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村上春樹「海辺のカフカ」感想

今さら感想シリーズ。
世間的にも今さらだし、個人的にも今さらである。
初めて読んだのは10年以上前、大学生の時だ。
それから何度も繰り返し読んだ。
オーディブルでも繰り返し聴いている。
読むと励まされる。

☆ジョニー・ウォーカーの所業
 悪の権化みたいな雰囲気で出てくる。
 猫の首を切り、自宅の冷凍庫に陳列している。
 猫を薬でしびれさせ、生きたまま腹を裂いて心臓を食べる。
 なんて残酷で非道!
 と僕たちは思う。
 しかしちょっと考えればものごとは違って見えてくる。
 善良な人々の冷蔵庫には、牛や豚、鳥の死体の切れ端が入っている。
 エビやシラスのおどり食いをする。
 ジョニーウォーカーは猫の心臓を食べるとき、「うなぎの肝のようだ」と描写するが、ナカタさんやミミはうなぎが好物なのだ。
 一体ジョニーウォーカーと何が違うのか。
 いじめている動物の種類が違うだけだ。
 世界には、実際に猫を食用にする文化を持つ国もある。
 その人たちはみんな悪の権化なのか。
 違うだろう。
 物語が持つ力を感じる。
 特定の演出をし、特定のものごとにフォーカスすれば、ある種の人々を悪の権化に仕立てることができる。そして人々に想像力を捨てさせ、「やつ(ら)を殺せ!」と駆り立てることができる。
 かつてヒトラーがユダヤ人にしたように。

 もちろん、こうしたメタ的な視点ではなく、物語内の記号的意味に寄り添ってジョニーウォーカーの行為を解釈することもできる。
 「海辺のカフカ」では猫は聖性を帯びた存在として扱われているように感じる。
 妖精だ。
 はかなくピュアな存在で、穢れのない魂を持つものだけが、その声を聴くことができる。
 ナカタさん。
 村上春樹は他作品でも、猫をこういう役回りで登場させていることが多いように思う。
 それに対して、どこかのスピーチでは「効率という黒い犬」という言葉を使っていたりして、犬を猫との対比的な存在として意識している節がある。
 猫=自由、孤独、権威への不服従、弱さ
 犬=不自由、群れる、権威への従属、強さ
みたいな感じの対立軸があるように思う。
 ジョニーウォーカーシーンでも、彼の飼っている犬はその凶暴さやジョニーへの従順さが強調され、猫殺しのシーンで印象的な役割を果たしている。

 こうした聖性を帯び、はかないが尊い価値を体現する猫を殺すことは、物語的には疑いなく「悪」の意味を持つ。
 物語内の意味に従う限り、ジョニーウォーカーはやはり悪逆非道の存在である。
 しかし先述のとおり、視点をメタに移せば全く違う意味が見えてくる。物語の内外でジョニーウォーカーの行為に異なる意味を持たせることで、正義や悪について考えさせてくれる非常に巧みな仕掛けだ。

 村上サーン!!!

 自分でもわかっているのだが、ジョニーウォーカーの猫殺しシーンだけで1,000字を超えたため、いったん公開する。
 この作品は「海辺のカフカ」であり、世界で一番タフな15歳の少年・田村カフカくんの家出の話なのだ。
 そこに触れないわけには行くまい。

☆食事シーンについて
 僕は村上春樹作品の料理や食事シーンが好きである。実にうまそうなのだ。本作でも、いろいろな食事シーンがある。
 ・カフカくん、うどん
 ・カフカくん、売店で買った一番安い弁当を食べる
 ・大島さん、スモークサーモンとレタスとクリームチーズ
?のサンドイッチ
 ・ホシノさんとナカタさん、焼き魚定食
 ・ホシノさん、握り寿司と瓶ビール
 ・ホシノさん、親子丼
 など、全部思い出せないが、ほかにもいろいろある。
村上作品では排泄シーンはあまり出てこないが、食事に関してはけっこう細かく書かれていることが多い。
 「細かく」というのも2パターンあって、
 ①別に今こいつが何を食ったかいちいち書く必要はないが、書いているというパターン
 例:「(ホシノさんは)蕎麦屋に入り、親子丼を食べた」
 ②料理を作るプロセスを丁寧に描いているパターン
 例:正確には忘れたが「僕はフライパンにオリーブオイルをひいて温め、薄切りにしたにんにく入れた。フライパンを傾けながら、にんにくがかりかりになるまで…」みたいなこと。
 こういうシーンを見ていると、実際に自分も親子丼やスパゲティを食べたくなってくる。
 村上作品を熟読しすぎたいけ好かないハルキストともなると、日曜日の午前11時にロッシーニの「泥棒かささぎ」を聞きながらスパゲティをゆでたり、ふわふわの白いパンにローストビーフとオニオンスライス、ホースラディッシュをはさんでサンドイッチを作ったりしてしまうのだ!
 
 2000字くらい書いたわけだが、結局まだカフカくんの旅には触れられていない。

☆水面下のカフカ
 本編で明示的に語られていないカフカくんの出生の秘密、佐伯さんやジョニー・ウォーカーこと田村浩一氏の関係、ナカタさん覚醒の背後にあるものなど、想像をかきたてる水面下の要素がたくさんある。
 ここでは「かもしれない」が多すぎるかもしれない、などという事態に陥らないように、細々としたエクスキューズは一切せず、「これが真相なのだ!」という決めつけで話していこうと思う。
 「少年カフカ」で「してますよね?と明るく決めつけられても困ります」と春樹からキレられていたあの気の毒な名もなき大学生のように。
 
 まず佐伯さんだ。100%の恋人を学生運動の中で無残に殺され、失意の中各地をさまよう。思い立って雷に打たれて生き残った人々についての本を書く。その中で田村浩一氏と出会う。
 田村浩一氏、ゴルフ場でキャディーのバイトか何かしていたようだが、雷に打たれて彫刻家としての才能が本格的に開花する。
 これは本当に雷だったのか、それとも雷に見せかけた何かだったのか、どっちなんだ。
 雷だとしたら全くの偶然に、そうでないとしたら作中ずっと匂わされているいる「宇宙人的な何か」「超越的な何か」からの「啓示」的な何かによって、田村氏は何かしらの神がかり的な力を得た。
 この力によって田村氏は、大島さんをうならせるほどのオリジナルな彫刻作品をいくつも生み出したが、その副作用として、何かしら「邪悪なもの」を抱え込むことになり、おそらくそれがカフカくんを損なうことになった。
 大島さんの想像通り、佐伯さんと田村氏が一時期生活を共にしていて、カフカくんが佐伯さんと田村氏の子どもだったとする。
 佐伯さんが田村氏のもとを去ったのは、この邪悪なるものを恐れたからかもしれない。
 カフカくんを置いて、実子でない姉を連れて逃げたのは、カフカくんの中にこの邪悪なるものが引き継がれているのを感じたからかもしれない。
 カフカくんがひとりぼっちなのは、ある意味ではこの邪悪なるものを外に出さないように、心身の鍛錬によって堅固な壁を作っているからかもしれない。
 カフカくんの孤独が親から引き継がれたもののせいだと考えるとあまりにも悲しい。
 カフカくんは壁を作ることで自分のみならず他人をも守っているのだが、そのせいで孤独なのだ。
 そう考えるとつらすぎる。
 そんな必死の思いで邪悪なるものの流出を防いでいるカフカくんに対して、どこぞのバカなクラスメイトが茶々を入れるのだろう。
 壁を決壊させてしまい、邪悪なるものに支配されたカフカくんから不条理フィストを食らうことになる。
 ざまぁみろ。
 自業自得だ。
 
 そんなわけで佐伯さんは去って行ってしまったわけだが、田村氏は佐伯さんを取り返そうと躍起になる。
 田村氏はどうして佐伯さんに執着したのだろう。
 佐伯さん個人に対する好意というのもあったかもしれないが、佐伯さんの中にある才能に目をつけたのではないかという気もする。
 「海辺のカフカ」を作って演奏し、歌い、多くの人の心をつかむ力。
 田村氏は、あるいは田村氏の中に巣食う何ものかは、この才能を欲し、手元に置きたかったのかもしれない。
 しかし佐伯さんはあくまで過去に失った100%の恋人に心奪われているから、田村氏の元を去ったのだ。
 この辺の綱引きは、「ノルウェイの森」におけるキズキとワタナベくんの直子をめぐるそれに似ている。
 
 
 

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