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優しさと賢さと

性格判断などでも取り上げられたりする、よく見る対比だと思う。世の中としては優しさの方が大事、という話が多い。優しいこと、気遣いが出来ること、人を労ること。そういうものを享受しながら生活出来るなら、気分は良い。

とはいえ、自分の場合は賢さを取ってしまう。嫌な経験を思い出した時に、暴言や暴力などの理不尽を突きつけてくる、話が通じない人間の顔を連想する。それらに対する反発として選んでいるので、育ち方や今いる環境で左右される部分も大きいように思う。

優しさを取る人の中にも、過去の経験から選んでいる場合があるのかもしれない。賢い、頭が良いなどの表現の中に、そういう人や物事に対するやっかみ、薄気味悪さ、劣等感や嫌悪感が混ざる可能性はある。

優しさという表現自体には、不穏なものをあまり感じない。優男、優しいだけなど、比較的に良い意味で用いられない場合でも、強い拒絶や憎しみというより、物足りなさという部分が目立つ。字は共通でも、優れる、優秀となると、上下の関係に意識が向く。日本語の解釈の問題だから、他の言語だと印象は変わるのだろう。

2つのものを並べた時点で、どちらかを排除して白黒や優劣を決めようという心境に誘導されやすいのかと思う。どちらかが足りない気がしてしまえば、それに応じて思考が狭まるのかもしれない。改めて考えるのであれば、対立させる必要もない。賢さも優しさも両方身に付けて行けるのなら、綺麗事でもそっちの方が望ましい。

優しくなる為に勉強をする、という考え方もある。これは腑に落ちかけたのだが、勉強を賢さに読み変えて良いのだろうか、と少し立ち止まった。そこまで細かく考える必要も無いだろうに、と思う反面、一度気になれば無視はしづらい。

優しくなるには少しだけ賢くなることが必要だ、というのが今の所の実感になる。賢さで押し通そうとするなら、近付き過ぎたり相手の心に土足で上がったり、トラブルを招くかもしれない。少し歩み寄る程度を保てるのであれば、自分も他人も過ごしやすそうに思える。


優しさで全て解決出来るなら、もっと生きやすい世の中になっているだろう。自分のことしか考えないで搾取する人は、自分にだけ優しい。誰でもそうなることはある。人は変わるし、変わってしまう。多分、変わることも出来る。

記事を読んで頂いてありがとうございます。個人の見解なのはお忘れなく。