見出し画像

大切なものを失った。「本当の自分」で生きていなかったから。その①

私はなぜ、いつまでたっても先に進めないのだろう。

自分に嘘をついていたことで周囲を不幸にしてしまったという罪悪感と、自分なりの「嘘をつかない生き方」とは何なのかがどうしても分からない焦り。
それが掴めなければ、私は一生このままだという気がする。

尊敬できる主人、かわいい二人の子供たち、新築の一戸建て、優しい人達で出来ている人間関係。
数年前、それらを私は自分から手放した。

子供の頃から抱えていた生きづらさゆえ、そんな「恵まれた生活」への感謝や喜びを感じることがどうしてもできなかった。
楽しい、嬉しいと感じるポイントが周りの人達と違う。
誰かと一緒にいることを心から喜べない。
「寂しい」という感情が決定的に欠落している。
ひとりでいる時間が何よりも幸せだと思ってしまう。
でも、家族としての幸せな生活の形を守るためには、それらの本音に何とか蓋をして「普通の妻・母」「みんなと同じ」風を装うしかなかった。

どんどん、自分の中に嘘が重なっていく。
周囲から向けられる好意や愛情に笑顔で感謝しながら、罪悪感に口をふさがれているような毎日だった。

主人は私に「何が辛いんだ」と尋ねた。
主人は仕事が忙しく、平日は子供たちと顔を合わせることはほとんどないような状態だったので、家事育児は今で言う「ワンオペ」だった。
けれど、家事にうるさいこともなく、休日に家族で出かけるときはお風呂掃除をしてくれたりした。
そんな生活の中で、とにかくひとりになりたかった。
主人は、休日には子供たちを連れて出かけ、私がひとりになれる時間を作ろうとしてくれた。
働きに出て気分転換になるならそれもいい、とも言ってくれた。
でも、丸1日自由にさせてもらっても、一泊旅行に行かせてもらっても、私は満足できなかった。
働きに出るとか遊びに行くとかの方法で満たされる「ひとり」ではなかった。
それを、どうやってもうまく説明できなかった。

主人は、家族で過ごす時間を大切にしたい人だった。
だから、自分だけで子供たちと出かけることをとても寂しく感じていたようだった。
でも、それを思いやる余裕が、当時の私にはなかった。

主人との溝が日に日に深くなり、二人とも子供の前で笑うことが難しくなっていた。
私は、家の中の暗い雰囲気が子供達の心に影響を及ぼすようになることだけは避けたかった。
主人には、子供たちを手放すという選択肢はなかった。
そして私にも、子供達を一人で育てていける自信はなかった。
決してお互いを嫌いになったわけではなく、それでも一緒にいることができない。
とても、とても、辛い話し合いの末、離婚という答えを選んだ。

私は、子供たちに悟られないように自分の荷物を少しずつ運び出し、「しばらくおばあちゃんの家にいるね。」と言い残して家を出た。
当時子供たちの面倒を見にきてくれていた主人の母と一緒に、こちらに背中を向けてテレビを観ていた子供達の姿は今も覚えている。

ひとりになったことで、周囲の人に嘘をついているという罪悪感からはだいぶ解放された。
ほどなく実家を出て部屋を借り、10年近くものブランクを経て仕事を探し、安心して働ける職場に出会うまで1年以上かかった。
その間に、子供たちとは会うことを許してもらえなくなった。

主人は二度の再婚をした。
二度目の妻は、いわゆるサイコパスだった。
その女性とやっとの思いで別れた主人は、私との復縁を考えていた。
私もそうしたかった。
でも、自信がなかった。
戻るためには相当の覚悟が必要だと思っていたし、主人からもそれを求められていた。
家族のため、今度はあえて「自分に嘘をつく」生き方を選ばなければならない。当時はその答えしか持っていなかった。

主人の方から「戻ってきてほしい」と言ってくれたら、どんなに楽だろうか。そんなことも思った。
けれど、そんな甘い考えは、賢い主人には通用しなかった。
「戻りたい気持ちはあるけど、うまくやっていける自信がない」
そう繰り返す私に、主人は静かに言った。

「自信があるからやるんじゃない。やりたいかどうかだよ。」

主人は当時、会社の管理職になっていた。
忙しい仕事のかたわら、帰宅時にはスーパーで買い物をして子供達の食事を作り、朝は掃除機をかけてから出勤する。
休日は子供たちのクラブ活動の付き添いなどで埋まっていたらしい。
疲れ果てているのに眠れない状態が続き、抑うつ状態になっていたようだった。
結果的に主人は、サイコパスの女性と復縁した。
そしてそれから1年後、主人はエスカレートする妻の異常行動を止めるため、自ら命を絶った。

二人の子供たちは、主人の両親に引き取られた。
子供たちが希望したことだったそうだ。
義両親もそれを受け入れてくれた。

高齢の義両親が高校生・中学生の面倒を見ることがどんなに大変なことだったか、想像に難くない。
いつも前向きで決して弱音を吐かない義母が下の子の反抗期への対応ですっかり参ってしまい、1度だけ私にSOSを出してきたことがあった。
私は急いで飛行機のチケットを取り、10年以上ぶりの義実家に帰った。

私が家を出た当時8歳と5歳だった子供たちは、18歳と15歳になっていた。
「この子たちは、小さかったあの子たちなんだ」
会えた嬉しさと照れにも似た気持ちで、凝視したいのにできなかった。
二人とも、私を避けるでもなく、きちんと挨拶をしてくれた。
私に対して抱いているであろう様々な思いを隠した、見事な大人の対応だった。

この時の訪問の目的は、下の子を一時的に引き取るという相談のためだった。
それは、心身共に限界を迎えていた義母からの願いだった。
私と下の子は、二人だけで向かい合った。

この時のやりとりのベースにあったのも、かつて主人と交わしたものと同じ「自信のなさ」だった。
私との暮らしを下の子が望んでくれたら喜んで迎え入れたい。
でも、うまくやっていける自信は、なかった。
ひとりで暮らすことによって自由に息ができる心地良さを知ってしまった私は、例え自分の子供であっても、一緒に暮らしながらその呼吸を保てる自信がなかった。
そして、それを正直に言うべきだと思った。

今まで周囲に嘘をついて生きてきたせいで大切な人を失い、辛い思いをさせることになったのだ。
もう、嘘をついてはならない。

私の話を一通り聞いた後、下の子は言った。
「あなたが家を出て行かなければ、お父さんは死なずに済んだのに。」
「あなたのことはお母さんだとは思っていない。」
そう言って、涙を拭った。

私は、傷つかなかった。
私も、そう思っていたから。


今、子供たちはそれぞれ大学生と高校生になって寮に入り、一人暮らしをしている。
年老いた義両親に代わって隣の県に住む義兄夫婦が子供たちのサポートをしてくれており、煩わしく感じさせない程度に子供たちの様子を聞かせてもらっている。
主人は生前、私と子供たちを絶対に会わせようとしなかった。
出て行った私をあてにせず、自分の力で子供たちを育てる。
その考えを貫いたのだ。
そして、義両親も義兄も、亡き主人の思いを大切に引き継ごうとしている。
「あいつら(子供たち)にも意地があるからね」
義兄はそう言っていた。
出て行った私には頼らずに頑張りたいという子供たちの意志をも尊重してくれている。
私を感情的に非難したり遠ざけたりするわけでもなく、淡々と、且つ大きな愛情を持って子供たちを支えてくれている。

金銭的なことも含め全てをお任せすることができているこの状況を、私は「奇跡」だと思っている。
同時に、自分がどんなに罪悪感や償いの気持ちを持っていようが実際には何もしていないという現実の重さに耐えられなくなるときもしばしばある。
「楽しいことをする」とか「自分を好きになる」とか、前向きに生きていくための言葉がチャラチャラした中身のないものに聞こえてうんざりしてしまうこともある。

子供たちのために何もしていないという事実。
自分が嘘をついて生きてきたがゆえに大切な人を不幸にしてしまったという事実。
そこから、私はどうやって一歩を踏み出せばいいのか。
「嘘をつかない生き方」とはどんなものなのか。
「自分の本当」とはどこにあるのか。
それらを見つけなければ、私はこれからも同じことを繰り返す。
大切な人を傷つける。そんな自分をますます嫌いになる。
日々の自分を「観察」していたはずが、いつしか「監視」に変わっていた。

あの感情も、この思いも、「自分の本当」ではない気がする。
相変わらず私は嘘をつき続けているのか。
どうしたら「自分の本当」で生きられるようになるのか。

ずっとずっと解決できなかったこの問いの答えが、見つかった気がする。
続く。


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?