を使って喜び、就活を棒に振ってトレーナーさんを探した甲斐がありましたよ、とおそらく言うつもりでなかった真実を口に出し、すぐさまその口を覆った。初対面という設定を貫こうとしていたがボロが出てしまったようで、決まりが悪そうに舌を出す。

「……いやぁはは、あれでアタシたちの関係が終わりって嫌じゃないですか。だから色々探し回ったんですけど、見つからなくて。こりゃもう無理かな〜って公園で絶望してたら、ウマ娘ちゃんたちが鬼ごっこしてたんですよ。鬼役のウマ娘ちゃんが無双してたんですけど、その走り方が気になりまして。というか、アタシがいつぞやにご指導いただいた走法と酷似してるなぁって。話を聞いてみると、クラブでせんせーに教えてもらったって言うじゃないですか」

どうやら彼女は偶然俺の元に辿りついたようだ。マグレにしてはできすぎている気がするし、何か特別な力が働いた、としか思えないが、現に会えたのだからどうだっていい。

とりあえず皆にご挨拶したい、と彼女が言うので、クラブの子たちを集め彼女を紹介した。彼女は、この方の一番弟子はアタシなので!皆は二番弟子!そこの線引きはしっかりしていきましょう!ね、トレーナーさ…コーチ…いやアタシもコーチなのか?…ともかく!この人を1番理解しているのはアタシなので!なんて、訳の分からない対抗心をむき出しにして幼きウマ娘たちの困惑を誘っていた。彼女たちが仲良くなるのはもう少し時間がかかるかもしれない。

結果が全てだ、とかつての俺は思っていた。今だってそう思っている。だからこそ、あの挫折すらも過程であり、こうして彼女と出会えた事を、彼女が何のわだかまりも持たずに俺と接してくれて、俺も彼女との再会を手放しに喜んでいる今を結果とするならば。

俺と彼女のこれまでの、そしてこれからの日々は、案外悪くないのかもしれない。

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