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経験について思うこと

経験に勝る知識は無いという。そりゃあそうだと納得するのだけれど、時間を費やせば経験になる、と考える人が一定数いる気がする。間違いではないが、どうにも乱暴に思えてしまう。

1枚の紙を見て、ただそこに紙があるとする人もいれば、

サイズ、形状、材質、生産方法、生産場所、関わっている企業、使われている技術、そこまでに至る変遷、代替となるもの、折り紙するのにちょうど良いかどうか、何を折るか、など考えを巡らす人もいる。単純化し過ぎかもしれないが、脳が1回動くのと10回以上動くのでは、経験として異なるはずだ。

どの分野でも、時間や回数をかけて積み上げるのは必要なことだが、意識の持ち方や感覚の差によって、経験そのものや捉え方にはズレが出て来る。そこの検討をしない人が、自分の基準で経験云々と振りかざすと、不毛なトラブルが頻発しそうである。おそらく一生気付かない人もいる。

何かのきっかけが無いと、見ようとしない部分かもしれない。周りと違うことに多少自覚がある人間でも、周囲に合わせようとする、受け容れられようとすることで、違和感から目を背ける場合もあるだろう。それが良いか悪いかは状況次第だが、たまに自然な状態になるのは必要だと感じる。可能なら常にありのままで居たいけれど、発育段階の問題も絡むのかもしれない。とにかく安心感に飢えているのだろう。


ギフティッドなどを指す時、違う世界に住んでいる、などと冗談めかして言う人もいる。感覚の激しさの比喩として面白く分かりやすいし、本人が不安にならない範囲で使う分には良さそうだ。

年齢に関わらず、ストレスなどで価値観が揺らいでいるような時には、その手の表現は気分の良いものでなくなる。負担の大きい環境では、そういう声にあまり耳を貸さない方が良い。全ての人がそれぞれで違う世界を生きているようだ、というのが抜けてしまいがちなら、気が滅入る。

記事を読んで頂いてありがとうございます。個人の見解なのはお忘れなく。