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生きるための自殺論② 生死という暴力、自分の中の声

生きるための自殺論② 生死という暴力、自分の中の声

※この記事を含む全8回のシリーズは全て全文無料で読むことができます。

 前回の記事では僕が自殺を試みるまでの経緯を書いた。今回では、なぜ僕は自殺をしたいと思ってしまうのか、ということについて書いていきたいと思う。
 でも先に断っておくと、実のところ、僕は自殺が必ずしも悪いことだとは思っていない。ひとは生きることは善いことで、一方で自死をすることは悪いことだと何となく当たり前に信じているところがある。しかし本当にそうなのだろうか、と僕は子どもの頃から何度か考えることがあった。産まれたいと誰かに言って産まれてきた人などひとりもいない。どうしてそう望んだわけでもないこの生を絶対的に肯定する必要があるのだろうか。そういう意味で生というのは非常に暴力的だと僕は思う。だって、望んでもないのにこの世に産み落とされて、これまた望んでもないのにこの生からあるとき急に突き落とされてしまうのだから。ちょっとこんな想像をしてみてほしい。あなたが街を歩いていると、とつぜん足元の地面がぱっくりひらいてあなたが住んでいた世界とは全く違う世界に落とされる。そこはあなたの暮らしていた国とは言語も違えばルールも全く違う。しかも元の世界に絶対に戻れない。そこであなたはだいたい80〜90年生き続けてください、と言われる。そして言われた通り80年くらい生きてみて、そこそここの世界も悪くないかもなと思っていると、また急にぱっくり足元に穴がひらく。落ちてゆくその瞬間、あなたは手を伸ばしてこの世界にまだ留まっていたい、と叫ぶかもしれない。でも穴はどんどん広がってゆき、あなたが穴に落ちた途端にその穴はカーテンを閉めるみたいにさっと閉じる。その真っ暗な世界であなたは記憶さえ持つことはできない。意識も完全に遮断される。ゲームオーバー。これって無茶苦茶だと思いませんか。
 もちろん生とはそういうものだと言われればその通りなのだが、それでも僕は、これはかなり無茶苦茶だなとどうしても思ってしまう。以前読んだ本で、生物はなぜ死ぬのかということを書いている本があり、その本では要するに生物は進化のために死ぬのだ、というふうに書いてあった。うろ覚えなのでこれは正確な引用ではないが、生物は自らのDNAに蓄積したデータを元手に生殖を行っていわば試作品をたくさん作る。有性生殖によって親から産まれてきた子どもは親よりも優秀だから、あとはその優秀な試作品同士がくっついてまた生殖を行えば、さらに優秀な個体が生まれるということになり、それを繰り返してその時代時代の環境に適応する個体を生み出し続けるというのが、ある意味では進化の意義ということらしい。しかし問題は優秀な個体である子どもが親の世代の個体と交わってしまうということで、こうなると進化の効率が悪い。なので親は生殖をすると、とっとと死んでしまった方が進化という意味で言うと合理的だ。だからその効率のために親は子よりも早くこの世界からいなくなってしまうよう設計されている。そんな内容だった。つまり僕たちという個体はヒトという種のレベルから見ると、単なる試作品に過ぎない。もっというとDNAを次のDNAに運ぶための単なる器だ。これを読んだときも、僕はなんて無茶苦茶なんだろうと思った。
 大きく脱線してしまったが、とにかく僕がここで言いたいのは、少なくとも人間という発達した知能を持つ生物にとって生と死というのはとても暴力的に思えてしまうものであり、だからそれに抵抗するという意味において自死はむしろ普通の、いやきわめて人間的な行為ではないかとさえ思うのだ。生が選べないのであれば、せめて死を選んでやる、というふうに。だからもしそれを本人が積極的な選択として強く望むのであれば必ずしも否定されることではないとも思っている。たとえば難病を患っていて、今の医療ではそれが治る見込みがなく、毎日その症状の疼痛によって生きていることが苦痛で仕方なく、そこから逃げる方法もないのであれば、安楽死というかたちで自死を選ぶことはある程度の条件のもと認められるべきだと思うし、そういう人が実際にいるということも聞いたことがある。
 しかし問題は、本当は死にたくないにも関わらず自死を選んでしまう、というケースだ。以前の僕がまさにそのケースだった。でも当時の僕は同時に、自分は積極的な選択として自死をするのだ、というふうに思っているところもあった。死にたくて堪らなくて、自分にとってそうする方が楽だからそうするのだ、というふうに考えていた。最後の方はもうとにかく訳がわかっていない状態だったからか、死にたくないから誰か助けて欲しいという気持ちと、自分は本当に望んで切腹のように高潔な自殺するのだという気持ちとが混ぜこぜになっていたのだと思う。でもこんな精神状態は自死に近いところにいる人は少なからず共通して持っているものではないかと僕は思う。というのも希死念慮のある人は、二つの矛盾した感情を持つことになるからだ。一つは死への恐怖、もう一つは死への欲望だ。そして後者の方が、それをちゃんと実行できるように、自死を肯定する理屈を自分の知らないうちに作り上げてしまう。前回の記事で書いたように、自死へ迫っていた僕が死とは美しくて善いものだ、と考えてしまっていたのもそういう理由なのだと思う。
 これを読んでいるひとに自殺をしたいと思っているひとがいるのであれば、いちどこの質問に答えてみて欲しい。

 もしあなたがいま抱えている問題が全てこの瞬間になくなってしまうとして、それでもあなたは死にたいですか?

 僕の考えでは、あなたがこの質問にイエスと答えないのなら、あなたは死ぬ必要がない。いまの仕事をしないでもよくなるのなら、借金が全て消えてしまうのなら、ずっと自分を否定してばかりの親から解放されるのなら、自分をいじめる人間がこの世界からいなくなるのなら、束縛するパートナーから離れられるのなら、自分自身を否定する自分の声が無くなるのなら……個々の理由はもっとさまざまだと思うが、もしそれらの問題がなかったら死なないで良いと思えるのであれば、あなたは自分で望んで死にたいと思っている訳ではない。そうではなくて、自分の抱えている問題によって殺されようとしているだけだ。これらの問題は遡ってゆくと、結局のところ、およそひとつの問題に帰結すると僕は考えているのだが、いずれにしても、そのような問題を抱えているひとは自死する必要は全くない。とにかくまずはそのことを理解するのが必要だと僕は思う。
 また話がずれてしまったので、最初の話に戻すが、ともかく僕は休職期間に入ってから、なぜ自分は自殺しなければならないと考えてしまうのだろうと考えるようになった。上に挙げたことで言うと、最初、僕を自死へと追い込んでいった問題は仕事だと僕は思っていた。だがその後、仕事を休んでいても自死への思いが膨らんできてしまうことによって、本質的な原因は仕事ではないということに僕は気がついた。仕事は原因ではなくきっかけに過ぎなかった。ではその本当の原因とは何だったのだろう。
 仕事を休みはじめると、いろんな自己否定的な思いにしきりに襲われることになった。それは例えば、お前のせいで他の誰かに仕事の皺寄せがいっているぞ、とか、お前は自分が楽になるために誰かに負担を与えてしまうことを厭わないひどい奴だ、とか、お前はちょっと仕事がしんどいくらいで休んでしまう甲斐性のないやつだ、とかそんなものだった。その言葉はいつも微妙に違うことを言ってくるのだが、なぜかいつも僕の一番痛いところをついてくるのだった。職場の人は皆んなお前に呆れている、とか、皆んなお前のことをダメな奴だと言っている、とか。もういまこう書いているだけでもいくらでも出てくるくらい色んなバリエーションで手を替え品を替えて言ってくるし、正直これを書いているだけで、若干自分が動揺しているのを感じさえする。
 その言葉を一日中ずっと聞いていると、本当にもうおかしくなる。その言葉は決して休むことなく無限に自分に向かって喋りかけてくるからだ。しかもこの声は、いまかと思うと一気呵成に攻め立ててきたり、その声を大きくしたりする。たとえば休職中にTwitterを見ていて、ニートだという人が自分は仕事もせずにダメな人間だ、というようなことを呟いているのを見かけたりすると、その声は便乗してそうだそうだ!と大声でがなりたててくる。お前もこいつと一緒でダメな奴だ。ろくでなしだ、と。また誰かが自分はどうしようもない人間だから死にたい、みたいなことをツイートしているのを読むと、また声はそのツイートに乗っかって僕に向かってお前もそうだ!死んだ方がいい!としきりに怒鳴ってくる。そうしたときにはもう死んだ方が良いと疑いなく考えてしまう。そしてひとたびその声に同調してしまうと、声はここぞとばかりに攻撃を仕掛けてくる。ほら、そこにまだロープがあるじゃないか。今度は失敗するなよ、と。
 この声の前ではもうどうしようもない。朝、目を覚ますと、仕事もないのにえらくぐっすり寝てたじゃないか、と声は言う。食事を取ろうとすると、何のためにエネルギーを蓄えるんだ、と言う。歯を磨こうとすると、のんびりした朝を過ごせていいね、と皮肉を言い、鏡に映る寝癖のついた自分の顔を見ると、だらしないそんな生活を職場の人はどう思うだろうね、と言う。もうどうしようもなくなり、気分が悪くなってベッドに入ると、普通の大人はもうとっくに仕事をして汗をかいてるというのにお前ときたら、と言う。それでも我慢して布団の中でうずくまっていると、今ごろ職場では電話が沢山鳴ってる頃だよ、とか、お前が残した仕事のせいで普段よりもきっとみんな忙しいだろうね、とか言う。僕はもうその声を前に力を奪われてしまったために無抵抗で、ひたすら気分が悪い状態のまま、ベッドの上で数日を過ごしていた。
 そこから僕がとりあえずの抵抗の策として考えたのは、何かに没頭するということだった。仕事をしていた頃は、こんなに声にやたらめったらやられるということはなかったのに、どうして今はこんなに声が聞こえてしまうのだろう、と僕は思っていた。そしてそこから、それはもしかして自分がいま何もしていないからではないかと考えたのだ。つまり暇だから声がチャンスだと思って攻めてくる。だから声にその隙を与えない、という作戦を僕は取ることにした。そう考えた僕はさまざまな動画配信サービスのサブスクリプションをして、アニメやドラマをとにかく1日中見続けることにした。最初に見たのは進撃の巨人だった。以前に漫画で途中まで読んでいたので、たしかシーズン3くらいから見始めたと思う。そこから僕はほとんど丸二日くらい眠らず、トイレ以外ではほとんどそこから動かずベッドに寝そべった状態のままノンストップで最終話まで進撃の巨人を見続けた。最後の方はもう眠たくて仕方がなかったが、進撃の巨人はとにかく没頭できるアニメだったので何とか見続けることができた。最後まで見終わると、僕はそのままほとんど気を失うようにして15時間ぐらいぶっ通しで眠り、次に起きると、今度はすぐに別のドラマを最初から最後まで起きていられる限りずっと見続けた。そんな生活をたしか二週間ぐらい続けたと思う。だからその時期には本当に沢山のドラマを見た。ゲーム・オブ・スローンズ、ウォーキング・デッド、オザークへようこそ、ブラッシュアップライフ等々。動画配信サービスの仕様は当時の僕にとって完璧なものだった。というのも、動画と動画の間で、声が自分の声を差し込んでこようとしても(こんな生活をして恥ずかしくないのか?)、声が自分の主張を繰り広げようとする前にもう次の動画が始まってしまうからだ。しかもボタン一つでオープニングもスキップできてしまう(笑)。だから僕は声の脅威から逃れてただひたすらドラマやアニメといった動画を見ることができた。見たいドラマがなくなってくると今度は好きなユーチューバーの動画を全部見たり、Spotifyで芸人のラジオを初回から遡って全部聴いたりした。はたから見ればなんて自堕落な生活だと思うかもしれないが、その当時の僕にとってはこれが最も健康的な生き方だったのだ。
 そんな生活を続けていると、僕はだんだん自分の中の声と距離を取ることができるようになってきた。もちろん常に相手の射程圏内にはいるのだが、頑張ればそれをかわすことができるような距離だ。それまでの自分が、声と真正面からインファイトをしてボコボコに殴られていた状態だとすればいまはアウトボクシングで相手の様子を窺えるような距離感になった、という具合だった。
 そこから僕はこの声と向き合うことにした。ずっとこんなサブスクを見続ける生活を続けてゆくこともできないのだから、根本の問題と対峙しようと思ったのだ。その頃には気分が激しく落ち込むということも少なくなり、そのための準備はできていた。

 本当はここからがこの回の本番だったのだが、ここからその声との対峙について書くと長くなりすぎてしまうので、それについて書くのは次回に回すことにする。次回の記事は既にもう書き進めていて、明日朝には公開できると思うのでそちらも併せて読んでもらえると嬉しい。わざわざ分けるのは、最初の記事があまりに長すぎるという意見があったので、その方が読みやすいかなというだけだ。またこの記事は全7回の予定だったけれど、一回増えてしまうことになるので、全8回となることになった。読む人にとって、この記事がどういう方向に進んでゆくのか、ある程度わかっておいた方が読みやすいと思うので、下にこのシリーズの目次を書いておこうと思う。ちなみに、どの章も内容をまだ1文字も書いていないので、変わる可能性は大いにある。またこの記事のシリーズは約10日間で完結する予定ですので、基本的にほぼ毎日1記事を公開する予定で、もちろん全て全文無料です。

「生きるための自殺論」
①    自殺へ至るまで
②    生死という暴力、自分の中の声
③    善良な悪魔、という存在
④    善良な悪魔とどう向き合うか
⑤    もう自殺するほかないというあなたへ
⑥    自殺から解放されたらやること
⑦    自殺の根源を探る
⑧    自殺という謎

 また、前回の記事にも書きましたが、可能な方は資金援助をお願いします。既に4人の方から記事を購入していただきありがたいかぎりです。自分のようなインターネットの海に漂う泡沫ユーザーの記事にこれだけの反響があって、しかも購入をしてくださるというのは本当にありがたい限りです。ただ依然として金策に奔走する状況に変わりはないので(笑)、この記事とそれに続く記事が有益だと思った方や、単純にこの活動を応援してくださる方がいらっしゃれば、下のボタンから記事の購入をお願いします。ちなみに「ここから先は〜」の部分には何も書いてありません。記事は全文無料です。よろしくお願いします。

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