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タレンティッドについて


便利な世の中になった。検索すれば色々な情報に触れられる。暇潰しで困ることは少ないだろう。比べて眺めるのが好きな身としては、情報過多で何を信じたら良いのか悩む場合も多い。検索システムやマーケティングの関係上仕方ないのだろう。

ギフティッドに関して、最近取り上げられる機会が増えたので、改めて検索をかけた。記事が表示される順番も、去年と違った印象を受ける。ギフティッドと思われる人、という扱いで国内外の有名人が並ぶことがある。タレンティッドという括りでも似たような情報は出て来る。

わざわざ突っ込む自分がおかしい気もするが、何かしらの勘違いに繋がらないか昔から心配ではある。実績や活動などから考えれば、特殊性を持った人も含まれるとは思うが、根拠の無い人まで取り上げるのはどうなのだろう。才能で片付けられたくない人もいるかもしれないのに。

ギフティッドに関しては、不十分な部分もあるとはいえ、IQを使った判別も可能ではある。一方でタレンティッドの場合、芸術や運動の範囲に才能が特化していて、IQでの測定は難しい場合もあるとされる。

EQとタレンティッドを絡める話も見かけるが、繊細さが共感性の高さとして現れるのか、神経質傾向が問題と扱われるのか、解釈によって見え方は違って来る。個々人の環境など置かれた状況を考慮していないのなら、現実に即したものとは言い難いように思う。

タレントだからタレンティッドとか、タレンティッドだからタレント、という認識が一部にあるのなら、それは雑過ぎる。結果としてそうなる可能性があるだけで、何を選んでどういう人生を送るかは、本人の選択や運の要素が大きい。

振る舞いや性格から特殊な才能が認められたなら、それを本人に示唆することも大切だが、押し付けるものでもない。体格・体力に恵まれた人が、詩や文学に興味を持ったとする。取捨選択する必要があるなら、少なくとも迷う権利はあるだろう。


文献の引用など、根拠が示されている情報であっても、解釈や翻訳で勘違いが起きていたりすれば、前提から崩れ去ってしまうことはあり得る。それを言ってしまえば、真理とは何ぞや、といった哲学的・宗教的視点にまで行き着いてしまう。

さすがにキリがないので、現実的な落とし所として、研究に基づくデータや統計に重きが置かれがちだ。何らかの課題に対して、人生を費やしている人たちの成果なのだし、情報として信頼は置きやすい。間違っているなら後で訂正されるはずであって、次の考えの基盤にもなる。

タレンティッドにしろギフティッドにしろ、その定義は今の時点で曖昧だ。良い部分だけ取り上げても、批判や悲観に走り過ぎても良くはない。数値やそれ以外の振る舞いの部分など、実態から考えなければ、本人も混乱してしまう。

記事を読んで頂いてありがとうございます。個人の見解なのはお忘れなく。