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あくまで個人の感想です#4 笑うってのは

書き始めてから例によって時間を掛けすぎ、すっかり旬は過ぎましたが、M-1グランプリを観て、また考えたあれやこれや。


 気づけば年末で、いつものこの時期のお笑い賞レース、M-1グランプリの季節がやってきた。

 青臭いと思う人もいるだろうと感じるくらい、決勝の舞台を目指してひたすらに芸を磨いてきた芸人たちの、これは青春である。
 年齢こそ、春と呼ぶには遅い芸人もいるだろう。それでもこれは青春と呼ぶに相応しい情熱と、真剣勝負の舞台である。

 そもそもこの「お笑い」と「コンテスト」って相性どうなんだろう。今回ちょっと久しぶりに観たのだが、エントリー芸人の緊張した様子も写し出され、そんな演出のせいか熱量の高さが感じられる。そして披露されるネタ。

 キングオブコントなど、他にも有名なお笑い賞レースはいくつかあり、それに優勝するということは芸人として大きな勲章であり、その後の芸能生活にも大きく影響する。優勝まで届かなくともファイナリストまで残れるだけでも、大きく名を知らしめるチャンスとなる。
 私はどうも、なんとなく、いつも、少々の重い空気と構えた気持ちで見てしまう。
 ネタを喋り、観客を笑わせる。その芸が審査され、優勝が決まる。
 その緊張感と、笑いの同席というなんとも不思議な場面ではないか?

 しかしそれを超えて訪れる笑いこそがこのお笑いの賞レースの醍醐味なのかもしれない。真剣な心持ちで見ているのに、ぷっと吹き出してしまう。思わず、上手い! と感心させられてしまうネタの運びに笑い、これはすごいと感嘆する。

 身構えて見たといいつつも、結果としては大いに笑った。ここ最近でのM-1での個人的思い出深い爆笑といえば、錦鯉「おじいちゃんの寝かせ方」を披露した渡辺隆であるが、今回はそこまでのストライクはなかったように感じる。それでも今回は、くらげのネタがミルクボーイを想起させるとは言われつつも確かに「女子ウケ」はした。リップのブランド名を連ねてからの「ちふれ」のタイミングの良さは秀逸であった。

 思いっきり笑う、思いっきり泣く、どちらもストレス発散には効果的と言う。大きな口を開けて、大きな声で笑い、鼻水も嗚咽も恥じることなく泣く。そこまでいかなくとも、普段はよそ行きにしている顔を崩して、泣き笑う。
 普段私達は、個人差はあれどある程度は世間体のようなものを取り繕って生きている。おとなになるということは、成長することだけではなくこの世間に対しての取り繕い方をマスターすることではないかと思っている。よっぽどのことがない限りは、普通の人は家の外で声を荒げて怒鳴り散らしたり、他人の迷惑を顧みずに笑い転げて騒いだり、身勝手に行動したりはしない。社会一般の規律を守り、常識とマナーのある生活を送っている。
 笑ったり泣いたり怒ったり。それでも他所様に迷惑をかけたり驚かせたりはしないようにして生きている。
 だからなのか、人はドラマを求め、感動したり腹をたてたり悲しくなったりして感情を揺らす。喜怒哀楽の波とは生きていることの強い実感につながるのではないか。

 舞台裏、衣装を身に着けて待つ。舞台の中央にはマイクが一本。ライトに照らされ、あとは喋りひとつで勝負である。手が震える。足が震える。体が固まる。それでも出囃子に呼ばれ舞台に出てゆけば、笑顔で大きく最初の一声を叫ぶ。きっと、心臓が飛び出しそうなほどの緊張と恐怖と戦いながら喋っているだろう。それでもやってやるぜと練り上げたネタを喋る。

 南海キャンディーズ山里亮太とオードリー若林正恭の自伝的ドラマ「だが、情熱はある」。たいへん評判の良いドラマだったようで、見ておけばよかったと後悔はつのる。
 見ていない身としてはこのくらいしか語ることはできないのだが、このタイトルである。なんというタイトル。売れないお笑い芸人という悲喜交々を表すのにこれ以上のタイトルはないくらい、個人的大ヒットタイトルだ。
 音楽にしろ演劇にしろ、自分のやりたいことがイコール「売れる」とは限らない。売れる、世間的に一定の評価を得られる。自分たちのやりたい「表現」だけを貫き、それを得られる人間など一掴みのさらに一掴みだろう。それこそ天性である。しかし、本当にそれだけを貫き通してのそれらを得られるなど、奇跡のような存在ではないか。
 見ている人がいる。そこに表現をぶつけ、見た人に感情の波を起こさせる。その波は、思ったような波か。求めていたウェーヴなのか。求める波とはどんな波なのか。その波を呼び起こすためにはどうしたらいいか。
 すぐになど、うまくはいかないだろう。
 お笑いという舞台で、笑いの波を呼び起こす。ふざけてみせたり大真面目に怒ったり語ったり、予想外の展開を重ねて、話に引き込んでは笑いを呼ぶ。思い通りの波など、そう簡単には来ないだろう。それでも大きな波を呼ぶべく、情熱を燃やすのだろう。
 うまくなど簡単にはいかない。だが、情熱はあるのだ。
 情熱の炎の色は様々だ。赤く燃える炎もあれば、静かに青く燃える炎もある。それぞれの炎がMー1という勝負の場で火花となる。

 白鳥の湖を踊るプリマが、踊りを磨き上げるまでの努力や、傷だらけのつま先のことなど微塵も感じさせずに優雅に舞う。見せるべきは背後に積み重ねた努力ではなく、その末に完成させた舞だろう。
 しかし、積み重ねた努力は必ず芸にその色をにじませると私は思っている。こう言うと我ながら古い人間になったなあとも思うが、努力に裏打ちされたものというものは、きっとそれとわかるものだと。

 この裏打ちされた努力が光となるのが、この賞レースの舞台での火花ではないか。てっぺんを獲るぞという気迫と、笑わせてやるぞという構えが重なったときに、ぶつかりあって火花となる。この火花は不思議なもので、大型特番でたくさんの芸人がネタを披露する番組ではこの火花を感じることはない。きっと隠しているのだろうと私は考えている。
 その隠していた火花を散らし、勝負に賭ける。なんというドラマだろうか。負けん気と、爪痕だけでも残してやろうと狙う虎視眈々とした目線。これを笑いのネタにくるりと包みこんで、こちらに向かって投げつけてくる。
 ああそうか、この揺さぶりを、この舞台に求めているのかもしれない。
ネタで笑わせておいて、ドラマを魅せつけてくる。まんまと揺さぶられて、感情を揺らし、波を起こす。

 私から発する波は、果たして演者の求めているような波なのだろうか。そうでない波だってあるだろう。そんな観客ひとりひとりが生み出す小さな波が集まって、また思いもしない波になるのかもしれない。その波は演者を驚かせるかもしれない。その驚きはまた新たな何かを生みだすきっかけになるのかもしれない。

 笑って泣いて驚いて。ああ今年も一年よく生きたな。

 そんな風に思ったりする、そんな年の瀬のお笑い賞レース。
 泣いても笑っても怒っても、年は明けてまた新たな一年がやって来る。
 また来年、喜怒哀楽で生きましょうよ。

 笑うって、やっぱり、活力だから。

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