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短編小説「最後の息子」前編

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 昨夜、桜井青志(あおし)は初めて母・美津子に敬語で話しかけた。
 そろそろ彼女を連れて来たいです、と。盛夏なのに、ヒンヤリとした冷たい風が吹いていた。
 父の没後10年という節目までは、青志は母に寄り添うと決めていた。今年40歳にもなる彼にとっては、最大限の気遣いだった。それは、最愛であった亡き父・隆志(たかし)との男同士の約束だと信じて疑わなかった。
 「しばらくは、かあちゃんを頼むぞ」と遺言の操(みさお)を守った青志は、これで心おきなく新しい道に進める。彼は、結婚して母の元から離れようと思っているのだ。ただ、昨夜は母の気持ちを慮るとあまりよく眠れなかった。自分なりに10年の歳月をかけて【本当の意味で一人で人生を歩んでいける】ように仕込んできたつもりだ。突き放す冷徹さと、ここまでやったのだという達成感が激しく葛藤していた。
 青志はファザコンだった。年の離れた一人息子にしては非常に珍しい。むしろ、母のほうが子離れ出来ていない。
 「とりあえず、明日連れてくるよ」
 「本当に連れて来るの?」
 「うん。この人ならば、と決めたわけだからね」
 「本当に決めたの?」
 「うん。迷いは無いよ。心が綺麗な人なんだ」
 美津子は(どうせ自分よりも若くて、綺麗なのだろう)と嫉妬をせずにはいられなかった。とは言え、青志の為に我慢をして、明日は身内になるかもしれない彼女を迎えようと心を入れ替えた。
 まだ結婚するわけでは無いのだ。人生は何が起こるか分からない、と心の片隅では精一杯息子の不幸を願った。そう思うと、美津子はニヤリと悪戯っぽく一つ嗤った。

 美津子は朝からソワソワして落ち着かなかった。台所で朝食を用意する手が小刻みに震えていた。さあ今日はこの手で小娘をどう調理してやろうかと心が弾んでいた。
 冷凍ベーコンを油を敷いたフライパンで焼く。ヒヒと笑いながら、カリカリになるまで時間をかけた。生卵を取り出そうと冷蔵庫を開けた瞬間に高志が階段から降りてきた。テーブルに座った青志は疑いの余地を一切感じさせないほど、幸福感に満ち溢れた表情を浮かべていた。とは言え、まるで台所から聞こえる怪しい小声に引き寄せられた。美津子は青志に声を掛けた。
 「そんなに紹介するのが楽しみなの?」
 「うん。楽しみで楽しみで」
 「母さんにカノジョ紹介するの初めてだから僕は嬉しいよ」
 青志は満面の笑みを母に覗かせた。母は、その表情を一瞥すること無く「あ、そう」と無機質にも似た一言だけをつぶやくように返答した。
 美津子は青志に背を向けたまま、決してその表情を見せようとはしなかった。心の中で隠している感情のように気持ちは見せられずにいた。心の中では本当は泣いているかもしれなかったのだ。
 ようやく母の感情は落ち着いたのか、朝食が出来上がったのか、青志のほうを見た。
 青志はその産まれたばかりのような無知で純粋で穢れの無い表情をしていた。母の淋しさの溝には、これまで注いできた一人息子への溢れんばかりの愛着がへばりついていた。この朝食が済んでしまうと、私以外の女性(おんな)を必然的に認めなくてはならない。孤独感と共に、得(え)も言えない感情が湧き上がってきた。
 青志と食べる二人での最後の朝食。この温かく優しい光景は最後なのだ。普段の何げない光景だったが、様々な思い出が美津子の脳裏からフラッシュバックされた。
 「ー母さん美味しいよ」「ー俺、母さんの料理世界一だと思う」「ー父さんいなくなったけど、母さんの料理があるから淋しくないよ」
 息子は今、目の前で黙食しているのに、過去に言われたセリフ群を反芻していた。もう二度と会えなくなるわけでは無いのに、まるで青志の身体から言葉が奪われるかのような錯覚に囚われた。
 「ねえ。青志」母は急に怖くなり昔話しでも始めるように言葉を発した。なに、といつものタイミング、トーンで言葉は返ってきた。
 「山本聖菜(せいな)さん、苦手な食べ物ってあるの?」
 今さらではあるが、今日これから、昼の話を思い出したように尋ねた。青志を思うが故に心底では唯一無二の倅(せがれ)幸せを願っているのだ。亡き夫からの遺言であった「青志の素敵な人を見つけてやってくれよな」と言う一言を突然思い出していた。
 「聖菜は酸味のあるものはあまり食べない」
 美津子はそれを聴くなりまた見知らぬ義理の娘候補を呪った。自家製の漬け物を並べようと密かに考えていた。
 生意気な小娘と思いつつも、根掘り葉掘り情報を詮索していた。亡き夫の遺言が、美津子をお節介な姑候補に導いていた。
 時計の針がちょうど10を指していた。美津子は青志を母胎に宿していた時の高揚感と緊張感を思い出していた。頭の中にイメージした聖菜が頭の中で巣を作って、気持ちよく遊泳しているような不思議な感覚を抱き始めていた。
 「優しい人なんだ」美津子は、そうかそっか、と妙に得心し頬を緩めた。
 「じゃあ、そろそろ駅まで迎えに行ってくる」青志は急に嬉々とした表情を見せた。
 「車、気をつけてね」
 徒歩で行くであろう彼を美津子は玄関先まで送る。美津子には見せない玄関先での表情に、やはり一抹の淋しさを感じずにはいられなかった。フト、一人娘が旅立つ時の父親のような心境を思い浮かべていた。苦しいけど、避けては通れないのだと言い聞かせて毅然と振る舞った。
 本当は「一人、お母さんを置いていかないで」と泣き叫びたかった。

【前編終了。後編に続く】


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