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父の死 17回忌を越えて その2

前回からの続き。

父は余命3ヶ月程度と言われ、そのまま大学病院に入院していた。
しかしある日、主治医から連絡があり、大事な話があると言われた。
その日の夜、仕事を終えて病院に駆けつけると、すっかり呼吸が苦しくなった父は、不織布マスクを着けていた。
聞けば父は結核を併発したというのだ。
「結核?昭和初期を描いたドラマや映画に出てくるアレ・・・?」というくらいピンと来なかった。当の父も事の重大さに気づいていない様子だったが、主治医はかなり迷惑そうな顔をしていた。
結核菌が体の中に潜在していて、がんで抵抗力が落ち切ったので、結核が発症されたのではないかということだった。

いずれにしろ父は普通の大学病院には居られなくなり、国立国際医療センターに転院した。コロナ禍で毎日のようにニュースに出てきた、あの国立国際医療センターだ。
当時の国立国際医療センターは、都内で結核と診断された人を受け入れる最大規模の病院だった。コロナ対応の基幹病院になるのも当然だ。

転院が決まり民間の救急車で、移動した父は久しぶりの外の景色を見て、とても楽しそうにしていた。
そういえば、大学病院に入院するとき、6人の相部屋で窓側のベッドが空いていたのに、「外の景色や外で人が楽しそうにしているのをみるのが嫌だ」と言って、わざわざ両脇に入院患者がいるスペースを選んでいた。お見舞いに行って、外に連れ出そうとしても、タバコを吸いたくなるとかなんとか言って、嫌だ外に出たがらなかった。変わった入院患者だ。
だから救急車の窓越しに、外の景色を見るのは本当に久しぶりだった。それが最期の外出になった。

転院先にも見舞いに行った。当時、結核病棟に入るのために、見舞い客は30円のマスクを自動販売機で買って、それを着けてから入室していた。
出入りする度に、着けていたマスクを捨て、新しいマスクを買っていた。
コロナ禍を経た今は一体どうなっているのだろうか。

いまどき結核患者なんているのか?と思ったが、予想に反して、結核病棟は割と元気そうな若者でにぎわっていた。ドラマや映画の影響と目の前の父親の弱り具合から、結核を患った人は皆、弱弱しく病床に伏せているものだと思い込んでいたので、初めて結核病棟に入ったときは衝撃を受けた。みんなすごく元気そうじゃん。と。
病棟の広場のようなスペースで楽しそうに談笑していたし、漫画を読んでいた。そして、その病棟で楽しそうにしている若者の多くが、外国人だった。
話している言語や見た目から察すると、中国系、東南アジア系の外国人が多かった。病院関係者や看護師の姉から聞いたが、彼らの多くは、一人暮らし用などの狭い部屋で、10人弱で暮らし、もともと潜在していた結核菌が発症したり、日本の中で結核菌が入り込み、集団で生活している家の中で蔓延させてしまうそうだ。そして、集団で入院し、一人一つずつ与えられたベッドで快適に入院生活を送っている。現代では結核の症状といっても、微熱や咳が中心で、重篤な状態になることは、ほとんどないらしい。菌が減少し人にうつらないレベルになるまで、療養するそうだ。だから病棟はすこぶる明るい雰囲気だった。
父以外の誰にも死が迫っていなかった。父だけが余命宣告をされ、苦しそうに呼吸をしていた。他の患者とのギャップが激しかったからか、ここでは個室に入院していた。
ただ父も、体はしんどそうだったがあまり悲しんでいる様子はなかった。「ついに結核になった!」と自分の身に起きた出来事の貴重さを楽しんでさえいたように思う。

実はここから先は、父が亡くなる日まであまり記憶が無い。
入院先が遠くなったので、今までのペースで見舞いに行けなくなったのと、結核という病気を少なからず恐れていたのと、父の看病に疲れてきていたのだ。
父は姉には感謝を伝えるが、私にはそうではなかった。そのことに、怒りを覚えたし、見放してやろうという底意地の悪さもあった。
何故なのか。。。
父と姉妹3人との関係性の違いにあると思う。
父は姉に対して明確に引け目を感じていた。長女をかわいがることをしなかったし、姉も父親を軽蔑していた。次女の私の方が父とウマが合ったのだ。「あんたはお父さんと仲良くていいね」小さい頃、姉からよく言われたし、母からも「あんたは父親にすり寄って」などと言われていた。
酷い言われようだが、今となってはどうでも良い。
妹はまだ幼かったので、父と暮らしていた時の記憶が少ない。
父にやたら気を遣い過ごしていたわけだが、それは私なりに、暴力的な父親が怖くてご機嫌伺いをしていただけだし、そんな家庭環境で、子どもながらに、家族の調和を願い、自分を強く保つための生存戦略だったのだ。そういう関係性もあり、父はがんになり、姉への償いの気持ちもあったのだろうから、姉には丁寧に接していた。一方、私はよく八つ当たりされた。
がん患者の八つ当たりなんて、口が悪くなるだけだと我慢していたけれど、子どもの頃の心労を思い出し、やっぱり腹の立つ思いもあった。

9月の晴れた土曜、姉と一緒に病院にお見舞いに行くつもりで、地元の駅ビルを歩いていると、病院から電話が来た。
「容体がよくない」と。

次回に続く。


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