人の思考はかく語りき

可能性を感じる形式上の労りは必ずしもめずらしいとは言えないが癒える事もないのはそれはつまりの可逆性である。
それゆえに叶えるべき壁画はとうの昔に駆逐されたが、流れるべき演歌は悟られるモノでもある。
かなりの頻度で昨今は疲弊が叶えられているのが、御簾を金切り挙げているにしろ信ずるに足りないと疑うのである。
が、それこそ元の目論見を表現する軽面識な芸術を看破するに相応しい様相でもある訳だ。
兼ねての希望はしかし希死念慮によってのみ破棄される。
やはり、自害は尤もらしい革命行為と言うのは考えるのにも及ばないが、メイドインジャパンではない。
ハンドジェルによる救世の言の葉は散りばめられているこの時代に錯誤的なジェンダーの道を外し続けるのもそれはまた足りない気もする。
Qアノンなどと言う世迷言を世迷言として受け止めきれないのはやはり情報が足りないからである。
現実的な処方箋を数えるならば、敢えての信心は虚仮むしている筈なのだ。
トゥーマッチ・インフォメーションの説が唱えられるのは情報が満ち溢れている為か偽善的な思考による自己中心的なある種の偽情報を収集し、流石の終止を打てない為か。
話し込む必要もなく、皆の者は太陽が無いとの見識だ。
月は青白いものだろうか。
冷え切っているものだろうか。
しかし、どちらにせよそれは叶わない夢でもある。
儲ける事が嫌いな人は居るが、
その人達は儲けている。
ある諺を思い出す訳だ。
世界観を共有するに狙い通り進むのは悲しい事に嫌悪感を抱かせ追求させ、扇動するものだ。
扇動といっても世界中が当然それを信仰するには至らないが、それによる考え方の相違点を人は共有出来ない人を攻撃する為の餌とする。
必ずしも否定は絶対の賛成に成り得ると言っては混乱を呼び寄せかねないが、気付かない愚民達は我々だ。
それは服用出来るものではない。
四季のある内に願い事を授けられるのは以ての外ではないだろうか、意図的なグレーの幅が広がった所で世界のカクテルは飲まれ続ける、つまり被害は止まらないと言えば陳腐な平行線だが壊れたラジオはそれを唱え続ける筈だ。もしくは賞賛してしまうのか。既に広がった希望論を理想にする人は居ないだろうが、正四面体の性はリスペクトされる。
気付けるのは、自らの足元に小さな蟻が居ないか、それはもちろん自分よりも大きい可能性であるが少なくとも今見逃していい訳ではない。
無知蒙昧の凡人が聖なる夢に触れたなら、どんな裁きが下るやら。の一言で私の無差別な思考を止める事にする。

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