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奈良朝 妻ファーストの夫婦喧嘩考 前編

杉浦太陽さんが「妻ファースト」で仕事も家庭も上手くいくと書いていました。

ファーストと聞くと昭和の時代の「誰の金で暮らしていけると思っている」と言われた時代は今は昔。今は令和の時代である。

僕も部屋のインテリアや改装は妻の好きなようにしてもらってます。

「妻ファースト」は昔にもありました。

時は奈良時代。聖武天皇と光明皇后の時代です。一大イベントといえば、大仏建立です。

この夫婦、異論はありますが、国の一大事業とはいえ、黄金に塗られた大仏を作ったお金持ち夫婦と思っています。

大きさは高さ15メートル、重さ250トン、金の使用量は約60キログラムと大きさや当時の金の価値に換算するといくらかかったのだろうか?

繁栄の中で建立されたと思われがちであるが、当時はかなり世情不安があったとのことです。
長屋親王の変や藤原氏と橘氏と権力争いがあり、さらに流行り病の疫病が全国に広まっていった。

この当時流行ったのは天然痘らしく、光明皇后の兄弟である、藤原宇合、麻呂、武智麻呂、房前が次々に死んだとからである。

聖武天皇は身体が弱いと伝えられていて、それはいても立ってもいられなかったでしょう。

そのうち何かの祟りだと言う話になり、聖武天皇も少し精神が病んでいたかもしれません。

そこで聖武天皇はある事が祟りの原因と考えるようになりました。

それは光明皇后との結婚です。当時、皇后は皇族の女性がなっており、光明皇后はなんと初めての皇族以外の臣下の娘が皇后になったのです。

この立皇后には藤原氏がかなり無理をしました。というのは聖武天皇と別のお妃の間に男の子が生まれており、この子を皇太子にすると藤原氏の権力が落ちると考えました。

そこで藤原氏が光明を皇后にしようとして、それに反対したのが長屋親王です。確かに皇后が天皇になる例もあり、臣下の娘こどきが皇后になるなど持ってのほかと言ったのかも知れません。

そこで藤原氏は長屋親王を嵌めます。呪術を持って国を傾けようとしたとのことで屋敷に軍を送り自殺に追い込み、家族も後を追って死にました。

長屋親王の死から疫病が流行り、藤原四兄弟が亡くなり、更に藤原広嗣の乱まで起こり、これは平城京が悪いと思い、難波、恭仁、紫香楽と次から次へと都を変えました。

奈良は藤原氏が抑えていたので他の都は別の豪族や勢力圏だったと思います。

そこで光明皇后は一言、言います。

平城京へ戻りましょう!

さてどうなることか。
これから静かな夫婦喧嘩が始まります。

続く




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