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父の死 17回忌を越えて その1

平成18年9月に父が亡くなった。
私が死というものを意識したのは、間違いなく父の病と闘病と死を経た頃からだ。
最も身近な最も影響を受けた人の死はやはり、人生において大きな意味を持つと思う。


父はお坊ちゃんだった。国家公務員の祖父、地方の名家の娘だった祖母の間に、高齢になってから生まれた5人兄弟の末っ子だったので、本当に甘やかされてきたらしい。何浪かして大学に入り、今でいう非正規雇用で保険会社で働き、気ままに外交員をして、母と知り合い、当時、専業主婦が主流だった時代に、結婚してすぐに父が仕事を辞めてきた。それ以来、今でいうフリーランスとして、昼頃起きて適当に過ごし、ほとんど仕事をせずに、家にお金を入れず、母のヒモのような生活を10年以上続け、酒を飲んでは母に暴力を振るい、自分の親にはいい顔をして、近所や身内に母の悪評を垂れ流し、いつも少し酒に酔って生きていた。酷い父親だった。
母は週に6日働き、自分の事には構わず、いつもお金と時間に追われ、3人の子どもを生かすべく、生活を成り立たせていた。酔った父に殴られても、家を出ていく決心をして新しい家を探していたのに、離婚するまでにかなりの時間がかかった。私が小学校3年生の頃に両親は別居をしたが、最終的に離婚をした頃には、中学に入学するまでに成長していた。
両親が別居したあとも、父は私たちの家の近所に住み、母が居ない隙を狙って、家に来て洗濯機を勝手に使い、テレビを見て、ひとしきり好きに過ごした後で、洗った洗濯物を持って、自分の家に帰って行った。
母は怒っていたし、私たち娘も、父が洗濯をしに家に来るのが嫌だった。
本当に図々しい父親だ。

そんな父に娘たちもそれなりにタカっていた。たまに食事に行っては、お小遣いをもらい、子どもだましみたいなおもちゃを買ってもらっていた。

そして私たち娘が社会人になったり、アルバイトをして経済力をつけた時点で、父とあまり会わなくなった。父にお小遣いをもらうまでもなく、自立し始めた頃、父はガンになった。
まず、妹が気づいた。
もともと細かった父が更に病的に痩せていて、ご飯が食べられなくなったというのだ。
私、母、姉、妹と話し合い、父と食事の機会を設けることになった。
3姉妹そろってで父と対面したのは、10年振りくらいだったと思う。
想像以上に骨と皮だけになっていた父に会ったとき、言葉が出てこなかった。一目で尋常ならざる事態なのだと分かった。
そのとき食べた豆腐が消化できずに、次の日に吐いてしまったと聞き、見た目以上に、父の身体は深刻な事態に陥っているのだと悟った。

病院に行くことを進めたが、案の定、父は保険証を持っていなかった。その後、母が父が滞納していた保険料を払い、保険証を交付してもらった。その保険証を持って、父と近くの病院に行ったが、素人目にも病的な父は、すぐに大学病院に行くことになった。
病院の待合室で、私たちが父に保険証を手渡したとき、父は「これが欲しかったんだ・・・」と力なく言っていた。今でも鮮明に覚えている。まともに働いて、まともに社会保険料や年金を納めてこなかったのが悪いが、あんなにも保険証を見て、嬉しそうな悲しそうな顔をした人を後にも先にも見たことが無い。
しかし、もっと早くに助けてあげれば良かったとあまり思わなかったのも苦い記憶だ。

当時、姉は看護師として働き始めたばかりだった。父と姉は最も折り合いが悪く、今でも姉は、父を一番許していない人のひとりだ。だが、姉も親身になり、父のために何ができるのか、みんなで考え奔走した。

家の近くの大学病院に入院した父は、ガンの治療は手の施しようが無かった。しかし生ける治験として、なんだかんだ、あらゆる治療を受けていた。ほとんど残っていなかった歯の治療がされていることを知ったとき、食道がんで食事が取れないのに、歯の治療するのは、かなりきつい冗談だと思った。大学病院ギャグかと。父も数年ぶりに歯を手に入れて嬉しそうだった。

社会人になって間もなかった私は、結構忙しかったが、ほぼ毎日、お見舞いに行った。全然感謝されなかったことは、よく覚えている。
本当に父らしいが、「仕事面白いのか?つまらないなら辞めちまえ」と何度か言われ、「私、保険証欲しいし」と言い返した。

父には、きちんと病状も余命宣告もしたのに、近いうちに退院できると思っていたし、数年先の地デジに移行するまで生きると、勝手に信じていた。
でも目の前にいる父は、今にも死にそうなほど、ガリガリに痩せ、日増しに生命力を失わせていた。
まだ生きると豪語する父。目の前で死相を浮かべている父。そのギャップに、仕事帰りの私は、更にひどく疲労した。

それから父が死ぬまで半年もなかった。
次回に続く。

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