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日記 2024/06/12

 外に出ると夏だった。そう直感した。肌を包む熱気、空のさわかな青色、窓ガラスや車体に反射した陽光が風景に満ちている。アパートや一軒家の立ち並ぶその奥に巨大な雲がスローモーションで航行していた。生垣の草が伸び放題になって、通り過ぎてゆく女性が顔を隠すように手でひさしをつくっていた。あらゆる生が漲るような感じ。何かが盛り上がってゆくような雰囲気があると思った。夏。まだ6月だけれど、まるで梅雨の前に事前の挨拶をしにきたように暑い日だった。

 ひとと楽しく喋っていても、自分の底には深い絶望感があると感じていた。それを感じるといまの時間が台無しになってしまうような気がしたが、実際はそんなことはなかった。この絶望感が具体的なかたちを取るまえにこの時間を過ごすことができて幸せだと思えた。むしろそう思うと、このさして特別ではない会話が幸福の瞬間のように思えた。後で昔の自分のメモを見返しているとこんな言葉があった。
 「光のうちにいると光がそこを照らしていることを理解しづらいが、ひとたび闇のうちに立ってみると、光が差す陽だまりがはっきりとそこにあるのを認識することができる」
 いまの自分のなかにある絶望感が何を由来するのか、それがちっともわからない。

 また久々の知人と話した。三人の電話で。会っていない時期に生死の狭間を彷徨ったという。ICU。意識不明。もはやその話題について話しなれた彼から、当たり前のようにそんな言葉が出てくる。でも生きてて良かったね、と言って自分で泣きそうになった。みんなそうだ。

 気持ちがやたらと急いて絵が描けない。一日中ずっとそわそわしている。何かをやり始めては、また別のことをはじめて。その繰り返し。1日の終わりには今日自分はたくさんのことをはじめて、結局何もしなかったと思う。友人の心理士の勧めで、いちど月末頃に心療内科へ行くことなった。何も問題はないが、あくまで予防的措置として、とのこと。もし何か異常があれば、事前に対策できることもある、と。そのことを考えると少し憂鬱になる。外傷やはっきりと自覚できる病状があるわけでもないのに、病院へ行くのかと思う。それで何かをもし仮に診断されるのを想像するとゾッとする。自分のふつうのありようが、病気であると言われるのだとすると、身動きがとれないような気持ちがする。

 洞窟の奥のような暗がりが最近ふと頭に浮かぶ。足元の地面は濡れていて、背中側から入ってくるわずかな光がそこにかすかに反射している。その奥へとさらに向かってゆくのか。それとも奥から何かがやってくるのか。あるいは自分がずっとそこにいてこれからそこを出ようとしているのか。わからないがそんなイメージがある。そのイメージが湧くと、「あと3年あればたぶんなんとかなるのになあ」と思う。

 逆に光が満ちた土地を想像する練習をしている。半分は遊びのようなものだけれど。そこでは光が満ちている。太陽に向かってレンズを向けて撮影した写真みたいに、遠くを見渡せないほど光が満ちている。草木がある。花の気配がある。誰かもはや会えないが仲の良い人がこちらに向かってゆっくりと歩いてきているという予感を感じる。風は吹かない。時間はなく、全ては同時的で、ここにいながらすべての場所にわたしはいる。わたしはそこでただ座って待っている。何か素晴らしい瞬間を。

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