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都市伝説 ~恐怖のドンドゥルマ~

あらすじ

 主人公は元特殊部隊の落ちぶれた中年男性。妻に先立たれ、娘との仲は最悪。
 ある日、アメ村に出現するトルコアイス屋を倒すと願いが叶うという都市伝説が広まる。それを聞いた主人公は、娘との信頼関係を取り戻そうとトルコアイス屋を倒すことを決意する。


伝説のトルコアイス屋



『ドンドゥルマ VS 人間』



#1

 夜のアメリカ村。
 街のネオンライトが通りを照らし、賑やかな音楽が店から漏れ、若者たちの笑い声が空気を満たす。人々はレストランやバー、クラブハウスへと足を運び、それぞれの時間を楽しんでいる。
 しかし、そんな賑やかな街も裏通りに入れば一気に雰囲気が変わる。色あせた看板、穴の開いたシャッター、蔦に覆われた壁。表の賑わいとは対照的に、静寂と不気味な湿気がそこを支配していた。暗い路地に吹きすさぶ風が、どこかの扉をギシギシと軋ませている。

「ハァ…ハァ…」
 その青年は拳を構えながら、大きく息を荒げていた。
 その体には生々しいアザや傷が目立ち、額には大量の汗粒が光を反射している。彼はもうほとんど限界で、立っているのもままならない状態なのだ。
「ハァ…ハァ…」
 青年は前を向く。
 そこにいるのはひとりのトルコアイス屋。
 褐色の肌に、濃い眉毛をした男。赤い円筒形の帽子と、金の刺繍が入ったベストを着用していた。男は2メートルはある長い金属棒を持っていて、その先端にはこぶし大のアイスが付いている。

 男はそのアイスに下からドッキングするようにコーンを装着すると、そのまま棒を青年の前に差し出した。
「…………」
 黙って目の前のアイスを見る青年。
 ごくり、と彼は唾を飲み込んだ。
 こうして差し出されるのは3度目だ。これ以上ダメージはもらえない。彼は今や、差し出されるアイスに対してはっきりとした恐怖を感じていた。さっきは奇跡的に急所が外れて一命を取り留めたが、次はそうもいかないだろう。

 微かに震える彼の両手。
 出来ることならこのまま何も起こらず終わって欲しい。けれど、それなら一体自分は何のためにここまで来たのか分からない。頭の中で繰り広げられる葛藤。彼は思うように動くことが出来なかった。

 一方、その様子を見たアイス屋は、青年が動けないことを楽しんでいるようだった。棒の先端についたアイスを青年の鼻に近づけてはギリギリで離す。また近づけて離したりと、挑発を繰り返す。

「な、舐めやがって…!」
 この行動には、流石の青年も黙ってはいられなかった。恐怖よりも怒りの感情が彼を支配する。「僕を…バカにするな……!」。
 彼はまだ若く、頭に血が上りやすいタイプだった。さっきまで慎重に相手の出方を伺っていた彼だが、気づくと怒りに身を任せていた。何も考えず、がむしゃらに手を動かしてアイスを取りに行く!

「もらったぁ!!」
 するとアイス屋の油断もあったのか、青年は差し出されているアイスの、そのコーン部分を見事掴むことに成功。そして一気に手を引いてトルコアイスを奪い取る!
 完全に勝利を確信した青年。
 彼はその手を上に伸ばし、アイスを天に掲げて高らかに宣言をする!
「僕の勝ちだあああああああああああ!」

 しかし、次の瞬間だった。
 気づくと青年は右胸に渾身の掌底を受けて後ろに大きく吹き飛び、背後の建物の壁に思いっきり打ち付けられた。

「ゴハッ…!」
 彼を中心に蜘蛛の巣状のひびができる。口から血を吐き、うまく呼吸も出来ない。
 彼は見ていた。彼が勝利宣言をした時、トルコアイス屋の背中からエネルギー思念体のような半透明の腕がもう一本生えたことを。そして気付くと吹き飛ばされて壁に大の字になって張り付いている。あばらも何本か折れているようだ。
「は、話が…違う…」
 どうしてペナルティ攻撃が発生しているのか。青年は最後、確かにアイスを奪い取った。アイスを奪えばこちらの勝ちというルールだったはず。どうして自分は攻撃されたのだろう。現に今も、彼の右手にはトルコアイスが握られている。

「…………………あれ?」
 だがここで、違和感に気づく青年。
 確かにそこにはコーンが握られていた。先ほどアイス屋から奪い取った、あのコーンをちゃんと彼は掴んでいる。

 けれど、そこに肝心のアイスはなかった。

 彼の手にあるのはただのコーンのみだった。上に乗っているはずのアイスはどこにも見当たらない。吹き飛ばされたときに落としたのか?と周囲の地面を見てみるが、どこにもアイスは落ちていない。

 ハッとして、青年はアイス屋を見る。
 道の向こうで、トルコアイス屋は笑っていた。
 そしてよく見ると、彼の棒にはアイス、そしてコーンがついているのだ。

「ばか…な……」
 彼は思わずそう呟いた。アイス屋の棒にはアイスだけならともかく、まるで最初から何も起きていないとでも言うように、コーンまでついているのだ。
 青年はもう一度自分の右手を見る。
 そこには当然だがコーンがある。これは幻ではない。

「ま、まさか……!」
 ここで彼は思い出す。
 トルコアイス屋たちの使う秘儀。何もしていないように見せて、実はコーンを2枚重ねておくという技のことを! 
 つまり彼が掴んだコーンのさらに内側にコーンがあったのだ。外側の偽物のコーンだけを取らせて、本物のアイスとコーンは渡さない。
「フェイク…コーン……!」
 そう言うと、青年はそのまま力なく地面に崩れ落ち、完全に動かなくなった。


 それは大阪心斎橋、アメリカ村で起きた事件。
 そのトルコアイス屋から、アイスを奪えたものはいない。



#2


「次のニュースです。全国を震撼させている連続女性誘拐事件について、またしても新たな被害者が報告されました。これにより、この数週間で誘拐されたと見られる未成年者の数は、合計で15人に上ります。警察は被害者の捜索と犯人の逮捕に向けて、捜査を急いでおり———」

「本当に急いでんのかよ」
 今、1人の男がテレビを見ながらそう呟いた。

 そこは東京都高円寺にあるマンションの一室。
 男の名前は大崎修司。髪は短髪、顔には無精ひげが生えた大男である。彼はダブルベッドに腰掛けて、テレビのニュースを見ていた。隣には、誰もいない。いつも通りの朝。
 部屋の壁側には、彼の過去の栄光を物語るメダルや勲章がガラスの戸棚に丁寧に収められていた。入り口近くにある本棚には、軍事戦略や戦闘技術に関する書籍がずらりと並んでいる。
 どれもこれも、今の彼にとって全く必要のないものだ。捨てようと思っているが、並べてくれた妻に申し訳ない気がして、捨てられずにいる。

「………はぁ」
 彼は憂鬱な気分だった。
 ここ数年間、朝に目覚めて憂鬱じゃない日はなかった。いっそ二度と目を覚まさなければいいのにと願う時があるほどだ。だが、もちろんそういう訳にはいかない。大崎はテレビを消すと、しぶしぶとベッドから降りて部屋を出て行こうとする。

 だがその時。彼はふと、机にある一枚の写真が目に留まった。
 それは明るく笑っている妻の写真だった。
「もう5年か……」
 彼は思わず呟いた。
 時が経つのは本当に早い。
 彼女が病に伏したことが、まるで昨日のことのように思える。
 この5年、いろんなことがあった。
 大崎は仕事を辞めたし、娘も気づいたら高校生になっている。妻がもし生きていれば、自分は何をしていただろう。少なくとも、今よりもまともに生きていたのではないだろうか?
「………考えてもしかたない」
 彼は吐き捨てるように言うと、そのまま寝室を出て行った。

 時刻は午前6時。
 リビングにやって来た大崎。普段ならいるはずの里奈は、もうすでに学校へ出かけたようだ。
 大崎はもぬけの殻のようなリビングを眺めながら、彼女について考える。
「………このまま一生顔を合わさないつもりか?」
 同じ家に住んでいるというのに、最後に見たのは2週間前だった。帰ってきたと思うとすぐに自室にこもり、自分がリビングにいるときは絶対に出てくることはない。

 どうしてこうなったのか。原因は明白だった。
 大崎は娘の彼氏に苦言を呈し、大喧嘩になったのだ。今までは無職のアル中として嫌われていただけで済んでいたが、これがきっかけで完全に拒絶されてしまった。

「ったく……。どうしたもんか……」
 大崎は、なんとか里奈と仲直りをしたかった。けれど、彼は今まで仕事ばかりで彼女のことは全て妻に任せていた。こんな時どうすればいいのかなど、彼に分かるはずもなかった。
「ふーむ…」
 彼はソファに座り、コーヒーを飲みながらどうすればいいか考える。
 すると、やはり朝は脳が冴えているのだろうか、彼はすぐに一つのアイデアを思いつく。

「酒をやめる」
 それしかない、と大崎は思った。
 娘の彼氏をひどく言った時も、酒を飲んでいた。やはり全ての元凶はこれだろう。
 彼は立ち上がり、「おれは酒をやめるぞ」と決意する。そして、思い立ったが吉日と台所に行って保管している酒を全部引っ張り出した。床にはビールやウイスキー、計20本以上の酒が並べられて壮観な景色を作った。
 彼は誓う。
 もう酒は飲まない。
 この酒も全部捨ててしまおう。
「俺はやるぞ俺はやるぞ俺はやるぞ!」

 しかし、それから数日後のこと。
 そうは言うもののあれだけ飲み続けていた酒をいきなりやめることはできなかった。
 結局威勢がいいのは最初だけで、3日もすれば彼は全てを忘れて再び酒を飲み始める。
 結局、娘との関係も何も変わらなかった。


#3

 喧嘩の発端は、里奈の彼氏について大崎が口を出したことが始まりだった。

 1ヶ月ほど前、大崎はいつものように駅前の酒屋に焼酎とウイスキーを買いに来ていた。
 そそくさと買い物を済ませ、店を出た大崎だが、ちょうどその時目の前の駅から里奈が出て来た。

 時刻は17時すぎ。珍しい時間だった。今日は部活がないのだろうかと思いつつ、「おーい里奈ー」と声をかけようとする大崎。
 だが、彼はすんでの所で言葉を飲み込んだ。
 彼は、里奈の隣に知らない男がいるのに気づいたのだ。

 男は里奈とは違って制服ではなく、黒シャツとジーンズを着ていた。全体としては細長い男で、筋力はなさそうだが顔は比較的整っている。ここまでは何の変哲もない近所の大学生のようだ。しかし一点、彼には明らかに他人と異なる特徴を持っていた。

 それは、男の髪型は鮮やかな赤色のモヒカンだということ。
 モヒカン男は娘と腕を組んでイチャイチャしながら歩いていき、近くの喫茶店へと入って行った。それを電柱の陰に隠れて観察していた大崎は、思わずこう呟いた。「なんだあいつ……」。

 様子を見るに、男が里奈の彼氏であることは間違いなかった。手をはっきりと繋いでいたし、身体の距離が明らかに近い。外から喫茶店を覗いてみたが、笑ったり恥ずかしがったりしている姿は、どこからどう見ても恋人同士の関係だった。

 里奈はもう高校生だ。年頃の娘に彼氏がいることは何もおかしいことじゃない。親がわざわざ口を出すことはないだろう。けれど、その彼氏が赤モヒカンというのはどうだろうか?親として「はいそうですか」と見過ごすことはできない。

 家に帰って来た里奈を、玄関で待ち構える大崎。
「あの男は誰だ?」と彼は尋ねる。
「男?」
「今日お前が一緒にいた、赤モヒカンだ」
 大崎がそう言うと、里奈ははっきりと嫌悪感を示した。
「は?なんで知ってるの?きっも」「なんだその態度は!」「隠れて見てたってこと?ストーカーじゃん。この変態が」「親に向かって何を言う!質問に答えなさい!あのモヒカンは誰だと聞いている!」「誰でもいいでしょ!こっちくんな!」「ダメだ。言うまでこっから先は通さん!」
 大崎は腐っても元特殊部隊だった。娘が強行突破しようとしても完璧に阻止した。その大きな手で彼女の腕を掴むと、まるで時が止まったかのように離れない。どんな人間も、彼の手に掴まれて逃げられたものはいない。
「離して!このっ!離せ!」
「質問に答えなさい!」
「もう死ね!変態!」

 そうして数十分の攻防の末、折れた里奈から次の情報を得られた。
 モヒカン男は高坂海斗と言い、1か月ほど前から交際している。海斗は都内の大学生で、出会いは街中でのナンパらしい。部活の帰りに歩いていると向こうから声をかけて来たとのこと。

「お前、付き合うのはいいがちゃんと相手の素性を調べたのか?明らかに怪しいだろ!」
「は?素性を調べるって何?探偵でもやってんの?」
「最近なにかと物騒だろ。テレビでも誘拐事件とかやってるし。
 クラスメイトとかならいい。けど、そいつは誰だ?どこの誰だか分からない奴だろ?用心するべきだ」
「海斗は優しいの!見た目で判断するな!」「人間見た目が大事なんだ。おかしい奴は、見た目もおかしいんだ」

 大崎がそう言うと、里奈の目から涙がこぼれた。ついに彼女の怒りと悔しさが限界を超えたのだろう。
 すぐに彼女は大崎に向かってこう言い返す。
「人のこと言えるのかこの……クソ親父!」

 その一言に、大崎は不覚にもはっとさせられた。
 大崎は人のことを赤モヒカンだという理由でまともではないと判断したが、お前は一体何様なんだ。アル中で無職中年のお前に、人を評価する資格があるとでも思っているのだろうか?
「人間のクズ」「力の加減ができないバカ」「いつまで母さん引きずってんの?きしょい」「公園で酒飲むなバカ親父」
 娘もいろいろ溜まっていたのか、それから次々と浴びせられる罵倒の言葉。大崎はショックを受け、思わず膝から崩れ落ちてしまった。するとその隙に里奈は大崎の手から逃れて自室へと向かう。

 バンッ。
 廊下の奥で、扉が強く閉じられる音がした。
「……………」
 玄関で一人取り残される大崎。
 彼は何も言えなかった。里奈は本気で怒っていた。いつの間にこれほどまでに嫌われていたのか。そのことについても彼はショックを受けた。しばらくの間、彼はその場から動けないでいた。

 ただ、その後リビングに戻って買ってきたばかりの酒を飲み始めると、今までのことは瞬時に忘れる。
「………うまい!」
 大崎は笑った。
 どんな時でも酒はうまい。彼はそのことにうれしくなり、ついつい笑ってしまう。
「ククク……」
 彼は笑う。
 別に面白いことがないのに、なぜか笑いがこみ上げてくるのだ。
「ククク……面白い……ククク……」

 夜の11時。
 外は静かで、家の中はただ時計のカチカチという音だけが響いている。
 大崎はすっかり酔いつぶれ、テーブルに顔をつけ、よだれを垂らして眠っていた。

「………うぅ…」
 彼は情けない声で寝言を言っている。
「うぅ……クソ親父…………」


#4



 午後の公園は、暑い日差しと活気に満ちていた。広場には子供たちの笑い声が響き、犬が楽しく駆け回っている。
 しかし、その賑やかさとはまるで対照的に、日陰のベンチに静かに座る男がいた。彼の名前は大崎修司。ついに娘にも見放された悲しき中年男性である。
 大崎はコンビニで買ってきたワンカップを啜り、さきいかを齧る。
 ………うまい。
 噛むほどにイカの風味が広がり、それをワンカップで流し込む。喉を通る熱さが心地よい。

 大崎はそうして酒をひっかけながら、ぐるりと公園を見渡した。
 ジャングルジムを元気に上る少年。砂場で母親と城を作る少女。向こうでは、犬を連れて散歩している老夫婦がいた。大人も子供も、みんな笑っている。

「………………」
 なんでもない日常の風景。はじめは、茫然とそれを眺めていた大崎。
 ふと、彼は気付く。
 いつの間にか、彼の頬が濡れているのだ。
「あれ……なんだこれ」
 頬を手で拭うも、湧き水のように水があふれて拭うことが出来ない。
 そこでようやく彼は気付いたようだ。どうやら、自分は涙を流しているということに。

「俺は……俺は何をしている…?」
 思わず大崎の口から本音がこぼれ出た。
 昼間から近所の公園でイカをつまみに酒を飲んでいる。
 普段ならこの昼酒について何の疑問も感じないのに、この日はいつにも増して自分の惨めさを実感した。遠くから聞こえて来る子供たちの声は、まるで彼を糾弾する叫びのように聞こえる。

 彼は昔を思い出す。かつて、自分も里奈と一緒に公園で遊んだ、あの幸せな記憶を。どこで道を間違えたのか。どこがいけなかったのだろうか。
 大崎は気付いていないが、彼がこの日、特に感傷的になっているのはやはり里奈に愛想を尽かされたからだった。思っている以上に、そのことは彼の心に深い傷を与えていたのだ。
「ここにいるのはマズい」
 彼はすっかり気分が落ち込んでいた。このまま周りの声を聞いていると頭がおかしくなりそうだった。彼は立ち上がると、酒とつまみを押し込むように平らげベンチを後にした。

 そのまま家に帰ろうとした大崎だったが、公園を散歩してから帰ることにする。さっきから情緒がおかしい。その自覚はあった。外の空気を吸って気分転換し、酔いを醒ました方がいいだろう。
 そうして公園の散歩コースをぼんやりと歩き始めた大崎。
 ここは街で最も広いとされている公園だった。季節ごとに祭りや餅つき大会など、様々なイベントで賑わう。この散歩コースも人気のスポットで、花畑や池などの自然を楽しみながら園内全体を一周できるように設計されていた。気分が落ち込んでいる彼にとって、まさにうってつけの道だった。

 夏の日差しに肌をジリジリと焼かれながらも、彼は散歩を楽しんだ。小川にかかる橋の所では、水の音やそよ風が心地よい清涼感を生み出している。そんな風に楽しみながら公園を歩く大崎は、偶には散歩もいいものだな、と思った。気付くともうすっかり酔いは醒め、彼の精神状態も普段くらいにまでは戻ったようだ。

「ん?なんだあれ」
 すると、彼がちょうどコースの半分くらいまで歩いた時のことだった。
 彼の目線の先には、老人がいた。老人はポツンと1人、グラウンドの中央に立っていた。体は小柄で、白髪が目立つ。年齢は70くらいだろうか?
 普通、公園に老人がいることにはなんの問題もない。自分と同じように散歩でもしているのだろう。そう考えるのが普通だ。
 しかし、彼が足を止めたのは、その老人の様子が明らかに普通ではなかったからだ。

「…………ス反対!……ル……ス反対!」
 老人は暑い日差しの中、看板を持って何かをわめいているのだ。
 大崎は立ち止まり、老人の言葉に耳を傾ける。
 最初は、本当に何をいっているのか分からなかったが、看板の文字を見てようやく彼の主張に気付く。

「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」

 老人はその言葉を何度も繰り返していた。彼の持っている看板には、赤いペンキでこう書かれていた。
『トルコアイスを禁止しろ!!』
 老人はどうやら本気でそれを主張しており、立ち止まる大崎にも気づかずこの公園、ひいてはこの世界に向けてトルコアイスの禁止を訴えているのだ。

「トルコアイスって……あのトルコアイス?」
 大崎自身は食べたことはないが、テレビで紹介されているのを見たことがある。その時は確かケバブ屋に併設されたアイス屋台で、ふくよかな店長が金属の棒でアイスをこねていた。普通のアイスとは違い、トルコアイスは餅のようにとてもよく伸びるのだ。

「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」
 必死になってトルコアイスの反対運動をしている老人。
 一体何があったらこうなるのか。大崎は彼に非常に興味を持った。彼はとりあえず、トルコアイスを恨むシチュエーションについて考えてみる。

 ひとつ思いつくのは、トルコアイスに辱めを受けたから。トルコアイスは渡す時にパフォーマンスとしてフェイントをかけてくるのが恒例だ。掴もうと思ったらすかされて、渡してくれたと思ったらアイス部分だけを掠め取られる。老人は公衆の面前でこれをされて恥ずかしかったのではないだろうか?現にインターネットで検索すると、トルコアイスと打った時点で、サジェストに「トルコアイス うざい」と表示される。

 けれど、と彼は思い直す。それがどれほど恥ずかしくてもここまでするほどのものではないだろう。また、彼はどう見てもいい歳をしている。子供や若者ならまだしも、大人がそんなことでは怒らない。

 では方向を変えて、トルコアイス事業に手を付けて多額の借金をしたというのはどうか。昔、コンビニでトルコアイス風のアイスが売られていたが、そういう商品の開発者の可能性はないか?

 いや……それもおかしい。と、大崎はすぐにその説も否定した。なぜならたとえトルコアイス事業が失敗したとしても、トルコアイスに恨みを抱くのはおかしいだからだ。トルコアイスは単なる商品。恨みを抱くのはそこではなくて、売れなかった日本市場について怒りを抱くはず。

 大崎はその後も少し考えてみたが、反対運動に発展するほどの理由は彼には思いつかなかった。
「………気になるな」と、大崎は呟く。
 彼はしばらく逡巡し、老人を観察した後、ついに決断を下す。
 彼は老人に近づき、柔らかい声で尋ねた。「すみません、トルコアイスについて何か問題があったのですか?」。

 すると、ここで老人は初めて大崎を認識したようだ。
「トルコアイス反対!トルコアイ……なんだ君は」
「ちょっと気になったもので。どうしてあなたはトルコアイスに反対しているのですか?」
 大崎は直球の質問を投げる。
 すると老人はこう答える。



「トルコアイスに孫を殺されたからだ」




#5


 その日は大崎は久しぶりに人と会う約束をしていた。
 酒を飲まずに彼は待ち合わせの喫茶店「HIVE」までやってくる。

 店内に一歩足を踏み入れると、落ち着いた色調と木の温もりが調和したインテリアが大崎を迎えた。天井から吊り下げられた照明は、柔らかい光で空間を照らしている。モダン風で落ち着いた雰囲気のある店だった。

 待ち合わせをしていることを店員に伝えると、奥のテーブル席に案内される。そこにはすでに、コーヒーを飲んでいる男がいた。中学の頃からつるんでいた友人、間宮勇気である。

 間宮は青いジャケットと白のTシャツにジーンズで、相変わらずの爽やかな着こなしだった。スタイルもよく、どこかでモデルをやっていそうな雰囲気だが、彼の職業はミステリ作家である。
 間宮は普段は岡山に住んでいるが、仕事の関係でこの辺りに出て来たらしい。せっかくなので会わないかと誘われたのだ。

 間宮は大崎を見るなりこう言った。
「よう。しけた面してんな。元気か?」
「お前は元気そうだな」大崎は席に座り、コーヒーを注文する。
「おかげさまで、儲からせていただいてます」
 間宮は急にかしこまると、そんなことを言い出した。頭をしっかりと下げて、目上を敬うように礼を言う。

 この光景を初めて見た人は、彼がとても誠実な人間に思えるだろう。だが実際は違う。この大げさな振る舞いは、本気で感謝しているのではない。ふざけているだけだ。昔から間宮はそういう奴だった。「相変わらずだなお前は」と大崎も言う。

 大体こいつは自分に印税を何割か払うべきだ、と彼は思った。なぜなら間宮が売れたのはほとんど大崎のおかげだからだ。
 10年前、全く無名の作家だった間宮は大崎をモデルにした刑事ものの小説を発表した。それがヒットしてミステリ新人賞を受賞。そこから人気作家となった。

 普通に考えて、モデルになったくらいであれば印税をもらうことは出来ないだろう。けれど、ここの問題は、間宮は大崎をモデルにしたと言っているが実際には彼をそのまま描写しているという点にある。ほぼ大崎の伝記と言ってもよいほどで、大崎を知る人ならば読むだけで彼のことだと気付く。

「でもさすがにおもしろすぎるからなぁ」
 大崎がそれを指摘すると、間宮は言い訳するようにそう言った。
「握力300kg、電柱を素手で折れるほどの腕力。どんな悪党も文字通り『捻り潰す』。こんなのそのままでいい。変える必要がないだろ」 
 それに対しては、大崎は何かを言う代わりにフン、と鼻を鳴らした。
 彼は自分の両腕を見る。常人よりも一回り大きく、傷だらけの手のひら。SAT時代、大崎はどんな敵のアジトにもこの肉体だけを頼りに突入し、壊滅させてきた。間宮のさっき言ったことは全て本当のことだ。「読者もまさかこの設定がノンフィクションだとは思わないだろ」と間宮は言う。

「あ、あと最新作でもちょっと書かせてもらったから」
 ここで間宮は思い出したかのようにそう言った。
「なんだと?」
「今回、主人公は無職になるところから始まるんだ」
 話によると、冒頭で主人公は警部を怒らせてクビになるらしい。もちろんこれも、大崎の実話をそのまま流用している。
「でも流石にここの詳細は変えてるぜ。変えない方が面白いけど、警視庁に目を付けられるのは嫌だからな」
 間宮はここで思い出したかのように笑う。「ククク…。力が強すぎて総監の壺を破壊してクビ……。バカすぎるだろ」。
 間宮は笑いすぎて痛くなったのか腹を抑えて悶絶した。その様子を見ていた大崎は何か言い返そうと思ったが、相手の言っていることは真実なので何も反論できない。「こいつムカつく…」。

 しかし、彼は間宮がそうやって自分を小馬鹿にするのは実は感謝もしていた。くだらない理由で解雇されたことを、こうしてはっきりくだらないと言われると少しは気がまぎれるのだ。「フン…もういい。次は印税よこせよ」と捨て台詞のように言った。

 しかし、こいつは本当に調子がいいな、と大崎は思う。
 15年ほど前は自分はSATで、間宮はただの無職。あの時間宮をバカにしていた大崎だったが、いつのまにか立場が逆転してしまった。
「なんなんだ……」
 娘とうまく行ってないことも含め、彼は自分が嫌になってきた。少なくとも仕事で犯罪組織と戦っていた時は、こんな情けない自分ではなかったはずだ。それこそ切り込み隊長として先陣を切り、様々な勲章を手に入れて来た。くだらないことで仕事をクビになり、妻にも先立たれ、娘は顔も合わせてくれない。「………」。

 ここで大崎は、せっかくなので間宮に娘との関係を相談することにした。間宮も中学生の息子がいるので、アドバイスか何かがあればと思ったのだ。
 しかし、それから約30分ほど話をしたが特に現状の改善にはつながらなかった。「もっと会話をしたらいいんじゃないか?」「部屋から出てこないんだ」「部屋に入ればいいじゃないか」「開けてくれない」。
 やはり娘と息子の違いはかなり大きいようだ。全く生産性のない話が続き、これ以上意味がないと判断した大崎は早々に諦める。
「この役立たずが」
「は?人が聞いてやったのになんだその態度」
「くだらねえ小説ばっかり書きやがって」
「お前がモデルだよバーカ」
「お前がバカ」

 そうしてしばらく罵倒の応酬が続いた。お互い昔から知っているので息をするように悪口が出る。
 ただ、そんな争いも唐突に終わりを告げた。きっかけは、間宮の言った次のセリフ。
「じゃあトルコアイス屋にでも頼めクソが」

 大崎は思わず耳を疑った。自分は幻聴を聞いたのではないかと思った。
「トルコアイス?」
「知らないのか?あんなに話題なのに」
 間宮の話によると、今、トルコアイスにまつわる都市伝説が世間を騒がせているという。その内容とは『アメ村に出現するトルコアイス屋を倒すと願いが叶う』というもの。この噂が流行っているせいで普通のトルコアイス屋が襲撃される事件が多発しているのだ。
 間宮は職業柄、こうした話題には精通しており、大崎が興味があると言うと詳細なところまで教えてくれる。

「トルコアイスは人と人を繋ぐ魔力がある」

 間宮は最初にそう言った。
「都市伝説とともに、この言葉も一緒になって伝わっている。つまり、ここでいう『願い』というのは、人間関係についての願いだ。恋愛とか人探しとか、そういう願いを叶えるために、人々がトルコアイス屋に戦いを挑んでいるんだ」
「トルコアイス屋と、それに挑む人々…。なんかの神話みたいだな」
「今、いろんな奴が打倒トルコアイス屋として躍起になっている。でも、都市伝説で言及されているのはアメ村にいるトルコアイス屋というだけで、どれが本物の『願いを叶えるトルコアイス屋』かまでは分からない。それで情報が錯綜して、間違った一般のトルコアイス屋が襲撃されているんだ。アメ村以外にも、いろんな所で暴行事件が起きてる」
 間宮は呆れたように言った。「まったく…仕方のない奴らだよ。確証もなく人を殴ればそりゃ暴行罪だろ。そこまでして叶えたい願いってのはなんなんだろな……」。

 一方で、間宮のその話を聞きながらこの時大崎が思い出していたのは数日前に公園にいた老人のことだ。あの老人の言うトルコアイス屋はどのトルコアイス屋のことを言っているのだろう。一般的なアイス屋なのか、それとも都市伝説のアイス屋なのか。大崎は間宮にも、公園で出会ったその老人の話をする。
 しかし彼の反応は当然、「何言ってんだお前?」というものだった。

「だからこの前老人が、公園でトルコアイスの禁止を訴えていたんだ。看板持って反対運動をしていた」
「や、そこは良くて、トルコアイスの禁止ってどういうことだよ」と間宮。
「そのままの意味だろ。トルコアイスを輸入したり、製造したりするなってことだろ」
「なぜそんなことを?」
「確か、孫を殺されたらしい。つまり……復讐?」
「その老人は、トルコアイス屋に孫を殺されたから、トルコアイスの反対運動をしているってこと?」
「…………そうだろ」
 大崎はそこで言葉が詰まった。彼も、いくらなんでもそれはおかしいというのは分かっていた。けれど、あの老人が真剣な表情で反対運動をしていたことは紛れもない事実なのだ。

「てかそもそも、トルコアイス屋に殺されたって、どういうことだ?」
 改めて間宮はそう尋ねる。
「トルコアイス屋に物理的に殺されたのか、それとも餅みたいな話で、トルコアイスを詰まらせて死んでしまったとか?」
 言われてみれば、それは確かに重要なところだ。けれど、大崎はそこまで詳しくは聞き出していない。
 間宮の問いに答える代わりに、「でもそれだと辻褄は合うな」と大崎は賛同した。「餅と一緒でトルコアイスは危険な食べ物だから、第2、第3の被害者を出さないために反対運動をしている、みたいな」。

 だがここで、大崎は自分でそう話していてある違和感に気付く。
「………いや、ちょっと待て。話がおかしい」
 彼はここまでの内容を整理する。
 彼が気付いたのは、いつの間にか事件の被害者が逆になっているということだ。
 さっきまで自分たちは都市伝説のトルコアイス屋の話をしていた。この時、被害者は間違えて襲撃されるトルコアイス屋の方だ。しかし、老人の話ではトルコアイス屋が加害者で、被害者は孫となっている。

「ああ、じゃあこういうことだ」
 すると、ここで間宮が何かに気づいたようだ。
「つまりその老人の孫は、アメ村のトルコアイス屋に挑んだんだ。本物の、都市伝説のトルコアイス屋に。そして負けた」
「負けた?殺されたって言ってたぞ?そのトルコアイス屋は、負けたら殺されるのか?」
 そう大崎が聞くと、間宮は真顔でこう答える。
「そりゃそうだろ。相手は願いが叶うトルコアイス屋だぜ。どう考えてもやばいだろ。倒せなかったら、殺されてもおかしくない」
 大崎は何か反論しようとしたが、確かに間宮の話は一理あった。ノーリスクで願いが叶うというのもおかしい。倒しに来ているということは、逆に倒される覚悟も必要ということか。

 大崎は、考えれば考えるほどこの都市伝説に興味が出て来た。
 特に、まだ事件は続いており、暴行罪になるのを分かっていてトルコアイス屋を襲撃している人がいるという事実は非常に面白い。それは裏を返せば、アイス屋を倒せば本当に願いが叶うということだ。暴行罪で捕まるかもしれないのと、返り討ちに遭って死ぬかもしれない。この2つのリスクがあるというのに、トルコアイス屋を襲う人がいなくならないというのは都市伝説の信ぴょう性としてかなり大きい。

「クク。そんなに気になるならトルコアイス屋倒しに行けよ。娘に絶縁されてるんだろ?ドンドゥルマVS大崎。次回作はそれに決定だ」
 冗談めかしてそんなことを言う間宮。
「…………」
 すると大崎は、少し考え込むような表情を見せた。
 その言葉は、彼の心に空いていた隙間にすっと入り込んだみたいだ。

「トルコアイスは人と人を繋ぐ魔力がある」
 気付くと大崎は、その言葉を呟いていた。
 もしこれが本当なら、今の娘との関係を昔のように戻してくれるのではないか?妻がまだ生きていた頃の、仲良くご飯を食べたりテレビを見るような普通の親子関係に修復してくれるのかもしれない。

「……おい。嘘だろ?まさか本気にしたのか?」
 最初は大崎を挑発して笑っていた間宮だが、彼の真剣な表情を見て焦り始める。
「本気で信じてんのか?ただの都市伝説だぞ?老人だって、頭がおかしいだけだろ。息子がトルコアイス屋に負けて殺されたって、そんなわけねえだろ」
 しかし、大崎は間宮の言うことはなにも耳に入ってこなかった。
 しばらく考え込んだ後、彼は言う。

「ちょっとアメ村行ってくる」


#6

 そこは心斎橋にあるアメリカ村。
 若者文化の発信地として知られており、あらゆるファッションやサブカルチャーが融合しているこの街。電柱や建物に描かれたグラフィティも、ただの落書きではなく街を飾るアートとして景色に溶け込んでいる。

 もうすぐ夕方になるくらいの頃、大崎は三角公園までやって来た。三角公園はアメ村の中心に位置していて、待ち合わせなど人の交流が盛んな広場となっている。
 石のベンチに座り、一息つく大崎。辺りは若者や観光客であふれており、おじさんの彼は自分が少し浮いているのではないかと心配する。だが、それも少し経てば気にならなくなった。この場所にはいろんな人間がいる。どんな人間であろうと包み込んでしまう温かさがこの街にはあった。

「さてこれからどうするか……」
 勢いでここまで来たものの、アテがあるわけではない。ネットにもトルコアイス屋に関するいろんな情報が載っていたが、間宮の言う通りどれが嘘でどれが本当か見分けがつかず、参考にならなかった。一歩間違えると暴行罪となるので、ここは慎重に行きたいと彼は思った。

 大崎の計画としては、とりあえず一日目はざっと街を探索しようと思っている。時間だけはあるので焦る必要はない。今日は下見という感覚で、気になったバーやクラブなどがあれば聞き込みをするくらいでいいだろう。
「よし、それでいこう」
 そこまで考えて、ようやく立ち上がる大崎。まずは街を南に向かって歩くことにする。

 車がギリギリ1台通れるくらいの道を挟むように、ずらりと店が並んでいる。最近流行りのスイーツ店や古着屋、聞いたことのないアーティストの画廊など、歩いているだけでも楽しく、いい刺激を受けられる。

「トルコアイスには人と人を繋ぐ魔力がある……か」
 街を歩きながら、大崎は間宮の言ったその言葉を思い出す。
 それはまさに、彼がここに来た理由だ。彼は壊れてしまった娘との関係を修復したい。トルコアイス屋を見事倒し、その願いを叶えてもらうためにここまで来たのだ。

 ただ正直なところ、彼も本気でこの都市伝説を信じているわけではなかった。彼も流石に40を越えた中年男性。本当はそんなものは幻想だとわかっている。
 では、どうしてお前はこの場所にやって来たのかというと、それは祈りのようなものだった。娘との関係が崩壊し、頼れる人もいない。もうなにをしていいのか彼には分からなかった。だから、何かが起きてほしいという思いで彼はこのアメ村にやって来た。トルコアイス屋でも何でもいい。誰でもいいから娘ともう一度仲良く過ごせる方法を教えてほしい。それが彼の狙いだった。

 そうしてしばらく大崎は街を散策し、トルコアイス屋やそれに繋がりそうな人物を探した。異国風のバーやシーシャショップ、怪しげな占い師など、様々なところを訪れた。しかし、簡単には欲しい情報は得られない。都市伝説については知っているが、それ以上のことは知らないという人がほとんどだった。
 結局、この日の収穫はなし。トルコアイス屋について核心的な情報を持つ人物とは出会えなかった。

 気付くと日はすでに落ち、街がポツポツと光を灯し始める頃。この時間になると、街の雰囲気も変化した。ネオンサインやカラフルな看板が点灯し、夕闇に彩りが加わる。人々の活動も夜に向けて移り変わっていく。
「今日はここまでだな」
 ここで大崎はあっさりと散策を止めた。長距離を移動して少し疲れていたというのもある。彼は大人しく予約していたホテルへと足を向けた。収穫はなかったが、焦る必要はない。本格的な調査は明日からやればいいのだ。


 本屋の角を曲がり、人気のない通りに入って行く大崎。事務所や無人ビルの多い通りで、明かりも少なく、薄暗い雰囲気の道だ。大崎も地図アプリが最短ルートと示さなければ好んで通ろうとは思わないだろう。彼は看板やエントランスの案内板を眺めながら、何も考えずにブラブラと歩いて行く。
 すると、ちょうど彼がハンバーガー屋の前を通過しようとしたその時。

 チリン――—。
 何か、鈴の鳴るような音が聞こえた。
 ふと、大崎は足を止める。

 チリン――—。
 再び、音が聞こえた。それはどうやら彼の左の方。ハンバーガー屋と車道を挟んで反対側から聞こえているようだ。
 ゆっくりと、彼はその方を向く。

 すると、雑居ビルの前に、トルコアイス屋が立っていた。

 そのトルコアイス屋は大崎よりも少し身長の高い30歳くらいの男だった。彫が深い顔立ちに、口元には綺麗に整えられた髭。服装は、赤い円筒形の帽子を被り、同じく赤の伝統衣装のベストを着ている。そこにはところどころに金の装飾と、トルコ風の幾何学模様が描かれていて一目でトルコアイス屋ということが分かる。
 男の前には、腰くらいの高さの銀の冷凍庫があった。普通の冷凍庫とは違って上部に丸い蓋があって、それを取ると餅つき機のように白いアイスが入っている。

 男は大崎を見ると、ニヤニヤと笑った。そしてまだ何も頼んでいないというのに冷凍庫の蓋を開けると、長い金属棒を穴に突っ込んでアイスを練り始めた。

 このあまりにも突然の邂逅。
 驚きのあまり、しばらく大崎は動けなかった。彼は今日はもうホテルに帰って寝るだけかと思っていたのだ。

 しかし、彼は瞬時に頭を切り替える。向きを変え、車道を通過しアイス屋の目の前に立ちはだかるとこう言った。
「わかるぞ。お前が都市伝説のトルコアイス屋だな」
 大崎は続けて言う。
「俺の願いを叶えてほしい」

 その言葉を聞いて、アイス屋は棒を動かす手を止めた。
 そして品定めでもするかのように、じっくりと大崎を見つめる。
「……………」
 しばらく沈黙が続いた。
 大崎はあえて何も言わず、相手の返答を待ち続ける。

 するとアイス屋は、大崎の言葉には何も返さず再びアイスを練り始めた。
 その手つきは実に優雅なものだった。流れるような手つきで金属棒は動き、冷凍庫の中で白のアイスが生きているかのように踊る。
 いつの間にかその動きに見とれてしまっていた大崎。
 ハッとして彼は言う。
「おい、聞いているのか?俺の願いを叶えてほしい」
 大崎はそうやってもう一度、トルコアイス屋に願いを伝えた。

 だが、まさに次の瞬間!
 アイス屋は穴から金属棒を引き抜くと、そのままそれを、大崎の右目を狙って突き出したのだ!

 大崎の体は反射的に動いた!瞬時に顔をそらし、最小限の動きで攻撃を回避する!「てめえ!」
 しかしまだアイス屋の攻撃は終わっていない!
 アイス屋はそのまま金属棒を横に薙ぎ払い、大崎の側頭部を打つ!最初の突きが避けられるのは想定済みだったようだ。大崎はこの攻撃を回避することができない。バキィ!「うがあッ!」。
 だが幸いにも致命傷ではなかった。大崎は体を攻撃に合わせて動かし、ダメージを軽減していたのだ。彼は慌ててバックステップで距離を取り、改めてアイス屋と対峙する。
「オッケー。こいつはぶっ殺す」

 大崎は本能で理解する。この目の前のトルコアイス屋こそ、都市伝説のトルコアイス屋であることを。もし偽物だったとしても、容赦なく殺しに来た時点でまともな人間ではないだろう。人間の形をした化け物だ。
 背筋がチリチリとする大崎。さっきの動きだけで相手がかなりの手練れだということが分かる。下手をすれば死ぬ。

 だが、そうやって覚悟を決める大崎とは対照的に、トルコアイス屋は再び金属棒を冷凍庫の中に突っ込んだ。完全に戦闘態勢の大崎を目の前にして、平然とアイスを練っている。
「何余裕こいてんだコラ」
 当然、これには大崎もムカついた。
 大崎は再び歩いてアイス屋との距離を詰めると、余裕をかましている相手のボディに一発入れるため、腰を落とし拳を引き絞る。

 しかし、大崎がそこまでしてもアイス屋はまるで反応しなかった。いや、それだけでなく、彼は金属棒でこぶし大のアイスをすくい取ると、側に積み上げていたコーンをひとつ手に取り、アイスに押し付けるように装着する。大崎の存在をまるで無視しているかのような動きだった。
「人を舐めるのもいい加減に――—―」
 だが、そうして大崎が殴ろうとしたその時!

 スッと、彼の前にアイスが差し出された。
 棒の先端に白いアイスとコーンがくっついており、ちょうどコーンを掴めるように下を向いた状態で差し出されている。

「……なんだこれは」
 完全に調子を崩された大崎は、一度パンチの構えを解いた。戦う気のない相手を殴る趣味は彼にはなかった。
 彼はせっかくなので、と、目の前のアイスを掴もうと手を伸ばす。

 ――—スカッ。
 しかし恥ずかしいことに、大崎の手は空を切った。
「あ?」
 彼が掴もうとしていたはずのコーンはすでにそこにはなかった。コーンは大崎の手のすぐ真上にあった。さっきまで下を向いていたはずのコーンは、今は上を向いている。これはつまり、アイス屋は大崎がコーンを掴む寸前に棒を180度、軸回転させることで、掴まれないように手をすかしたのだ。

「テメェふざけてんのか!」
 コケにされたと思い、つい感情的になって叫んでしまう大崎。

 ――—―するとまさにその瞬間だった!
 ボゴッ!
 大崎の鳩尾に、強烈な鈍痛が走る。
「うぼあッ!」
 痛みに耐えかねて、思わず膝をつく大崎。うまく呼吸が出来ない。彼は両手を地面につきながら必死に息を吸い込んで酸素を取り入れる。
「ハァ…ハァ……」
 あまりに不意だったため、何が起きたのか大崎には分からなかった。感覚的には、ストレートパンチを食らったのだろうが、アイス屋は金属棒を両手で掴んでいたので殴ることは出来ない。まるで、第三の腕に殴られたかのような奇怪な攻撃で彼は動揺する。「なにを……しやがった…?」。

 しかし、彼はこう見えても元SATのエース。歯を食いしばると、痛みを乗り越え立ち上がった。「お前は……許さねえ…!」。
 再び大崎はアイス屋の正面に立つ。さっきの打撃はやはり無視できないダメージで、足元がふらついた。だが、彼はしっかりと足を踏みしめ気合を入れなおす。思い出せ。過去の自分を呼び覚ませば、必ずそこに勝機はある。

 すると、そうやってまだ戦意のある大崎を感心するように見ていたトルコアイス屋。
 彼はヘラヘラと笑いながら、再びアイスとコーンのついた棒を差し出した。
 目の前に掲げられたトルコアイス。さっきと同じくコーンは下向きにしていて、掴みを誘っている。
「…………」
 だが、大崎はもう付き合わない。
 相手が卑怯な手で来るのなら、こちらも同じことをしてやろう。

 コーンを掴み取ろうと手を伸ばす大崎。
 しかし彼は、それを掴む直前にさっと軌道を切り替えると、コーンではなく金属棒の方を掴んだのだ!
「!?」
 これにはアイス屋も思わず目をむいた。慌てて金属棒を引き戻そうとするも、驚くべきことに棒は大崎の怪力によってピクリとも動かない!
「次はこっちから行くぜ~」
 すると大崎は金属棒を右手で引き寄せるように引っ張った。それにつられてトルコアイス屋の身体も引き寄せられて、ちょうどいい位置に頭部を晒す。

「一発逝っとけコラ」
 そう言うと、大崎は渾身の左ストレートをアイス屋の顔面にぶち込んだ! 
 バキィ!
 完全に手ごたえありだった。クリーンヒットの感触が拳から伝わってくる。数年のブランクで鈍っているにしても、この拳を顔面で受けて耐えられる者はいない。

「……………?」
 だがここで、違和感に気づく大崎。
 アイス屋が、いつまでたっても倒れない。拳を頬で受けたまま、微動だにしないのだ。
「なん…だと……?」
 そして彼は見てしまう。
 大崎の拳の先、顔面でそれを受け止めたまま、勝ち誇ったように笑うトルコアイス屋の姿を!

 そして、次の瞬間だった。
 気付くと大崎は後ろに吹き飛ばされていた。
 お返しとばかりに繰り出された掌底は、まるで密着状態で大砲でも撃たれたような衝撃だった。
 口から血飛沫をあげて猛スピードで吹き飛んで行く大崎。
 そして向かいのハンバーガー屋のガラス窓を突き破って店内に侵入。ガラスが飛び散り、客の悲鳴が店内にこだまする。「ぐばぁッ!」。
 大崎は店内の床で、無様に大の字になって倒れた。これ以上立ち上がる気力はなかった。彼はこれほどの力量差を見せられたのは生まれて初めてだった。

 薄れゆく景色。
 だんだんと店内の音も遠くなっていく。
 やがて大崎は意識を失った。



 突然の大崎の飛び込み入店により、パニックになるハンバーガー屋。悲鳴をあげる女性や、声を荒げる男性など、店内は騒然としている。

 しかしそんな中、1人の男がゆっくりと大崎の元までやって来た。明らかに周りと違って落ち着いた足取りで、真っ直ぐ彼に向かって歩いてくる。



 男は大崎の顔を覗き込むと、ニヤリと笑いながらこう言った。
「お前、見込みあり」



#7


 大崎は見覚えのない部屋で目を覚ました。
 彼が横たわるのはL字型ソファ。体を起こし、周囲を見渡すと、まず目に入るのは壁に貼られた大きなボブ・マーリーのポスター。部屋の隅にはレコードプレーヤーが鎮座し、そのそばにはレコードコレクションが棚に並べて置かれていた。他にもジャマイカのペナントや、マリファナ模様のカーテンがこの空間を彩る。

「お、起きてるな」
 するとその時、後ろから声がした。振り返ると、小太りの中年男性がドアから入ってくるところだった。背丈は平均くらいでスキンヘッド、そして黒のサングラスをかけている。服装はオレンジの網シャツにカーキ色の短パンをはいていた。街の変わり者の、陽気で派手なおじさんという印象だ。
「傷はもう大丈夫か?」
 その言葉を聞いて、大崎も思い出す。自分はトルコアイス屋にこっ酷くやられ、気を失ったことを。その証拠とでも言うように身体中には包帯が巻かれていた。どうやらこの男が自分を助けてくれたのだろう。

「助けてくれてありがとう。えーっと…」
「俺の名前はジーク」「ジークか。よろしく。俺の名前は大崎だ」
 そうして大崎も自己紹介をした。また、お互い歳が近いので呼び捨てでいいということになった。
 少し打ち解けた後、ジークは大崎にこう言う。
「お前、トルコアイス屋に挑んだだろ」
「見ていたのか」
「ああ。お前は全くなってない」
 するとジークはいきなりそんなことを言って来た。突然のダメ出しにムッとする大崎だが、完敗した手前反論することはできない。
「言っておくが、このままだとお前は一生あいつには勝てない」
「なぜだ?どうしてそんなことが分かる?」
 大崎がそう尋ねると、ジークはそれに答える代わりにこんな質問で切り返す。
「お前はあのトルコアイス屋のことをなんだと思っている?」
「なんだって……。都市伝説のトルコアイス屋だろ」
「人間だと思うか?」
 ジークのその問いに、大崎は沈黙した。彼はトルコアイス屋との戦闘を振り返る。今まで仕事で様々な相手と戦ってきたが、アイス屋はその中の誰とも違っていた。それはやはり、人間ではないと表現するのが正しいように思う。
 大崎は、ジークのその本質的な質問から、彼がかなりトルコアイス屋について詳しいことを理解した。

「あれは……人間じゃねえ」
「正解だ」そう言ってジークは指をパチンと鳴らした。
「恐らくあいつは人間ではない。都市伝説そのもの。幽霊とかの類だろう」
 大崎もそれに異論はなかった。彼はトルコアイス屋の顔を一発殴ったが、全くダメージを与えられなかった。表情ひとつ変えないあの様子は、まるで物理法則を無視しているかのような違和感があった。
「いいか?よく聞け」
 するとここで、ジークは改まって大崎に言う。

「トルコアイス屋を倒すには、ルールに従わなければならない」 
「ルール?」
「奴は人間じゃない。だから普通に殴っても効果がない。奴を倒す方法はただ一つ。アイスを奪い取ることだ」
 ジークは説明を続ける。
「覚えてるか大崎。途中、奴はお前にアイスを差し出したよな?」
「ああ。でも取ろうとしたらスカされた。しかもあいつ、そのあと俺を攻撃してきたんだ。卑怯な奴だぜ」
 するとそんな大崎に被せるようにしてジークは言う。
「それがルールだ」
「あ?」
「アイス屋のフェイントに受けて立つ。スカされたらお前にダメージが入る。奴の攻撃は、よく分からないが半透明の腕で攻撃しているらしい。次戦う時はよく目を凝らしてみろ。フェイントに引っ掛かった時、奴の背中から腕が生えるのがわかる」「気づかなかった……もう1本の腕があったのか…」
「最後までフェイントを見破り、アイスを奪うことが出来たらお前の勝ち。それ以外にどんな方法をもってしても、アイス屋を倒すことはできない」

 その話を聞いて大崎は考える。ジークの話は実に突拍子もないものだ。そもそも、そんなことまで知っている彼は何者なのか。彼が言っていることには証拠も何もなく、信じていいのかもわからない。
 しかし、一度アイス屋と戦った大崎にとって、その話には説得力があった。相手はまさに都市伝説。殴り合いで勝てるとは思えない。そもそも、そういう存在ではないのだ。奴を倒すためにはルールに従う必要があるというのは、腑に落ちる話だった。
「フェイントを見破り、アイスを奪い取る……。トルコアイス屋を倒すというのは、そういう意味だったのか…」
「ちなみに、お前はアイス屋をぶん殴ったが、あれは完全にルール違反だ。アイス屋への物理的な攻撃は、2倍のダメージになってお前に跳ね返る。お前はタフだったから生きてるが、半端な奴なら死んでた」
「そうか…」
 知らなかったとはいえ、かなり危険な行為だったようだ。自分の無知と愚かさを実感し、少し落ち込んでしまう大崎。

 だが、そんな彼を励ますようにジークは言う。
「でもお前、見込みあるぜ」
 彼の表情はとても嬉しそうだった。
「俺は今までいろんな奴がトルコアイス屋に挑むのを見て来た。その中にはお前と同じように何も知らず、棒を掴んだ奴が何人もいた。けど、奴の棒が止まったのは今回が初めてだ。アイス屋も完全に焦っていた。お前の握力、はっきり言って異常だ」
「フン。昔の名残りだ。俺は元SATなんだ」大崎は素っ気なく答えた。

 そのまま彼は、自分の過去や今回の目的についてジークに明かすべきか悩んだ。あまり褒められる話ではないので出来れば黙っていたい。けれど、話しているだけでもジークは悪い人間ではないことが分かった。それどころか、瀕死の自分を治療してくれたのだから命の恩人だ。少なくとも、自分がどういう目的でトルコアイス屋を倒そうとしているのかくらいは話してもいいのかもしれないな、と彼は思う。
「ジーク、俺は————」。
 だが、大崎がそうして口を開いたちょうどその時だった。

 バーン!という音とともに、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
 そして中に入って来たのは短髪で青色の柄シャツを着た若い男と、肩まであるドレッドヘアで体格のいい黒人男性。
 ジークは彼らを見ると、「ヤーマン!」と急に声を上げ、腕を交わして挨拶を済ませた。その後、2人を大崎に紹介する。
「こいつらはレゲエ仲間のリョウとジャマールだ。リョウは作詞の天才で、ジャマールは楽器ならなんでもできる」
 リョウとジャマールは大崎と握手をして自己紹介をした。2人とも背が高いので正面に2人並ぶと圧があった。どちらも見た目はヒッピーだが言葉遣いが丁寧で、礼儀正しい若者だった。「初めましてリョウです。ジークさんとは昔からの知り合いです。よろしく」「どうも。ジャマールです。父がジャマイカ出身で、日本に5年住んでます」「こ、こちらこそよろしく……」と大崎も挨拶をする。

「………いや、ちょっと待て」
 と、ここで大崎は全員に一度ストップを要求する。
 ジークだけでもよくわからないのに、さらに2人増えた。さっきまで自分のことを話そうか迷っていた大崎だが、そもそもこいつらは何だ?なぜこんなにもトルコアイス屋に詳しい?
 そう思った大崎は、単刀直入に尋ねる。
「お前らは一体何者なんだ?」
 するとその質問に、ジークはにやりとしながら答えた。

「UNLEASH DOGS」 
 ジークがそう言うと、その隣にリョウとジャマールがやって来てジークを中心に横一列に並んだ。全員腕を組んで格好つけると、真ん中のジークが言う。
「俺たちはUNLEASH DOGS。ここアメ村を拠点に活動するレゲエ集団だ。実際のメンバーはもっと多いけど、メインで活動しているのはこの3人」
「…………」
 その一連の様子を見ていた大崎。
 正直、そう言われてもだからなんだという感想しか浮かばなかった。わざわざ並ぶのも意味が分からないし、反応する気にもならない。
「いやだから、なんでレゲエ集団がトルコアイス屋に詳しいんだよ。関係ないだろ」
「それが関係あるんだな」と、ジークは言う。
「俺たちは気づいたんだ。レゲエのリズムは、トルコアイス屋に対抗する力になることを!」
 自信満々にジークは言うが、当然大崎は全く納得できなかった。それを察した彼は、仕方ないなという顔をして説明を始める。それは今の言葉だけでなく、彼らは一体何者なのか、そして彼らがどうしてトルコアイス屋を追っているのかを最初から教えてくれる。

「UNLEASH DOGSはアメ村をホームに活動しているレゲエ集団だ。レゲエを愛し、街を愛す。街と音楽こそが俺たちの誇りなんだ。
 けどちょうど1年前、トルコアイス屋の都市伝説が出てきてから、街が荒れ始めた」
「ん?1年前?」と、ここで口を挟む大崎。「この都市伝説はそんな昔からあったのか?」
「ああ。最初は小さい噂でここの住人くらいしか知らなかった。けど徐々にSNSで広まって、今ではテレビでも特集されるほどになった」
「そうだったのか…」
「この1年で街も随分変わっちまった。悪い方にな。特に最近がひどくて、暴力沙汰が耐えない。それが嫌で出ていった仲間もいる」
 その話は大崎もニュースで見た。今、アメ村ではトルコアイス絡みの事件だけでなく他の暴力事件や軽犯罪も増えているようだ。それは心理学的な問題で、トルコアイス屋が襲われるのに街の人が慣れてしまったことから、暴力への抵抗感が薄れているのではと考えられている。

「だから俺たちはトルコアイス屋を倒すことにしたんだ。倒してしまえばこの街から消えるだろうって。
 毎日毎日、仲間と協力してたくさんの情報を集めた。図書館に行ったりネットに潜って文献を探した。すると驚いたことに、トルコアイス屋の都市伝説は日本だけの話じゃねえ。10年ほど前に、中国で同じ都市伝説があったんだ」
「なに、中国だと?」
「後で見せるが、民俗学についての中国の文献に、全く同じ内容の都市伝説が載ってあるんだ。しかも幸運なことに、そこには彼らがどうやってトルコアイス屋を倒したかについても書かれている。トルコアイス屋はやっぱり普通に戦っても勝てない。相手のフェイントにひっかからずに、アイスを奪わなければならないんだ。
 じゃあ中国の奴らが、どのようにしてアイス屋のフェイントに抵抗したのかというと――—」
 そこまで聞いて、大崎はピンと来る。「それがつまり……レゲエ」。
「厳密に言うと、音楽だがな」とジークは言った。
 文献には、伝統音楽や民族音楽など、人々の心に強く根差した音楽は、アイス屋のフェイントに惑わされない抵抗力を授けるという。実際に中国でトルコアイス屋を倒したのは、二胡という民族楽器の演奏家だそうだ。
「俺たちの心にはいつもレゲエがある。このレゲエのリズムが、トルコアイス屋に抵抗する力になるんだ」

 そうしてトルコアイス屋の倒し方を学んだジークたちはみっちり半年ほど修行をし、力を最大限まで溜めた。そして全ての準備ができた時、ついに彼らはトルコアイス屋に挑んだ。
「ただ、もう分かっていると思うが、結果は惨敗だった……」
 さっきまで饒舌だったジークの顔が急に悲しみに染まる。
「腕っぷしの立つ5人が奴に挑戦した。けど、一人残らず病院送りとなった」
「全滅か……。なぜだ?敗因は?」
「中国の時と違って、トルコアイス屋は成長しているようなんだ。今回のトルコアイス屋は、とにかく力が強い。これでみんなやられてしまった。どんなにフェイントを躱せても、最終的にアイス屋からアイスを奪えなければ勝利はない。トルコアイス屋は切羽詰まると力づくになるんだ」
「なんて卑怯な…!」
「だから奴からアイスを奪うためには、奴のフェイントを全て躱し、奴が焦りを見せたその瞬間に、棒を止める…!」
 ここでジークは大崎に向かって言う。
「確かに俺は見た。お前があのアイス屋の棒を止めているのを!あいつを倒せるのは、お前しかいない!」

 大崎は、自分の両手を見つめる。「俺が…トルコアイス屋を…倒す…」。
 ジークは言う。
「なあ大崎。協力して、トルコアイス屋を倒さないか?」
 すると彼に続いてリョウも口を開く。
「僕らはこの1年、ハードな修行をし、トルコアイス屋の動きを全て再現できるようになった。トルコアイス屋のスペシャリストだ。1ヵ月もあればあなたをトルコアイス屋に勝てるようにできる」「我々にお任せください」とジャマールも頭を下げてお辞儀をする。
「………」
 深々と頭を下げるジークたち。
 そんな彼らを見ながら、大崎は考える。
 正直、このままもう一度トルコアイス屋に挑んでも勝てる気はしなかった。そもそも殴り合って勝てる相手じゃないのだ。奴を倒すにはあまりにも知識と実力が不足している。

 大崎はもう一度頭の中を整理する。
 自分の目的は、トルコアイス屋を倒し、娘と仲直りをすること。
 一方で、ジークたちの目的はただ街の治安を守りたいということ。彼らの目を見れば、それは決して嘘ではないことが分かる。
 2つの意志は互いに独立していて、競合することはない。つまりWin-Winの関係である。

「いいだろう、協力しよう」
 そう言うと大崎はジークに手を差し出した。ジークもそれに応え、2人は力強い握手を交わす。
 UNLEASH DOGSと大崎の間に、こうして協力関係が結ばれた。


 修行のため、1ヵ月家を空けることになった大崎は、早速それを伝えるために里奈に電話をする。
 彼女はもちろん出ないので留守番電話にメッセージを残すが、正直にトルコアイス屋を倒すためなどと言えるわけがない。彼は嘘をついて「昔の縁で、重要な仕事ができた。機密なので詳しくは言えない。1ヵ月したら帰る」と伝えた。


#8



 修行1日目。

 ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ………。
 そこは一面鏡のあるごく普通のトレーニングルーム。
 今、そこに大崎とリョウの2人が向かい合って立っている。
 ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ………。
 部屋に流れるのは陽気で心地よいリズミカルな音楽。それはリョウの足元にあるブームボックスから流れていた。

「このトレーニングは、トルコアイス屋との戦闘の基礎となる。どんな時も、このリズムがあれば相手の動きに惑わされない」
 そうしてリョウは大崎にリズムトレーニングを教えた。
 レゲエビートに合わせてしゃがむように体を上下に揺らしてリズムをとる。BPMはリョウが操作できるようになっており、いつリズムを変えられても即座に乗りこなせなければならない。
 ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ………。
 音楽に合わせて体を揺らす大崎。
 最初、彼はこんなことになんの意味があるのか半信半疑だったが、レゲエのビートは心地よく、何も言われなくても自然に体が揺れるほどだった。
 リョウは何度もこのリズムの重要性を強調する。
「ビートに合わせて体を動かすんだ。これが基本だよ」
 リョウはそう言いながら、自身も身体を揺らしてリズムに乗った。大崎もそれを真似するように体を動かす。
 彼らはその後も数時間このリズムトレーニングを続けた。ジャマールのトレーニングに行く前に、リョウは大崎に言った。「これを毎日続けるんだ。必ず毎日。レゲエのビートを心に刻み付ければ、惑わされることはない」。

 次に大崎が訪れたのは同じ施設の地下フロア。トレーニングルームに入ると、そこは中央にロープの張られたリングがあるだけのシンプルな部屋だった。ジャマールはすでに両手にグローブをはめていて、その上に立っている。「今度は私が相手ですよ」。

 ジャマールのトレーニングはリョウとは違い、身体能力と反応速度を鍛えるものだった。ジャマールは棒の動きを模倣するような直線的で鋭いパンチを繰り出す。大崎はそのパンチをただひたすらに躱すというのが今回のトレーニングだった。
「トルコアイス屋はただのフェイントだけじゃない、素早い動きも使うんだ」とジャマールは説明した。「だから、あなたの反応速度を高めて、どんな動きも対応できるようにします」。
 大崎はジャマールの指示に従い、リングの上で素早いフットワークを行った。ジャマールは時折、大崎の動きに合わせてパンチを繰り出し、大崎はそれを躱す。
「良い、良いです!もっとリズムを感じて、動きを素早くしてください!」ジャマールは励ましながら渾身のパンチを繰り出す。大崎はそれになんとか食らいついて体を動かし避ける!「あなた本当に何者ですか!普通は躱せないですよ!」。
 そうして激しいトレーニングを行った大崎。これは彼にとって特に効果があった。なぜならこれをきっかけに、彼は自分の奥底に眠っていた戦闘者の意志を呼び覚ましたからだ。

 大崎はジャマールとのトレーニングが終わった後も、自主的にジムに行って体を鍛えた。睡眠時間は3時間ほどで、睡眠と食事以外の時間は常にハードトレーニングをした。ジークたちが休んだ方がいいというも、彼は「時間がない。無理は承知だ」と言って聞かなかった。彼は数年のブランクを1ヵ月で取り戻すつもりで、毎日狂気ともいえるほどの肉体改造に励んでいた。

 2週間もすると、大崎はまるで別人のような雰囲気をまとっていた。そして毎日毎日レゲエのリズムを刻み、パンチを躱して力をメキメキとつけた。
 彼はやはりかつてSATのエースとして最前線で戦っていただけはある。いつの間にか彼は、全盛期にも劣らない力を取り戻していた。

 そして修行も折り返し地点となったある日のこと。

「すごい……」
「人間じゃない……」
 リョウとジャマールは、目の前の光景が信じられなかった。

 そこは郊外のとある空き地。
 彼らの目の前には一本の丸太があった。全長は5メートル、太さは成人男性くらいある大きなきの幹だ。
 だが今、それは裂けるチーズのように真っ二つに裂かれて地面に転がっていた。
「まずますってとこか…」  
 その壮絶な光景に、ジークとリョウはただただ呆然と立ち尽くしていた。  
 彼らは見てしまったのだ。
 先ほど大崎が丸太の中央に指を突き刺すと、そのまま力を入れて木の中に両手を食い込ませ、扉でもこじ開けるかのように2つに引き裂いた瞬間を!
「この人…想像以上だ……!」
 ジャマールは身震いしながらそう呟いた。彼は大崎について、トレーニングの時から人間離れした男というのは理解していたが、ここまでとは思っていなかった。

「よし、そろそろ頃合いだな」
 すると、ここでやって来たのはジークだった。彼はトルコアイス屋の冷凍庫とパラソルがセットになったカートを押して来た。背中にはアイスをこねる金属棒も背負っている。
「ここからは、トルコアイス屋の実際の動きを再現したトレーニングだ」
 そう言ってジークはカートの後ろに立つと、冷凍庫を地面に固定してアイス屋台の準備をする。 
「これからお前にトルコアイスの動きを全て伝える。アイスをこねる動作、客に提供する動作、そして何よりも、あの厄介なフェイントを再現する。今のお前にどこまでついてこれるかな?」

 そうしてついに実戦トレーニングが開始する。
 ジークは冷凍庫の蓋を開けると、持っていた金属棒でさっそくアイスをこね始めた。
 次に、彼は側に積み上げられたコーンの山から一つそれを手に取った。そして拳くらいのサイズのアイスを金属棒ですくい取り、そこにコーンをくっつける。
「どうぞ」
 スッと、大崎の前に差し出されるトルコアイス。
 金属棒の先端にくっついているアイスとコーン。コーンは下向けについているので掴みやすいようになっている。
 なにも考えず、それを掴もうと手を伸ばす大崎。この時彼はうっかりしていた。普通に掴もうとするのはダメで、なぜならトルコアイス屋がまともにアイスを渡してくることは絶対にないのだ。
 スカッ。
 案の定、空を切る大崎の手。
 気付いた時にはもう遅い。いつの間にかコーンは上を向いていた。そう。これはトルコアイス屋にやられたのと全く同じフェイント。コーンを掴もうとした瞬間に、棒を半回転させて手をすかすテクニックだ!
 そして次の瞬間!
 ぺちゃ。「つめたっ!」
 ジークは棒を突き出して、大崎の頬にアイスを付着させた。「今、お前やられてたぞ」。ジークは棒を引っ込めながらそう言った。

「前も教えたはずだ。トルコアイス屋のフェイントに引っ掛かればダメージを受ける。あいつの攻撃の恐ろしさは、お前の方がよく知っているはずだ。絶対に気を抜くんじゃねえ。これも本番だと思え」
 そう忠告するジークの目は本気だった。大崎は素直に謝罪する。「すまなかった。完全に忘れていた」そう言うと、大崎は手で顔のアイスを拭う。「もう一度だ。来い!」。
 彼はそう言うと、真剣な眼差しでジークの差し出すトルコアイスを待つ。

 だが、ここでジークはトレーニングを再開するのかと思いきや、
「あ、待て。ひとつ、重要なことを話していなかった」と、ひとまずアイス棒を傍に置いた。
「俺は今までフェイントにひっかかればダメージを受けると言ったが、これは分かりやすさのために言っていて、実際は少し間違っている。フェイントに引っ掛かると、即ダメージということではない」
「何?どういうことだ」
 それは大崎にとって見過ごせない話だった。「フェイントにかかっても、攻撃を避けることができるのか?」。
 だがその質問にジークは「それは違う」とはっきり否定した。「これはつまり、フェイントに引っ掛かるというのはどういう事かという話なんだ」と彼は言う。
「いいか大崎。フェイントにひっかかるというのは、スカされることではない。
 掴もうとしてスカされた時の『しまった!』という感情の起伏が、フェイントにひっかかったと判定されるんだ」
 ジークは大崎を指さして言う。
「つまりフェイントに引っ掛かっても、心が動じなければ引っ掛かったことにはならず、ダメージを受けない!」
「なるほど……!」
 大崎はここでようやく理解した。今までのトレーニングもここにつながってくるのだ。レゲエのビートで自分の芯を作り、どんなことにも動じない抵抗力をつける。リョウもずっとそんなことを言っていたが、今、彼はその本当の意味を理解した。
「いいか大崎。重要なのは、レゲエのリズムを感じることだ。どんなことがあっても、これだけは怠るな」

 そうして実戦トレーニングが再開し、2人とも本気でトルコアイスのやりとりをする。
 ジークは何度もアイスを差し出し、それを掴もうとする大崎。しかしジークの動きは実に巧みで、棒を軽く上に引き上げたり、逆に下げたり、回転させて大崎の手を全く寄せ付けない。
 また、動きのテクニックだけでなく、様々なパターンもジークは見せていた。棒を使うだけでなく、手渡しでフェイクするものもあった。3本の指でペン立てのようにコーンを摘まむようにして持ち、大崎に差し出そうとするも、掴もうとする寸前でわざとひっくり返して地面に落としたような動きを見せる。そして実際には落とさずに、大崎の股間の辺りから垂直にアイスを引き上げて彼の鼻先にぺちょりとアイスをつける。

 大崎は最初の方は「しまった!」と思ったりイライラしたりしたが、そのたびにジークに指摘されて怒られる。「こんなことで動揺してどうする!心を常に平常に保て。レゲエだ。お前の中にある、レゲエのリズムを聴け!」。

 それから4時間後、目が慣れて来たのか大崎は少しずつフェイントを見抜くことができるようになった。リョウたちの修行も思い出しながら、着実にジークの差し出すトルコアイスを追い詰めていく。
 そしてついに、大崎はコーンの動きを完全に見切った。
 ジークが改めてトルコアイスを棒の先端につけ、大崎の前に差し出したその時!
 「ここだ!」と言ってコーンを掴む大崎!その指に触れるざらついた感触。今度は間違いなく手ごたえがあった。
 一方のジークは、掴まれてしまっては何もできないのか、アイスを差し出した状態で完全に硬直している。
 大崎はにやりと笑った。
 彼は一瞬の内にコーンを引いて、相手が何もできないうちにアイスを奪い取る!
「ハッハーッ!このアイスは俺のものだ!」
 大崎は嬉しさのあまり声に出して喜んだ。この数時間に受けたフェイントの数々を思い出し、心地よい達成感に包まれる。「やっと……勝てた……!」。

 だが、その勝利の喜びも束の間。
「………ん?」
 大崎は、自分の手に奇妙な違和感を覚えた。
 その違和感とは単純に、持っているアイスがあまりにも軽いということだった。
 大崎は自分の手を見てみる。
 確かに彼は、コーンを掴んでいた。
 しかしそれは正確に言うと、コーンのみを掴んでいるのだ・・・・・・・・・・・

「アイスが……無ぇ……」
 そう。彼の手の中にはアイスの乗っていないただのコーンがあった。
 ハッとして、大崎はジークの方を向く。
 すると、彼の持つ金属棒には彼が奪ったはずのアイスがついているではないか!しかもそれだけではない。おかしなことに、彼の金属棒にはコーンまでついているのだ。「ど、どういうことだ……?」いろんなことが起こりすぎていて、混乱する大崎。
 もう一度、彼は自分の手を見る。ここにも間違いなくコーンがある。つまり自分の握っているコーンと、ジークのアイスについているコーン。ここには2つのコーンが同時に存在しているということ。

「フェイクコーンだ」

 混乱する大崎にジークは言う。
「今、俺はコーンを2つ重ねていたんだ。お前が掴んだコーンの中には、もう1つコーンが入っていた。お前は外側のコーンだけを取って、勝ったつもりでいたのだ」
「そんな…バカな……」
「フェイクコーンは奴の中でも最も危険な技だ。練習では何回引っ掛かってもいい。だが、最後には必ず見破れるようになれ。これが出来なきゃお前は絶対にアイス屋には勝てない」

 ジークによる実戦トレーニングは非常に厳しいものだった。大崎は1週間経つまで1度もジークからアイスを奪うことはできなかった。それほどハードなトレーニングだった。
 リョウやジャマールのトレーニングも続いているので、息をつく暇もなく忙しくなる大崎。しかし、彼のやる気は凄まじく、どんなことにも必死に食らいついていった。
 彼らはまさに一丸となってトレーニングに励んだ。大崎が努力するのはもちろん、ジークたちもそんな彼を見て、強く期待に応えたいと思うようになった。「俺たちが集めたすべての情報をお前に授ける」と、ジークは大崎が満足するまで終日トレーニングに付き合った。巧みな棒捌きで大崎を翻弄し、アドバイスをする。「本物のアイス屋はこんなもんじゃねえ。俺に慣れるな」。
 1秒も無駄にできない過酷なトレーニングをこなした大崎。毎日レゲエのリズムを取り、パンチを見切り、トルコアイスのフェイントを頭に叩き込む。

 そうしてあっという間に1ヵ月が経った。
 全てのトレーニングを終え、アメ村中に散らばるUNLEASH DOGSの協力によりアイス屋の出現時間と位置特定も完了した。あとは倒しに行くだけとなる。

 ホテルの一室で、大崎はベッドに横たわり目を閉じる。いよいよ明日、トルコアイス屋と戦う。前回は完敗したが、今回はそうはいかない。自分の力を全て出し切り、必ずお前を倒してみせる。

「人間を舐めるなよ、トルコアイス屋……!」



#9


 そこはアメ村の東にある古着屋「Vintage Vibes」の前。
 夕暮れの空を背景に、対峙しているのは大崎とトルコアイス屋の2人。
 両者のお互いを見る目から、彼らが今から行うのはアイスの売り買いではなく、生死をかけた決闘なのだということが分かる。
 大崎の目は冷静でありながら、その奥で必ずアイス屋を倒すという強い意志が込められていた。一方のトルコアイス屋は、そんな大崎の成長を認めるかのような静かな笑みを浮かべている。
 ジークたちUNLEASH DOGSのメンバーは少し離れたところからこの戦いを見守っていた。大崎のすぐ側でアドバイスや応援することもできたが、この戦いで重要なのは集中力であり、近くで騒がれると気が散るという大崎の意見に従ったのだ。
 よってこの場にいるのは大崎とトルコアイス屋。
 他に邪魔者はいない。
 完全に一対一の真剣勝負。
「トルコアイスを1つ頼む」
 大崎のその言葉を合図に、戦いは始まった。

 トルコアイス屋はさっそく金属棒を使ってアイスを練り始める。
 彼の動きはまるで踊るように軽やかで、大崎は集中してその手を追った。
 ジークの動きとは全然違う、というのが最初の感想だ。さすがに伝説のトルコアイス屋は一挙手一投足に無駄がない。清流を見るような涼しさすら感じる動きだった。ついつい見惚れそうになる大崎だが、顔を叩いて雑念を振りほどく。
「レゲエだ……レゲエのリズムを感じろ……」
 ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ………。
 彼の心の中で、まるで暗闇を照らす光のように、レゲエのリズムが鳴り響く。「来いよ……トルコアイス屋!」。

 そして今、トルコアイス屋は金属棒の先端にアイスとコーンを引っ付けた状態で、大崎の前に差し出した。コーンは下を向いていて、いつでも掴めるようになっている。
 大崎は手を伸ばし、差し出されたコーンを掴もうとする。
 だが次の瞬間、彼の手は空を切った。
 トルコアイス屋は大崎がコーンを握ろうとした瞬間に、上にちょい、とアイスを引き上げたのだ。
 大崎は素早く手を上に移動してコーンを掴みに行く。しかし、アイス屋は今度は左に向けてアイスを動かし、またもや大崎の手をスカす。
 コーンをめぐる大崎とトルコアイス屋の掛け合い。大崎はもうこの程度のフェイントでは動揺しない。それもアイス屋は分かっているのか彼はアイスを小気味良く動かしながら笑っていた。
「俺にその技は効かん」
 するとトルコアイス屋は大きく作戦を変更したようだ。フェイントは効かないと判断したのか、彼は金属棒を一旦大きく頭上へと振り上げた。そしてその金属棒の先端が、彼の頭上に到達したまさにその時!

 カランカラン!
 カランカラン!
 突如、鳴り響く鐘の音。

 カランカラン!
 カランカラン!

 アメ村にトルコアイスの鐘が鳴る。
 急な展開に焦る大崎。ハッとして顔を上げると、ちょうどアイス屋の頭上に銅の鐘がぶら下がっていることに気づいた。パラソルの傘からそれは吊り下げられているのだ。

 カランカラン!
 カランカラン!

 アイス屋は再び金属棒で鐘を叩き、大きな音を出した。
「何をやっている!」と大崎が叫ぶも、アイス屋はニヤついた表情を返すのみ。
 騒がしくなる鐘の音。
 ここでまた、アイス屋は何事もなかったかのようにアイスを差し出してはフェイントをかけ始めた。アイス屋の動きに特別な変化はないので、当然のようにそれらをいなす大崎。
「それはもう効かんと言ってるだろ」
 しばらくの間、フェイント、いなす、フェイント、いなすの応酬をする2人。
 大崎は次第にイライラし始めた。さっきから同じことの繰り返し。まるで聞き分けのない子供を相手にしているようだ。タネの知ったフェイントを繰り返しては、嫌がらせのように鐘を叩いて大きな音を出す。こっちは命がけだというのに、ふざけているようにしか思えない。「いい加減にしろよこいつ…!」。

 だがこの時、彼は気づいていなかった。敵の狙いはまさにそこにあることを。
 大崎の手のひらに滲む汗。
 その鐘の音は、彼の内なるリズムを大きく乱していたのだ……!

 今、トルコアイス屋は大崎の前にアイスのついた金属棒を差し出した。「何度やっても同じだ!」そう言って大崎はコーンを追うように手を伸ばす。
 しかしまさにその時だった!
 トルコアイス屋はついにパターンを外してきたのだ。
 いつもは大崎の手を躱すように棒を動かしていたのに対して、今回、アイス屋は大崎の顔に向かってアイスを突き出したのだ。
「なッ……!」
 慌てて顔を守るように手を翳し、コーンを掴もうとする大崎だが、アイス屋はすぐに棒を横に動かしてその手をひらりと躱した!そしてそのまま突き刺すような勢いでアイスを近づける!
 顔面に突き出されるアイス。大崎はほとんど反射的に動いた。彼は後ろにのけぞると、ブリッジするような体勢でアイス刺突をギリギリで回避した。これはトレーニングの成果が実った形。ジャマールの激しいパンチを毎日見切っていた彼は、無意識でアイスを避けることができた。無意識なので精神的動揺はない!
「甘いぜ、アイス屋!」
 相手の仕掛けをまた一つ封じたことで、気が大きくなる大崎。
 けれど、ここで甘いのは実は大崎の方だった。この一連の動作はブラフに過ぎず、アイス屋は避けられることは想定内だった。
 次の瞬間、アイス屋は棒を半回転させると、コーンの向きを上向きにした。今はアイスが下で、コーンの先端が空の方を向いている。
 そしてアイス屋は、そのまま流れるような手つきで棒を下に降ろしていくと、大崎の股間をコーンで優しくタッチした。
「あ」
 思わずそんな声を出してしまう大崎。
 そしてまさに次の瞬間だった。
 ボゴッ!
 彼の腹部に強烈なストレートパンチが炸裂した。攻撃したのはもちろん、トルコアイス屋の背から突如生えた半透明の腕!
「うげええぇぇええ」
 大崎の体がくの字に折れ曲がり、たまらずその場にうずくまる大崎。胃が逆流してゲロが地面に飛び散る。「おげえええええええええ!」。
 今のは完全にやられた、と彼は思った。
 顔面にアイスをつけると見せかけて股間にコーンでタッチする。
 大崎はジークのいろんなフェイントを受けて来たが、こんなことをしてくるなんて想像もつかなかった。完全に心の隙間を突かれ、大ダメージを受ける大崎。「……許さ…ねえ…」。
 そしてこの時、ようやく彼は理解した。なぜトルコアイス屋が鐘を鳴らしているのかを。

 この鐘は、レゲエのリズムを狂わせているのだ。

 さっきの攻撃も、途中までは見切っていたが、最後に虚をつかれてしまった。
 正しく自分のリズムを取れていれば油断することはなかっただろう。それらは全て、鐘の音によって心が乱されていることが原因だ。この鐘は、大崎、いや、ジークたちの編み出した対策である『レゲエのリズム』に対するアイス屋の対策なのだ。
「こいつも……成長しているということか……!」
 
 大崎はとにかく自分を落ち着かせることを優先する。
 こんな時だからこそ、いつもと同じことをするのだ。「レゲエだ。レゲエのビートを思い出せ」。ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ………。大崎は修行を思い出し、レゲエのリズムに乗る。
 深呼吸をし、気力でなんとか立ち上がる大崎。幸いまだ体を動かすことはできた。ここからは慎重に動かなければならない。次も同じような攻撃を受けたら、いよいよ立ち上がれないだろう。それほどアイス屋の攻撃は重く、危険だった。

 けれど、そうやって警戒していたにも関わらず、大崎は再びフェイントに引っ掛かってしまう。

 仕切り直して再び棒を差し出すアイス屋。
 すると今度はアイス屋は、大崎にあっさりとコーンを掴ませたのだ。これにより彼は頭が真っ白になる。
 そして次の瞬間だった。
 アイス屋は棒を捻るように軸回転させながら自分の方に手繰り寄せると、大崎のコーンの上についていたアイスはたちまち巻き取られるように回収されてしまったのだ。「あっ!」。彼の手には空っぽのコーンだけが残る。これはジークにもやられたことがある。コーンをあえて掴ませるが、アイスだけ綺麗に回収する『ひっぺり返し』というテクニックだ!
 普段の大崎なら見破っていたこの技。鐘の音や、敵の攻撃に対するプレッシャーなどで、心の隙が彼にはあった。そしてその隙を見逃すほどトルコアイス屋は甘くない!
 明確に「しまった!」と感じる大崎。
 そしてその感情と連動するように、トルコアイス屋の背中から2本の腕が生えると、彼の顔面に左右から3発のフックを浴びせる!バキィ!ボキィ!バキィ!
 そして頭が揺さぶられフラフラになった所を大崎のシャツを鷲掴みにして引き寄せ、もう片方の手で渾身のアッパーカットをお見舞いした。ボギィ!


 …………気づくと、大崎は大の字になって地面に倒れていた。
 口から血を流し、ピクリとも動かない。歯も何本か折れている。


 その戦いの、一部始終を見ていたジーク含めUNLEASH DOGSのメンバーは全員頭を抱えた。
 こんな結末を誰が予想してただろう。あの大崎でもトルコアイス屋に勝てなかった。では一体誰なら勝てるのだろうか。戦いの中で、大崎は完全に自分のリズムを見失っていた。それはアイス屋の鐘の音が原因なのは明白だ。あの鐘による精神攻撃は今回が初めてだった。その新しい事実に彼らは絶望する。アイス屋はただの都市伝説ではない。常に成長し続ける都市伝説なのだ。
 ジークはすぐにリョウとジャマールに目配せする。戦いは終わった。今やるべきことは、敵の強さに怯えることではない。大崎を回収し、応急手当をすることだ。彼のタフネスなら、もしかすると生きているかもしれない。
 だが、そうしてジークたちが倒れている大崎の元へ走り出そうとしたその時。

 彼らの目に驚くべき光景が映った。
 大崎が、立ち上がったのだ。
 大崎はフラフラしながらも立ち上がり、アイス屋の前までやって来る。そして体中から血を流しながら相手に向かって言う。「さっさとアイスを寄越せ」。

 トルコアイス屋もこれにはかなり驚いたようだ。彼はまさに冷凍庫に蓋をしようとしていたからだ。
 彼はやれやれ、と肩をすくめてから、再びアイスを練り始めてくれる。そして頃合いで一部すくい取り、コーンをくっつけると、スッと大崎に差し出した。

「…………」
 大崎は、差し出されたトルコアイスを前にして、しばらく動かなかった。
 ここで彼は目を瞑り、大きく深呼吸をした。
 大崎は考える。
 もう体も限界に近い。この駆け引きを間違えたら次はない。流石にダメージを受けすぎている。
「スーッ、ハーッ、スーッ、ハーッ」
 深呼吸を続ける大崎。
 彼は今までの全てのトレーニングを思い返していた。それはひょっとすると走馬灯の一種だったのかもしれない。
 彼は集中する。
 集中すると、彼はジークの言葉を思い出す。

『いいか大崎。重要なのは、レゲエのリズムを感じることだ』

 そうだ、と彼は思った。
 いくら鐘の音が鳴ろうとも、内なるリズムを止めることはできない。レゲエだ。レゲエのリズムを聴け。
 ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ………。
 再び、彼の心にレゲエの魂が灯った。彼はもう惑わされない。レゲエのリズムを心に刻む!
 目を開けると同時に、彼は叫んだ!

「見切った!」
 気づくと大崎はコーンを掴んでいた。5本の指で、確実にコーンを挟み込んでいる。
 だがここで終わりではなかった!
 彼は掴んだアイスを奪い取るのではなく、目にも留まらぬ速さでコーンを下に抜き去ったのだ!
「………やはりな」
 大崎はにやりとする。今、アイス屋の差し出している棒。
 そこにはアイスと、そしてコーンがついていた。大崎が先ほどコーンを抜き去ったというのに、まだコーンが付いている。もちろんこれは、フェイクコーンだ。「お前の技、見切ったぜ」。
 その瞬間に、トルコアイス屋の表情が変わった。この時まで彼はどこかニヤニヤして余裕の表情を浮かべていた。だが、フェイクコーンを見抜かれたことで彼は初めて危機を感じたのだ。
「トルコアイスはもらった!」
 そういうと、大崎はもうすでに2つ目のコーンを掴んでいた。
 アイス屋の表情がはっきりと歪む!
 しかし、これでも大崎はまだ勝負を焦らなかった。
 彼はもう一度、内なる心の声を聴く。
 ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ…ズンチャ………。
 そこにに鳴り響くのは、レゲエのビート。

 するとここで大崎は、驚くべき行動に出た。
 彼は掴んでいる2つ目のコーンを、もう一度思いっきり抜き去ったのだ。
「あ!!!」
 この光景を見ていた人は全員そう声を上げた。フェイクコーンを見抜いて一つ目のコーンを抜き去ったのはいい。けれど、そこからもう一度コーンを引っこ抜けば、アイスだけしか残らなくなるではないか!

 だが、その全員の予想に反して、大崎の抜き去ったコーンの下から現れたのは、3つ目のコーンだった……。
 大崎は言う。
「ダブルフェイクコーン。重ねればいいってもんじゃねえんだぜ」
 そして大崎は現れた3つ目のコーンをがっしりと掴んだ。

「!!?」
 パニックに陥るのは、今度はトルコアイス屋の方だった。
 実は彼は、1つ目のコーンを抜かれた時はしめしめと思っていた。驚いた演技をし、ダブルフェイクコーンでとどめを刺すという完璧な戦略だった。
 だが、今何が起きているのか。
 大崎は2つ目のコーンも抜き取り本物のコーンを掴んでいるではないか! 
 ついに焦りを隠せないアイス屋。その証拠に次に彼の選択した行動は、実に安直なものだった。
 アイス屋は、何を思ったのか右手で大崎の後ろを指さした。 
 そして驚くような表情をしていかにもすごい現象、例えばUFOを発見したかのような仕草をしている。
 大崎は後ろを振り返った。
 そして当然、それはブラフだった。彼の背後には何もない。ただのアメ村の道路だ。
 そして次の瞬間!
 アイス屋は大崎が後ろを向いた瞬間に、金属棒を軸回転させながら自分の元へ引き下げる。さっきと同じ、ひっぺり返し。コーンからアイスを切り離し、アイスのみを回収するテクニックだ!
 だが、ここで大崎は言う。
「俺に2回目は通じない」

 今まさにアイス回収するために金属棒を回転しようとしていたアイス屋。
 だが、ここで完全に彼の手は止まる。
「!?」
 アイス屋は目を剥いた。彼の棒が、完全に停止しているのだ。
 訳も分からず、棒の先端を見るアイス屋。
 するとそこには、素手で棒を掴み、ひっぺり返しを封じる大崎がいた。

 アイス屋がどれだけ力を入れても、金属棒はまるで時が止まったかのように動かない。大崎の筋肉が隆起し、回転を完璧に封じているのが分かる。
「これはもらっていくぜ」
 そう言うと彼は、完全に動かなくなった金属棒からいともたやすくアイスを回収した。


 そうして、ついにアイスを手にした大崎。それはまぎれもないトルコアイスであり、大崎の勝利だった。周囲は一瞬の静寂に包まれた後、すぐに彼を中心に歓声が沸き起こる。

 日本を騒がせる都市伝説の一つが、まさに破られた瞬間だった。


#10


 勝負に勝つと、トルコアイス屋は煙のように消えてしまった。アメ村の路地には、彼が使っていたアイス屋台だけが残る。
「勝った……のか……」
 大崎が呆然と立ち尽くしているところに、ジークたちが集まって来て彼を祝福した。
 誰かが「パーティーの始まりだ!」と言い、UNLEASH DOGSたちは置き去りにされた屋台を使って勝手にトルコアイスを作り始める。それをみんなで分けてアイスパーティーをした。通りすがりの人にもトルコアイスを配布したりして辺りは賑やかになった。
 大崎もアイス屋から奪ったアイスを食べる。アイスはよく練られていて非常においしかった。舌触りが水晶のように滑らかで、濃厚な甘みと心地よい冷たさが口の中を満たした。殴られた時に歯を折られているのでとても滲みるが、それを差し引いてもなお、おいしかったと言えるだろう。
 そうしてアイスを平らげた大崎。
 彼は周囲をきょろきょろと見渡した。
「……………」
 彼の周りで騒いでいるUNLEASH DOGSのメンバーたち。
 しかし、そんな彼らとは対照的に、大崎は静かだった。というのも彼はこの時、別のことを考えていたのだ。

『アメ村に出現するトルコアイス屋を倒すと願いが叶う』

 彼は確かにトルコアイス屋を倒した。
 けれど、トルコアイス屋は願いを叶えるどころかいなくなってしまった。ランプの魔人のように願い事をするイメージでいたので、この後彼は何をすればいいのかわからない。
 大崎はその辺で騒いでいたジークを捕まえて尋ねる。
「おい。トルコアイス屋を倒すと願いが叶うんじゃないのか?」
「叶う……と聞いているが」
「どうやって?消えたぞあいつ」
「そこまでは知らねえ。倒したのはお前が初めてだし。試しに願い事してみるのはどうだ?」「どこに?」「そりゃお前……この屋台とか?鐘もあるし」

 ジークは適当にそんなことを言っている。おそらく本当に知らないのだろう。大崎はとりあえずアイス屋台の前に立つと、側にあった金属棒を手に取りそれで鐘を鳴らした。その後、まるで参拝でもするかのように手を合わせて願い事をする。娘との関係が良くなりますようにと。
「…………」
 しかし、特に何かが変わった気はしない。トルコアイス屋はどこにも現れないし、自分の身体に変化が起きたような感覚もなかった。

 ただ、と大崎が思うのは、彼の願いは娘との関係修復なので、今ここで何かが変化するというのはないだろう。ひょっとすると、アイス屋を倒した瞬間にそれは叶っているのかもしれない。大崎は気持ちを切り替えて言う。「とりあえず帰ってどうなるかだな」。

 時刻は午後5時。
 パーティーは続き、音楽、踊り、そして笑い声がアメ村の人々を楽しませる。大崎はこの一日の出来事を心に刻みつつ、東京に帰るまでの残り時間を仲間たちと楽しんでいた。
 だが、そうやって大崎がジークと肩を組み、馬鹿のように笑っていたその時。

「なにやってんの……?」
 突然、後ろからそう声をかけられる大崎。振り返ると、そこには5人の女子高生が立っていた。その中でも1人、大崎に声をかけたのは何を隠そう里奈だった。
「この人たち……誰?」
 里奈は周囲を見渡しながらそう言った。
 辺りには、ヒッピー集団のUNLEASH DOGSのメンバーが騒いでおり、ジークに至っては酒を飲みながら「ポゥ!ポゥ!ポゥ!」と奇声を上げている。
 大崎は、里奈の顔が一瞬で曇るのが分かった。「これは、えっーと、いろいろあってだな」。慌てた彼は、話をそらすために逆に彼女に質問する。「というか里奈、どうしてここに…?」。
 里奈はその質問を受けて、大きなため息をついた。呆れたというように首を振ると、短くこう答える。「修学旅行だけど」。
 それを聞いて大崎は、確かに数ヵ月前にそんな話をされた記憶がある。「あー…完全に忘れてた……」。

「ヨー、この子はどうしたんだ?知り合いか?」
 するとここで、大崎の背後からジークがやってくる。「ヤーマン!お嬢ちゃん」。ジークは大崎と里奈の関係を知らないので適当なことを言う。「君かわいいね。俺と一緒にダンスでもどうだ?」。
 そうして一人で踊り始めるジーク。ジークたちはいつの間にか酒を持ち込んでいてすでに酔っぱらっていた。「お嬢ちゃん、レゲエのリズムを感じるか?内なるリズムを」と言って腰をくねらせながらダンスをする。
 しかし、そんなジークと目も合わせようとしない里奈。当然、彼女は怒っているのだ。気持ちのいいくらいの無視でジークは悲しい気持ちになる。最終的に「俺はお呼びでないらしい」と肩をすくめながらそそくさとその場を去って行った。
 邪魔者も消え、再び大崎を睨みつける里奈。ここまでで、彼女の怒りは限界に達していた。
 大切な任務だと言って1ヵ月も家を空けて出て行った父親。それほど長期間帰ってこないというのは、かなり危険な任務ではないかと彼女は心配していたのだ。

 だが、蓋を開けてみるとどうだ?
 残念ながらこの状況、彼女にとっては父親がヒッピーに混ざってアイスを食べながら騒いでいるという風にしか見えないのだ。
 ついに彼女は、絞り出すような声で言う。「もう無理…頭おかしすぎる……」。
「落ち着け里奈。これには理由が———」
 しかし、大崎がそう言いかけた次の瞬間には、彼女は走ってその場を去って行った。2人の様子を見守っていたクラスメイトたちも、「あ、待って!」「どうしたの里奈ちゃん!」と慌てて追いかけていく。
「里奈、待ってくれ!」
 当然大崎も里奈を追いかけようとしたが、その瞬間にアイス屋から受けた傷がうずき、思わず片膝をついた。「ウグッ……!ま…待て……里奈!」。

 そして気づくと彼女は見えなくなっていた。
 大崎はそのまま地面にうずくまり、しばらく立ち上がることができない。
「なんで…なんでだよ……!」
 何もかもが最悪だった。仲直りの願いをしたというのに、何も変わっていなかった。むしろこのタイミングで引き合わせる。この仕打ちはなんだ?これはトルコアイス屋の仕組んだことなのか?
 彼は地面に手を叩きつけながら言う。「どうして……どうしてこうなる……」。

 その後、項垂れながら東京に帰った大崎は、疲れもあって家に着くなりベッドに倒れこんで熟睡する。
 翌日の正午に目が覚めて、出前などを頼んでさっそく酒を飲み始めた。調べたところ、修学旅行の予定は明日までとなっている。すぐに会えるのはいいが、一体どういう顔をして会えばいいのだろう。以前よりも彼は娘との付き合い方が分からなくなっていた。

「何がトルコアイス屋だコラ。何が都市伝説だクソッ!」
 どうにも落ち着かず、悪態をつき始める大崎。酔っぱらっていてムカついている彼は、勢いのまま間宮に電話をする。
「おい。お前嘘つくんじゃねーぞ」
「いきなりなんの話だ」
「トルコアイス屋倒しても、なんにもならねーじゃねーか」
「知るか」
 間宮は一瞬で電話を切った。すぐに電話をかけ直したが、彼はもう出なかった。

 すっかり酔ってしまった大崎は、もう何もかもがどうでもいいという気持ちになり、早いうちから寝ることにする。
 ベッドに潜り込み、目を閉じる大崎。
 明日、里奈が帰って来る。
 もうこうなったら正攻法でいくしかない。娘と正面から話をするのだ。この1ヵ月のことも正直に話せばわかってくれるかもしれない。
「……ふぅ」
 彼は憂鬱な気分だった。あの時、アメ村で見た彼女の軽蔑した表情を思い出すと、まともに話を聞いてくれるとは思えないが、それ以外に方法はなかった。
 そんなことを考えていて彼はその日、ほとんど眠ることはできなかった。


 そして、次の日。
 なんと、里奈は帰ってこなかった。
 その代わりというように、警察からこんな電話がかかってくる。



「里奈さんが誘拐されました」



#11


 里奈は夜にホテルを抜け出してそのまま帰ってこなかったそうだ。
 また、彼女がいなくなったまさに同時刻、警察に誘拐を目撃したという通報があった。犯行現場は里奈のホテルから歩いて15分ほどの所にある人気のない裏通り。そこで、白バンに押し込まれる女子高生を見たという。それは実に手慣れた犯行だったそうだ。ドライバーや実行犯の顔も見えないほど、一瞬のうちに連れ去られてしまったという。
 警察はこれを、最近世間を騒がせている連続誘拐事件と見て捜査を開始した。これほどまでに手慣れた誘拐というのは、その事件の特徴とかなり一致していたからだ。
 また、クラスメイトの話によると彼女は出て行く前に何者かと電話をしていたらしく、その後にホテルを抜け出したことから、犯人に直接呼び出された可能性が高いとのこと。
 よって警察は連続誘拐事件の線と、里奈の交友関係の線から犯人を追っているとのこと。


 大崎は寝不足の朝の10時に、警察からいきなり電話がかかって来たと思うとそんな話を聞かされる。
 彼はまず、話の内容を理解するのにしばらく時間がかかった。
 そしてそれをようやく飲み込めた時には、彼は正気ではなくなっていた。 
 まず、彼は怒りのあまり気づくとスマートホンを粉々に握り潰していた。 
 次に、傍にあった木製の椅子を、新聞でも丸めるようにひねり潰す。その後、ありとあらゆる壁に頭を打ち付けて何個もクレーターを作ってようやく冷静さを取り戻したようだ。

「やばい……スマホ……」
 家具や壁の残骸が散らかるリビングの中央。粉々になったスマホを見ながら、大崎はそんなことを呟く。勢いでスマホを壊したが、もし今里奈や警察から連絡が来たらどうする?彼は激しく後悔した。すぐに家を飛び出し街の携帯ショップへ駆け込んだ。

 スマホを買い替え、気づくと時刻は午後3時。
 曇天の空。
 湿った風が、東に向かって流れている。

 大崎は近所の公園を訪れた。いつも酒を飲みに来ていた公園だ。ここに来たのに特別な理由はなく、家にいるよりも外の空気を吸いたかったのだ。
 空には雨雲が広がり、そのせいかこの日は珍しく人が少ない。地面から上るムッとした湿気に、蝉の声が溶け合う。
 大崎は公園の散歩コースを歩きながら今後のことを考えた。
 このまま連絡をじっと待つなんてことは彼にはできない。自分も元警察みたいなものだ。できることはいくらでもある。どんなことをしてでも必ず犯人を見つけ出し、血祭りにするのだ。

 警察の話の中で、まず、彼が気になったのは里奈はホテルを抜け出す前に誰かと連絡を取っていたということ。その後、慌ててホテルを出て行ったことから、犯人からの呼び出しと考えるのは妥当だろう。
 ではそれは一体誰なのか。修学旅行で、夜中にホテルを抜け出すことは当然禁止されているはず。それを破ってまで会いに行くのは、家族や友人など、かなり親しい間柄でなければあり得ない。里奈の交友関係が重要な手掛かりとなる。

 だが………と、ここで頭を抱える大崎。悲しいことに、彼は里奈の人間関係についてほとんど知らなかった。担任の名前すら分からない。友人についても、小さい頃に遊んでいた子はうっすらと覚えている程度で、高校生になってからの友人は顔すら知らなかった。
 結果、大崎には1人も候補が思い浮かばない。
「………」
 彼は自分を殴り飛ばしたくなった。こいつは立派に父親ぶっているが、娘のことをほとんど何も知らないのだ。妻がいなくなって、仕事も辞めて、里奈と正面から向き合った時に、うまくいかないのは当然だろう。

 大崎は、今の自分ほど惨めなものはなかった。
 この1ヵ月、自分は何をしていたのか。
 トルコアイスにかまかけて、気づくと娘を誘拐されてしまった。自分のこのあまりの馬鹿さに、飲み込んだはずの感情が込み上げてくる。自分自身に対する怒りの感情だ。
「いい加減にしろよマジで……」
 そうして歯を食いしばり、肩をわなわなと震わせていた大崎。

 ――—するとその時だった。

「ん、あれは……」
 彼は思わず立ち止まる。 
 散歩道の向こう、グラウンド広場の中央に、大きな看板を掲げて叫んでいる老人が目に入ったのだ。
「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」
 それは間違いなくあの老人だった。手に持っている看板も前と同じで、「トルコアイスを禁止しろ」という文字が書かれている。
「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」
 相変わらずトルコアイスに反対している老人。
 以前はその言葉を聞いても、どういう感情なのだろうと好奇心しか浮かばなかった。

 だが、今の彼は違う。
 今、大崎はそれを聞くと、トルコアイス屋に対する怒りが沸々とこみあげて来るのだ。
「そうだよ……あの野郎だよ………!」
 彼は思い出す。
 正々堂々とルールに従って勝負し、勝ったにも関わらず願いを叶える前に去って行った。いや、それどころかより一層娘との関係は悪化した。最悪のタイミングで里奈が現れたが、そもそもトルコアイス屋がいなければアメ村に行くことなどなかっただろう。アメ村に行かなければ少なくとも悪化することはなかったはず。
 考えれば考えるほど、腹が立って来た大崎。ふざけるなトルコアイス屋。何が都市伝説だ。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。

 気づくと大崎は、老人と一緒に叫んでいた。

「「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」」

 大崎と老人は肩を組み、拳を振り上げながら叫ぶ。
「「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」」
 大崎は疲れてしまった。
 何もかもうまく行かない。すべてが空回り。娘ひとり守ることができない俺はクズ親父だ。
「「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」」
 大崎と老人は叫ぶ。
「「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」」
 彼らは叫び続ける。
 叫べば叫ぶだけ、世界が変わるような気がしたからだ。
「「トルコアイス反対!トルコアイス反対!」」
 だが、そうして夢中になって大崎たちが叫んでいたその時———。

「トルコアイス反対!トルコアイス反———」
 ボゴッ!
 大崎は顔面に強烈なストレートをもらう。
 鼻がバキバキに折れ、血を吹き出しながら後ろに5メートル吹き飛ぶ。「ブゲェェッ!!!」。
 大崎の隣で叫んでいた老人は、それを見てぴたりと口を閉じた。

「痛ッえ……!」
 無様に地面に転がる大崎。彼は四つん這いの状態で、あふれる鼻血を手で抑えていた。
「てめぇ…やりや…がったな……!」
 彼はよろめきながら立ち上がり、殴って来た相手を見る。油断していたとはいえ、こんなに正面から殴られることはめったにない。気配を気付かせないまま、この威力のパンチを繰り出すことは常人の技ではない。それほど相手は手練れだということ。
 彼は深呼吸して一度自分を落ち着かせながら、今殴って来た相手をにらみつける。

 すると驚いたことに、そこにいたのはトルコアイス屋だった。

 忘れもしない。まさにアメ村で戦ったあのトルコアイス屋の男である。
 アイス屋は平然とした表情で立っていた。まるで自分は何もしていないというようなすました態度でそこに立っている。
 大崎はその顔を見た瞬間に、頭の糸がプツンと切れてしまった。こいつはいつも人のことを殴っては、自分は何もせず、ヘラヘラと笑っているだけなのだ。
「てめえだけは許さねえ…!」
 アドレナリンが脳内を駆け巡り、鼻の痛みなど消える。
 彼はアイス屋に向かって勢いよく駆け出すと、そのままスピードを乗せた拳を繰り出した!

「待て」
 だがその時。
 トルコアイス屋はそう言った。
 それは大崎が聞く初めてのトルコアイス屋の声だった。ただ、やはり彼は人間ではないのだろう。その声は、耳で聞こえているというよりは脳に直接話しかけられているかのようだった。頭の中でアイス屋の声が反響する。
 大崎は、とっさの判断で拳を止めた。それはまさにギリギリの判断で、数センチ先にはアイス屋の顔がある。
 けれど、そんな状況にも関わらずアイス屋は平然としていた。眉一つ動かさず、黙って大崎を見ている。
「何をしに来た」
 大崎がそう尋ねると、彼は言う。

「トルコアイスは人と人を繋ぐ魔力がある。それはすでにお前らの中にある」

 それだけ言い残すと、実にあっさりと、トルコアイス屋は消えてしまった。
「……………」
 昼下がりの静かな公園に、取り残される大崎と老人の2人。
 大崎と老人は、しばらく何も言うことが出来ず、その場に立ち尽くしたままお互いに顔を見合わせていた。



「私は孫に会いに行くよ」
 老人はそう言うと、荷物をまとめて公園を去って行った。看板に関してはもう必要ないと言って、バキバキにへし折ってから帰って行った。その様子を見ると、トルコアイスの反対運動はやめるのだろう。

 彼は思い出す。さっきのアイス屋の言葉は、明らかに大崎だけでなく老人にまで向けられていた。
 老人は、あの言葉を聞いて何を思ったのだろう。孫に会いに行くと彼は言うが、孫は殺されたのではなかったのだろうか?彼は、本当はどういう思いでトルコアイス屋のアンチ活動をしていたのだろう。
 老人の行動に、いろんな疑問が浮かんでくる大崎。だが、彼はすぐに首を振ってそれらを頭から追い出した。老人は老人。自分は自分。関係ないことに口を挟む余裕なんてお前にはない。  

 ようやく大崎も、目が覚めた気分だった。
 自分が父親として失格だとか、そんなことはもはやどうでもいい。とにかく娘を取り戻す。それがお前がやるべきことだ。

 その後、すぐに家に帰った大崎は里奈の部屋に入って犯人についての手がかりを探す。犯人が特定できなくても、何か手がかりになるようなものがあれば御の字だ。
 彼は鞄や机の上、棚、ありとあらゆる場所を探した。
 そう簡単にめぼしいものは見つからない。だが、彼はそれらを探しながら里奈が学校でどんな生活を送っているのかを間接的に知る。陸上部なのは知っていたが、今は部長になっているらしい。大会に向けてトレーニング記録を残していたり、かなりマメなようだ。
「なかなか頑張ってるなあいつも……」
 大崎は気を取り直し、犯人につながるものを徹底的に探した。何か出てこいと祈りながら彼は探す。

 するとその時。
 テケテケテケテン♪
 テケテケテケテン♪ 
 大崎のスマホに、電話がかかって来た。

 それは里奈の事件担当の刑事からだった。ついに事件に進展があったらしい。
「防犯カメラの一つに、犯行直後の白バンが映っていました。しかも、そこには目出し帽を取った犯人の姿もありました」
「なに、本当ですか!」
 白バンだけでなく、犯人の姿も映っていた?ということは、犯人も特定できたということか?
「それで、誰ですか?」と大崎は尋ねる。 
 しかし、その質問に刑事は「まだわかりません」と答えた。
 というのも話によると、犯人が映っているのはいいがその映像自体の画質は悪く、距離も遠いため特定できるほどのものではないそうだ。専門家に見せてもこの映像から顔の特徴を抽出することは不可能であるとのこと。
「それじゃあ…まだ犯人が分かったわけじゃないのか……」
 大崎は冷静にそう言った。犯人が特定できないなら、あまり大きな進展ではない。カメラに映っているとは言え、それ以上の情報がないのならそれは映っていないのと同じだ。
 するとその大崎の指摘に刑事は「全くその通りです」と言う。だが、続けて彼はこう言った。
「ただ、顔などは分からないのですが、犯人はとても……特徴的な見た目をしてまして…。もしかするとご存じかもしれないと思い、連絡しました」
 大崎は刑事の言いたいことがあまり分からなかった。なので彼は率直に尋ねる。
「何が特徴的なのですか?」
 刑事は言う。


「犯人は、赤モヒカンなんです」


#12

 そこは大阪湾の離れにある廃倉庫。サッカー場が数面分はある非常に広い倉庫だが、何年も使われていないため外も中も状態は悪い。
 今、この倉庫の中央には大きな鉄製の檻が置かれていた。中には何十人もの女性が後ろ手に縛られた状態で転がされている。年齢は10代から40代。全員布で猿轡をされて、薬で眠らされているようだ。 

「……ん」
 重い瞼を開けて、おずおずと身体を起こしたのは大崎の娘、里奈だった。彼女はすぐにここが檻の中だということと、後ろ手に縛られていることに気づき、そういえば自分は誘拐されたことを思い出す。

「よう。元気か?」
 するとその時だった。檻の外から声をかけられる里奈。
 見ると、そこには赤モヒカンの男がいた。その特徴的な髪型はもちろん、彼女の恋人である高坂海斗だった。
 海斗は猿轡で話せない里奈に微笑みながら言う。「よく似合ってるよ」。里奈はそんな海斗を睨みつけることしかできない。
 彼女にとってこの男ほど憎たらしい男はいなかった。彼こそが修学旅行の夜、自分を外に呼び出して連れ去った本人だった。どうしても会いたいと急に電話をかけてきて、断ることができなかった。少し話すだけという約束で彼女は会いに行ったが、瞬く間に路地裏に連れていかれ、待機していた白バンに押し込まれてしまった。

 悔しそうに海斗を睨みつける里奈。それを見た海斗は、恍惚とした表情を浮かべた。彼はサディズムの性癖を持っていた。彼はもっと彼女をいじめたくなり、聞いてもいないのにこれがどういう状況なのかを説明し始める。

「お前らはこれから海外の金持ちに売られる。よかったな。これから金持ちのもとで暮らせるんだ。もちろん人間じゃなくて、玩具としてな!ハッハー!」
 彼は自分たちの正体についても里奈に話した。
 彼が所属しているのは人身売買を生業とする犯罪組織。今、世間を騒がせている誘拐事件はもちろん彼らの仕業だった。海斗のように親密になってから連れ去るタイプもいれば、無理やり車に押し込んで連れ去るタイプもいる。里奈の周りで眠っている女性たちは、そうして攫われて来たようだ。
 海斗の話では、もう少しで密輸船がこの大阪湾に立ち寄るという。そこで女たちを引き渡せば取引成立。報酬が組織の口座に送金されて、彼らの仕事はそこで完了する。
「喜べよ。この取引が成功したら俺は幹部に昇格だ。お前のおかげで、俺は新しいステージに進むんだ」

 海斗はとても機嫌が良かった。彼はこのプロジェクトの指揮官として非常にうまく立ち回った。あと少し。密輸船から連絡があり次第、女を連れて船に乗り、合流ポイントで引き渡す。組織の繁栄と、自分の昇格はもうすぐそこまで迫っている。
 海斗は里奈に忠告する。
「いいか?俺はこのミッションを必ずやり遂げる。見ろ。そのために、組織の兵士もほとんど出動させた。こいつらは、平気で女子供も殺せる筋金入りのクズどもだ。お前、逃げられると思うな?」

 その言葉を受けて、改めて辺りを見渡す里奈。
 倉庫の中は穀物用の木箱や大型コンテナがたくさん並んでいて見通しが悪い。しかし、それでもかなりの人数が檻を守るように徘徊していることが分かった。また、彼らは戦場にいるかのように完全武装しており、警察が仮にここを見つけ出したとしても返り討ちにしてしまうのではないかと思うくらいだった。

「………うぅ」
 さっきまで、海斗の前で強がっていた里奈だったが、自分の置かれている状況を理解するとその表情も崩れる。映画やドラマで売り飛ばされた女性がどうなるか。彼女はこれからのことを想像したときに、たまらなく恐怖を感じた。
 海斗はそんな里奈を見てさらに興奮したのか、彼女をますます挑発する。
「ククク。お前は本当にバカな女だ。お前は俺のことが好きだったみたいだが、俺はお前のことは商品にしか見えなかったぜ」
 それは里奈を深く傷つける言葉だった。なぜなら彼の言っていることは紛れもない真実。誘拐されるまでは、彼女は海斗のことを愛していたのだ。
「ウーッ!ウーッ!」
 悔しさのあまり、ついにうめき声をあげる里奈。
「いいね~その顔。その顔が見たくて俺は人攫いしてるんだ。最高だぜ」
 海斗は徹底的に里奈を煽った。彼は里奈のような強気な女をいじめることが特に好きだった。巧みな言葉を駆使して里奈を挑発する。「お前はただのメスだ」「逃がしてほしいなら俺のモヒカンをしゃぶれ」「嘘だよバーカ。触んじゃねえ。俺のモヒカンは神聖なんだ」。

 里奈はこの時、海斗に対してもはや怒りという感情はなかった。それよりもただひたすらに怖い。人はこれほどまでに豹変するのか。一時は父親と喧嘩までして彼のことを好きだったのに、こんな人間だとは思わなかった。
 あまりの絶望に、里奈は全身から力が抜けていくのを感じる。その様子を見ていた海斗はよだれを垂らしながら言う。「あ~それいい。その顔いい。勃起してきた~」。
 すると、そうして海斗が里奈のことを挑発して遊んでいた時のこと。
 ピボッ!と、海斗のトランシーバーに連絡が入る。
「密輸船からたった今通信が届きました。あと30分で目標ポイントに到達予定。出発の準備を」「了解した」
 通信を切ると、海斗はさっきまでとは人が違うように仕事人の顔つきになる。彼は里奈など見向きもせず、素早く倉庫の入り口の方へ走って行った。

「おい、メス共。起きろ」
 そして約20分ほど経った頃。ついに海斗がたくさんの兵士を連れて檻の所までやって来た。
 彼は懐から鍵を取り出し扉を開けると、後ろの兵士たちに向かって命令する。「お前ら、連れていけ」。
 その言葉を待っていましたとばかりに次々と兵士たちは檻の中に入ると、中にいる女たちを手当たり次第に捕まえて外へ連れ出した。女たちは大半は目を覚ましており、皆、彼らに抵抗して暴れた。だが、手を縛られており、かつ相手は屈強な兵士なのでなすすべもなく、俵のように抱えられて運ばれていった。
 1人、また1人と連れ去られていく女たち。入り口の近くにいた女性から次々と攫われていった。
 その様子を見て、里奈は恐怖で動くことが出来ない。海外に売り飛ばされる実感がまさに頭を支配した。もう二度と日本には戻ってこれない。それだけでなく、自分は1ヵ月後に生きているのかも怪しい。頭のおかしい連中に遊ばれた後で殺される。それを考えた時、彼女は足が震えて動けなかった。

「オラッ!さっさと出てこい!」
 そしていよいよ里奈の番が回ってくる。
 彼女の前に現れたのは、やはり海斗だった。「里奈ちゃん、大人しくお船に乗りましょうね~」。そう言って海斗は里奈の髪の毛をがっちりと掴むと、力任せに檻から引きずり出した。そして抵抗できないように彼女の首を腕で締め上げながら、倉庫の外へ向かって歩き始める。「お前は若いから特別に高く売れる。最後まで彼氏想いの良い女だよハッハー!」。

 そうして里奈は海斗に引きずられるようにして倉庫を歩いた。倉庫は物が多くて迷路のようになっていたが、当然海斗は迷うことはない。
 里奈はもうだめだと思った。髪の毛を引っ張られたり、頭を圧迫されていることの痛みなどもはや感じない。そんな痛みを上回る絶望が、彼女を支配していた。
 大きなコンテナの側を、引きずられながら歩く里奈。
 一歩進むごとに、倉庫の出入り口が近づいてくる。

 ――—―だが、この時。

 ピボッ!と音が鳴ったと思うと、海斗のトランシーバーに通信が入る。
「もしもし。こちら海斗。何だ?トラブルか?」
 海斗はそう尋ねる。警察がここを嗅ぎ付けたのだろうか?
 相手はそれに対して何かを答えているが、通信状態が良くないのかうまく聞き取れない。
「どうした?何があった?トラブル発生か?」
 海斗がそうして再度通信を入れると、少し遅れて応答が返って来る。 
「素手の…男……。人が……!人が……!」
 通信状態というよりは、通話の相手が口ごもっているようだ。かなり焦っている様子で、とぎれとぎれの日本語を話す。
「男?サツか?落ち着け!説明しろ!何が起きている?」と海斗は受話器越しに叫ぶ。
 すると通話の相手は、助けを求めるようにこう言った。

「素手の中年男性に、襲われてます!人が、潰されて――—」
 ぐちゃぁ……!

 鈍い音とともに通話が途切れた。肉ごと骨を折るような気味の悪い音だった。
 トランシーバーを片手に、海斗の背筋に冷たいものが走る。最後の音はなんだ?何か想定外のことが起きているのは間違いない。
 海斗の額に、じんわりと嫌な汗が滲む。

 するとその時、
「ん?なんだ?」
 ここでふと、彼はあることに気づく。
 さっきから自分の右腕が、なぜか小刻みに震えているのだ。
 海斗はすぐに右腕を見た。そこにはもちろん、里奈の頭があった。彼女の頭をヘッドロックで締め上げているのだから当然だ。
 ただ、振動が伝わっているのもまさにここからだった。

「………てめえ、何がおかしい?」
 海斗は気づく。
 この振動の原因。どういうことか、さっきから里奈が笑っているのだ。
 布で口を塞がれているので声は出ていないが、くすくすと彼女は笑っていて、その振動が伝わっているのだ。
「おい、その笑うのをやめろ!」
 バシン!
 海斗は腕を解いて里奈を正面に立たせると、彼女の頬を思いっきり叩いた。
「その顔を!やめろって!言ってんだろ!」
 バシン!
 バシン!
 バシン!
 海斗は何度も里奈の顔をはたいた。さっきのトランシーバーの出来事もあり、彼は不安だったのだ。女を殴ることで、そんな気持ちを紛らわせていた。
「このクソ、このクソアマコラ!」
 バシン!
 バシン!
 バシン!
 往復ビンタで赤く腫れあがるまで殴り続ける海斗。
 するとここで、あまりに頬を何度もはたいたため里奈の猿轡がほどけてしまった。一枚の白布が、はらりと地面に落ちる。
「このっ!このっ!このっ!」
 それでもお構いなしに、何度も里奈を叩く海斗。だが、どれほど叩かれても、彼女は笑みを絶やさなかった。
 そして、それだけじゃない。

「かわいそうな男」

 開口一番、里奈は海斗にそう言った。
 彼女のその表情には、今までの恐怖は一切ない。曇りのない目をして海斗を見ているのだ。
「な、なんだその顔は…。言え!何が起きている!」
 海斗は明らかに動揺していた。
 目の前の女が全く恐怖を感じていないからだ。そしてそれは恐らく、あのトランシーバーの連絡を聞いてのこと。
「オラ!このクソアマ!次は鼻をへし折るぞ!」
 そうして怒鳴り散らす海斗。しかし、そう振舞ってはいるものの実際は冷や汗が止まらなかった。彼は里奈の頭をもう一度掴み、ヘッドロックして尋ねる。「言え!なんだ!警察か?警察が来たんだろ!吐けよ!」
 そこまでされているというのに、里奈は何もしゃべらない。ただ、静かに海斗を見つめるだけだ。
 海斗は屈辱を感じた。さっきまで震えていたはずの女が、どういう訳か自分を憐れんでいるのだ。
 彼は我慢の限界だった。焦りで正常な判断もできなくなっていた。彼は懐から拳銃を取り出すと、里奈の頭に突き付けてこう言う。
「俺をバカにした奴は死ぬ。お前はもう死ね」

 だが、そうして海斗が引き金を引こうとした、まさにその時だった。

 ボゴンッ!
 大きな衝撃音が、倉庫の中に鳴り響いた。
 何か砂袋のようなものが物凄いスピードで飛んできて、それは海斗の目の前を横切り、側のコンテナに衝突した。
 恐る恐る、その方を見遣る海斗。
「なっ……!これは!!!!」
 なんと今、そこには1人の兵士が大の字で張り付いていた。
 コンテナは大きくへこみ、彼を中心としてクレーターのようになっている。「ゴハッ…!」。兵士は口から血を吐くと、ずるずると地面に滑り落ちてそのまま動かなくなった。
「なんだよ…これ……」
 海斗は思わずそんな声を漏らした。彼は目の前の光景を信じることができなかった。
 しかし、そうして理解を拒否する海斗に、容赦なく突きつけられる現実。さらに追い打ちで3人の兵士がコンテナに叩きつけられたのだ!
 ボゴンッ!
 ボゴンッ!
 ボゴンッ!
 全員最初の兵士と同じように大の字になってコンテナの壁面に張り付いた。当然、3人ともすでにこと切れている。
 海斗は口を開けたまま、ガタガタと震えた。
 全身の発汗が止まらず、気づくと股間が生温かく濡れた。あまりの恐怖に失禁してしまったのだ。
 彼は手に力が入らず、拳銃も取り落としてしまった。けれど、そんな場合じゃない。とにかくどこかに逃げなければならない。海斗は震える足を動かして、なんとかこの場を去ろうとする。

「おーい里奈、元気か?助けに来たぞ」

 だがその時。
 海斗の目の前に現れたのはひとりの男。
 その男の名は大崎修司。他の誰でもない、里奈の父親だった。
 大崎は娘にどう話しかけるか考えていなかったのか、今更悩み、ぶつぶつ独り言を言っている。「いや、元気かはおかしいか?大丈夫か、の方がいいか?」。

 里奈は、海斗の側でそんな大崎を見ていた。こんな状況でも実にマイペースな父を見て思わず笑みがこぼれた。
 彼女は呆れたというように肩をすくめると、海斗と、そして自分自身に向けて呟く。

「ほんとに……警察だったらよかったのに」



#13

 平然とした様子で2人のところまで歩いてくる大崎。
 まず大崎は、恐怖で動けない海斗を一瞥すると、何も言わず、渾身の力で彼の顔面を殴りつけた。
 下顎が砕け、何本もの歯をへし折られながら彼は弾丸のように吹き飛ばされていった。彼は最終的に腐った木箱に頭から突っ込むと、そのまま動かなくなった。

 大崎は里奈に向かって言う。
「すまなかったな」
 彼は今までの自分について謝った。
「なんて言えばいいか。俺は……とにかく弱かった。いろいろ重なって————」
 するとその時、大崎がそれを言い終える前に里奈は彼に抱き着いた。
 そして彼の胸の中で言う。「こっちこそ、助けてくれてありがとう」。
 大崎は里奈のその行動に驚くも、すぐに彼女を抱きしめ返した。「親が子供を助けるのは当たり前だ」。
 しばらく2人はその状態でいた。この時、大崎はなんだか不思議な感覚を覚えた。ここまで来るのに、とても回り道をしていた気がする。親子なんだから、こんなことになる前にもう少しうまくやれただろ。妻がいたら笑われていたに違いない。そんなことを想像しながら、大崎はからりと笑った。
「家に帰ろう」と彼は言う。

 ただ、そうして再会を喜ぶ2人の前に―――—―、
「よくもやってくれたな」
 そこに現れたのは黒い迷彩服を纏った20人の兵士だった。
 彼らは組織の中でも戦闘特化の精鋭メンバーだった。警察に見つかった時やその他の異常事態のために別部隊として待機していたようだ。彼らは全員静かな殺気とともに、大崎と里奈に銃を向けている。
 中央にいた金髪マッチョの男が隊長なのだろう。彼は大崎に向かって言う。
「この倉庫から生きて出られると思うな」
 金髪男は大崎に銃口を向けながらそう言った。

 大崎は、過去の経験もあり相手の動きを一目見ただけでかなり統率された部隊だということを理解した。全員射線が被らないように横一列に展開しており、その向こうにある倉庫の入り口を塞いでいる。このまま正面から突っ込もうものなら数秒でハチの巣にされるだろう。かといって後ろに引き下がってもじわじわと追い詰められるだけ。こちらには里奈もいることから、かなり苦しい状況だった。
「一応教えてやるが、俺たちを突破できたとしても無駄だ。倉庫の周りも仲間が見張っている。360度どこから出ても殺せるようにな」
 金髪男はそう話すが、それは大崎も分かっていた。彼はここまで侵入してくるのに多くの兵士をやり過ごし、無駄な戦闘を避けていた。ざっと見繕っても外の見張りも含め、兵士は総勢100人はいるだろう。こうなってしまうと大崎は完全に袋小路である。「チッ……」思わず彼は舌打ちをする。

 やはり彼らはプロの犯罪集団である。この状況を作り出したのは偶然ではない。大崎に勢いで侵入を許したが、それはあえて見過ごしたとも言える。そして彼を倉庫の深くまで導き、戻ってくるところで待ち伏せする。ここまで彼らの計画通りだった。
「最終的にお前を殺せばいいだけの話。数人犠牲は出たが、計画に影響はない」
 金髪男は極めて冷静な口調でそう言った。何人かの部下を殺されているというのに、まるで動じることがない。大崎も何も言えなかった。銃を向けられていることから下手に動くことも出来ず、ただ相手の様子を伺うようにじっとしている。
「お前ら、撃て」
 そしてついに、金髪男は兵士たちに向かってそう言った。
 彼らに情けや躊躇などは存在しない。相手を追い詰めたのならあとは殺すだけ。金髪男は容赦なく命令を下し、そして自身も標準を大崎に合わせてトリガーを引く。

 しかし、そうして彼らが発砲するほんの数秒前!
 ボシュ!
 ボシュ!
 ボシュ!
 突如、大崎のもとに飛んでくるスモークグレネード!
 辺りが一瞬にして白煙に包まれた!
「な、なんだ!?」
 瞬く間に煙は倉庫に充満し、大崎の姿がその向こうで影となる。
 金髪男は「しまった!」と思った。慌てて彼は命令する。
「いいから撃て!絶対に逃がすな!」
 その言葉を合図に、兵士たちの一斉射撃が始まる!
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 数秒の間にも何百発もの弾丸が大崎を襲った。大崎の隣には、商品であるはずの里奈がいるというのに、お構いなしに銃撃を行った。多少の被害は仕方なし。とにかく大崎を殺す。それが彼らの最優先事項だった。

 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!

 彼らは大崎とその周辺を面で制圧するように射撃した。どこに逃げようが確実に仕留めるための制圧射撃だ。大崎の影が弾丸に削られて揺らめいている。
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダッ!ダダダッ!ダッ………!
 そしてようやく、全ての銃声が止まった。
 一気に静まり返る倉庫。
「やった……のか…?」

 銃を構えたまま、恐る恐る敵の様子を伺う兵士たち。
 やがて、倉庫の中に寒暖差が生じ、倉庫内から外へ向かって突風が駆け抜けた。当然、大崎を包んでいた煙幕も一気に吹き飛ばされてゆく。


 そしてついに、その煙が晴れた時———。
 彼らの前に突如現れたのは、3人の男。


「だ、誰だお前ら!」
 1人は小太りで、サングラスをかけているスキンヘッドの男。その両脇には柄シャツの短髪男と、ドレッドヘアの黒人男性。2人とも長身で背中に銀の仏壇のようなものを背負っている。
 中央のスキンヘッドの男、ジークは腕を組み、仁王立ちしながらこう言った。
「UNLEASH DOGS インダハウス!!!!」

 大崎と里奈の姿が消えたと思ったら、代わりにヒッピーのような奴らが3人現れた。
 兵士たちは理解が追い付かず、考えるのが嫌になって来た。司令塔である金髪男がまさにそうで、彼は部下に向かってこう指示を出す。
「とにかくこいつらも殺せ!」
 兵士たちはリーダーの命令にハッとして、慌てて彼らに狙いを定める! 
 だが、彼らが撃つよりも早くジークは叫んだ。
「舐めんなよ!おいお前ら、準備しろ!」
 その言葉を合図に、ジークを守るようにして一歩前に進み出るリョウとジャマール。それぞれ背中に負ぶっていた仏壇のようなものをドスン、と前に降ろし、2つ並べて置く。
 それは腰くらいの高さの金属製の箱だった。2つ置くことで、ちょうど3人を弾丸から遮蔽するバリケードとなる。
「撃て!撃ちまくれ!」
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!
 しかし彼らの持ってきた金属箱はかなり頑丈なのか全ての弾丸を完璧に弾いている!
「ジークさん!」「やっちゃってください!」
 すると射撃の合間に立ち上がるジーク。彼が背中から取り出したのは一本の金属棒。ジークはバリケードの箱、その上部についている蓋を開けると、そこに金属棒を突き刺した!そう。このバリケードは単なるバリケードではなく、アイス用冷凍庫なのだ。
 ジークは金属棒でアイスを練り始めた。たちまち固いアイスが餅のように伸びていく。
「今のうちに撃て!撃てーッ!」
 兵士たちはジークに向かって銃弾の雨を浴びせる。しかし、ジークはそれらを金属棒で弾いたり、躱したりしながらアイスを練り続けた。

「なんなんだよ…こいつは何をしてるんだ……?」
 リーダー含め、兵士たちはジークの理解不能な行動に頭がおかしくなりそうだった。突如現れたと思ったら、自分たちの目の前でアイスを練っているのだ。 
 だが、これもまたジークたちの作戦の内だった。
 兵士たちは気づかなかった。
 いつの間にかリョウとジャマールが、自分たちの背後に回っていることに。
 ジークの動きに気を取られ過ぎてしまい、そこまで意識を割くことができなかった。
「ジークさん!」
 リョウとジャマールはそれぞれ兵士たちの右背後、左背後に立っていた。3人を線で結ぶと、彼らを囲むトライアングルができる配置だ。しかもいつの間に用意したのか、彼らはジークと同じ金属棒を持っていた。
「行くぞお前ら!」
 そう言うと、ついにジークは冷凍庫に力強く棒を突っ込むと、中のアイスを丸ごと一つの塊として取り出した。
 そして、そのままジークは巧みに棒を操って、アイスをカウボーイのロープのように振り回し始める!
 アイスは回るたびにどんどんと伸びていった。それは一瞬にしてヘリコプターの羽くらいの大きさにまで伸びて、ジークの棒を中心に回っている。
「ここだ!」
 そしてジークはそれを一人の兵士に向かって投げつけた。
 バキィ!
 アイスを顔面に叩きつけられ、その兵士は死亡する。彼はアイスだからと油断していたのだ。そのアイスは餅のような伸縮性に加え、当たると鋼鉄の強度があった。金属塊を顔で受けた人間が生きている道理はない。
「テメッ!なにしてんだ!」「ふざけんじゃねえぞ!」「ぶっ殺す!」
 仲間をいきなり殺され、3人の兵士が怒りに駆られてジークに向かって発砲する。ジークはアイスを投擲してそれらに対応した。「食らえ!」。
 しかし、相手も流石に戦闘慣れした兵士で、身体能力も高い。全員アイス攻撃を見切り、体を反らしてひらりと躱した。「へっ!トロイぜ!」「馬鹿がよ!」「当たるか!」。
 しかし、そうして彼らが笑みを浮かべたその時だった!
 バキィ!ボキィ!バキィ!
 その3人は全員、後頭部をアイスによって破壊されて死亡した。地面に伏せて動かない彼らの後ろには、リョウが棒にアイスを巻き込みながら笑っている。「アイスは自由自在に動くんだぜ」。
 ジークの狙いは兵士ではなくリョウだった。投擲したアイスはリョウの持つ金属棒によって角度を変え、背後から攻撃したのだ。
「ふざけんなクソがああああああああああ」
 ここで、1人の兵士はあまりの理不尽さに狂乱状態に陥った。彼はまず、近くにいたジャマールに向かって銃を連射する!
 しかし、ジャマールは忍者のように身を伏せると一瞬にして連射男との距離を縮めた。そして持っていた金属棒を彼の頭頂部に振り下ろす。ボギィ!という鈍い音と共に、男は動かなくなった。
「うあああああああああああ」
 それを皮切りに他の兵士たちも声をあげながらジャマールを撃つ。けれど、ジャマールはそれらを見事なフットワークで回避した。そしてちょうどその時、ジークからジャマールに向かってアイスが投擲された。彼はすぐに金属棒を振り上げアイスを受けると、砲弾のようなアイスは軌道を変え、錯乱状態の兵士の側頭部に叩きつけられる!
 次々と襲い掛かる敵。
 しかし、リョウとジャマールは彼らを直接金属棒で殴り倒しながらも、ベストタイミングで届く伸縮性硬化アイスを使って兵士を撲殺した。
 そして気づくと残りは隊長の金髪男、ただ一人だった。

「そ…そんな……バカな……」
 彼は急いで外で見張りをしている兵士に通信を入れる。
「外はもういい!倉庫に来い!全員集合だ!とにかくこいつらを殺せ!」
 彼は何度も全兵士に対して緊急招集をかけた。「何をしている!倉庫が最優先だと言っているだろ!」
 しかし、おかしなことに彼は何度も通信しているのに誰からも連絡が返ってこない。彼は実に嫌な予感がした。「なんで誰も出ない……?」。


「なんでって、ぶっ殺したからな」

 そして金髪男の後ろ、倉庫の入り口からツカツカと歩いてきたのは大崎だった。
 しかも彼だけじゃない。大崎の後ろには老若男女、様々なヒッピーたちが付いてきているではないか!ぱっと見ただけども200人以上はいるだろう。もちろん彼らはUNLEASH DOGSのメンバーだった。彼らの作戦は、ジークたちを派手に暴れさせて囮にし、その隙に周囲の兵士たちを倒して誘拐された女性を取り戻すというもの。
 大崎は言う。
「もう人質も取り戻させてもらった。部下もいない。あとはお前だけだぜ」
「うっ……!」

 金髪男は絶望した。これだけの人数、逃げ切ることも不可能だ。外にいる仲間は、本当に全員やられているのだろう。大崎やジークだけでも全力を出さなければならないのに、人数差でも負けていれば勝てる道理がない。
「なんで……こんなことに……」
 彼は泣きたい気持ちでいっぱいだった。
 そもそもどうしてこんな状況になったのか。
 自分たちは一体どこで間違えたのか。
 しかし、そんなことについて考える時間も彼には残されていなかった。
 なぜなら気付くと大崎が、目の前に立っているのだ。

「よう。よくも娘に手を出してくれたな」

 大崎は左右の腕を交互に軽く回し、パキパキと肩を鳴らす。
 それを見た金髪男は本能的に、生命の危機を感じた。大崎が肩慣らしをすればするほど空間に、緊張が張り詰めているような感じがするのだ。
「あー、もう……いいや…」
 そう言うと、ついに金髪男は目をつぶり、深呼吸をした。
 彼はもう、考えるのをやめた。
 全てがどうでもよくなった。
 いや、正しくは、そうやってどうでもよいと思わなければ、恐怖のあまり狂ってしまうと思ったのだ。

 大崎は、金髪男に向かってこう言う。
「お前を今から来世に送ってやる」
 そして大崎は金髪男の腰を両手でがっちりと掴むと、赤ん坊にする『たかいたかい』の要領でそのまま思いっきり天井に向かって投げ飛ばした。

 気づくと空を飛んでいる金髪男。
 地面と垂直に、天井めがけて彼は上昇する!
 スピードは加速度的に増加し、空気抵抗で彼の顔の皮はブルブルと震えた。「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!」。
 そして最終的に、彼は倉庫の天井に頭から突き刺さって死亡!
 そのあまりの威力に体は半分以上貫通しており、知らない人が見ると天井から足が生えているように見えるだろう。
 それを見た大崎は、
「体育館のボールじゃねえんだぞ」と、ぼそりと呟いた。



#14


 あの騒動から3か月後の、なんでもない平日の朝。

「行ってきます」
 里奈はそう言うとリビングから出て行った。大崎も「行ってらっしゃい」と言って彼女を送り出す。
 あれから、里奈との関係はとりあえず良好だ。学校生活についても、向こうから話してくれるようになった。
 大崎も仕事を始めたので昼間から公園で酒を飲むことはなくなる。今までのことがまるで嘘だったかのように、2人の関係はよくなった。
「…………」
 コーヒーを飲みながら、ふと大崎は思う。

 結局あのトルコアイスの都市伝説とは、なんだったのか。

 倒した者には願いを叶えるという話だが、あの無口なトルコアイス屋が具体的に何かをしてくれた覚えはない。魔法のような力で里奈と仲直りできるのかと思っていたが、そんなことはしなかった。彼が大崎に対してやってくれたことは、公園で大崎を殴り飛ばしたことくらいだ。アメ村の時から、大崎はアイス屋に殴られてばかりいる。「次会ったら1発殴り返してもいいよな……?」。

 しかし、とここで大崎は思う。
 ひとつだけ言えるのは、今回の騒動は、全てトルコアイス屋を中心に人間関係がつながったということだ。

 アイス屋は言っていた。
 トルコアイスは人と人を繋ぐ魔力がある。

 つまり、伸びるアイスは絆を意味しているのだ。

 人間なんだから、どんな繋がりも溶けることもあればちぎれることもある。
 けれど、そんな時はまた伸ばしてつなげればいい。
 そして人間関係もそうあるべきだ。不思議な伸びる絆で繋がれば、どんなことも怖くはない。

 大崎は感謝する。
 ありがとうトルコアイス。
 みんなもトルコアイスを食べよう。




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