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新型コロナウイルスワクチンのアナフィラキシー事例から思うこと② 

 これは、今回の事例というより、最近私が不安に思っていることで、日本の医療の課題だと思うことだ。

 今回のアナフィラキシーショックの事例では、医師が挿管を試みるも結局入らずそのまま搬送された。報告書によると、搬送先の病院の話ではアナフィラキシーに特徴的な喉頭浮腫はなかったとのことであるが、気管挿管は100%成功できないこともある。実際の現場でも、医師を交代したり、麻酔科医師を呼ぶこともある。今回、医療事故調査の報告書でも気管挿管できなかったことは問題視されていない。
 
 ただ、であるとしても集団接種会場の医師は果たして気管挿管に慣れてもいる医師だったのだろうか?(慣れていないならば、余計に救急時の対応をきちんとシミュレーションすべきであったとは思う)
 
 実はこう思うのは、400床程度の中規模の二次救急の病院である当院においては、気管挿管する人が最近減っているような気がするからだ。

 これは、別に悪いことではない。
自部署は外科病棟である。気管挿管をされたまま手術室から退室し、ICUで呼吸循環動態が落ち着いてから管を抜き(抜管)、自部署に移動してくる。その後、気管挿管が必要となるような(容態が急変する)人が少ないことも理由の一つであるからだ。これは大きな術後合併症が少ないことも示しているし、もっと言えば医師・看護師も異常の早期発見ができているから、大きな急変につながらないのかもしれない。
 また、終末期の患者でもACP(Advance Care Planning 将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援する取り組み)が進んでいることも要因のひとつかもしれない。患者さんがどこでどのように亡くなりたいかを選択した結果、気管挿管でいわゆる管につながれて、話が出来ない状態でなくなるのではなく、最後の時間を在宅などで家族と過ごす人が増えているのかもしれない。
救急外来でも、高齢者の誤嚥性肺炎や尿路感染症の患者に対して病状説明をするときに、急変時どのような処置をするか家族とも相談し、その結果DNR(尊厳死の概念に相通じるもので,癌の末期,老衰,救命の可能性がない患者などで,本人または家族の希望で心肺蘇生法(CPR)をおこなわないこと)を予め決めている場合も増えている。
 
 しかし、その結果、気管挿管をする機会は減っているような気がする。患者が望まない気管挿管はもちろんすべきでないが、必要なときに1分1秒争う処置だからこそ、経験が少ないならば研修する機会を増やすことが必要ではないか?
 
 そんなことを思っていたら、少し古いが、薬師寺泰匡医師の書いた2016年の9月22日の日経メディカルに「100回やれば気管挿管だって上手くなるのに・・・」という記事を見つけた。

 結局、経験するしかない。久しぶりにならないように、たびたびするしかないのだろう。
不器用な私は、サーフローの手技を獲得するまでにも随分時間がかかったが、結局回数をこなすしかなかった気がする。
 
 医師の気管挿管は、秒単位で生命予後に影響を与えるものだから、研修医だけでなく、一般内科医も年数件は経験できるようなプログラムが必要ではないかと思う。(麻酔科ローテーションするとか)





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