とあるゲーム ONI零と現実のいじめ


こんにちは。ぜんちゃんと申します。今回は僕がしたゲームのONI零というゲームをお話しします。古いゲームで、初代PS時代にONI零というゲームが売られました。このゲームも興味ないでやらないのは惜しいゲームだと思ってます。おそらくこのゲームをやった方で感受性高い人は考えたくなるのではないかなと思いました。
 この話は、日本に妖怪が実在したという設定で展開し、妖怪の中でも人と共存を図ろうとする一族が存在する。妖怪の中ではそのものたちのことを隠忍(おに)の一族と呼び、裏切り者として生命を狙っていたりすると噂されている。時を同じくして妖怪を退治をする試みが組織を作り上げ名を五行軍と名付けられ、大規模な妖怪との戦いが繰り広げられた。妖怪の悪行は次第に鎮静下し山から降りて悪戯する程度に治められた。そこから隠忍の一族がひっそりと山中に里を作り、暮らしてるとこから物語は始まる。主人公は隠忍と人間の間で生まれ、鬼であり、変化の時の鬼を緋焔童子、後の時空童子と恐れられる人間と隠忍のハーフである。子供の時のいたずらから里を潰してしまうことになる。生き延びて父親と同じ退魔師となるのだが任務中にピンチのところを父が現れ妖怪から息子を庇うことで瀕死の主人公を救い出すのだが代わりに息子の前で妖怪に食われてしまう。床の血みどろを見ていた主人公はついに人生初の鬼へ覚醒。見事父の仇の妖怪を家族もろとも八つ裂きにすることに成功する。そのあとの物語は順を追って流れていきます。今回はこのゲームとの論点の現実のいじめであるが、上記の感じでわかるとは思うが妖怪という存在はこの大昔の人達からしたらとても怖い存在。特に妖怪は退魔師のような人間喰らうととても美味しく感じ、パワーアップもするという。他のもタイプは別れ、死した人が妖怪や悪霊になってしまい、未練のあまり襲ったり、道連れにということ日常的に起こる。話の途中で現実有名な大陰陽師『安倍晴明』が現れ主人公の正体を見破ってしまう。そうそのせいで、主人公たちに対する風当たりはもちろんよくないし、逆に変な偶然で力を持ってしまった人、子供なんかは差別の対象にもなっていたりする。それはゲームの中とか、漫画だのアニメだのいうが差別の仕方とかタイプは現実そのまま。むしろこの中から見習えばと思うぐらい。悪にも理由がある。悪霊や妖怪になる存在にもタイプは様々だ。共存という概念はあるべきなのか?ないべきなのか?それがこのゲームのキモにもなり得る気がする。このゲーム当時に途中で解散してしまい、中途半端で終わってしまったが続いて欲しかった一作である。妖怪としてからの観点とプレイヤーという現実は人間で人間と妖怪の両方の立場から互いを見ていくという面白さは当時の作品ならではである。ゲームは少し重めをストーリーを感じていくことで勉強以上に人として大切な何かを教えてくれる・・・そんな気がしています。命と尊厳は秩序や立場に縛られてはならない。まるでそう言われているようだ。

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