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ギフティッドについて思うこと

ギフティッドの情報は、検索出来る範囲でもそれなりに充実している。「こういう人、いるかもなぁ」という特徴も見つけやすい。心当たりが付くという意味においては、今まで完全に見向きされなかったわけでもない。どちらかといえば「困っている」という部分に疑問を投げ掛ける人が多いのではないか。

能力や数値が高いから成功を収める、とは限らない。そういう側面もあるのは否定出来ないが、上手くやっている人は、環境が整えられていたとか、周囲の理解が得られたなどが考えられる。難しい状況にいる人は、環境が整っていない、周囲の理解を得られなかったなど、逆の要素に見舞われたかもしれない。

スーパーマン的な何かと誤解する人もいる(欧米に多いという)が、あくまでも彼らは人間であって、運の要素にも左右されるし、困りがちな実態があるからこそ支援の動きが出ている。インターネットのおかげで情報に辿り着くことは可能になったが、周知や普及と言える段階ではなく、理解され難いというのが問題を複雑にしている。

ギフティッドは感情や経験を通常よりも激しく受け取る、過興奮性という性質を持ちやすい。強い刺激が知能の発達を促すと考えられているが、その影響で脳の様子が一般的なものからかけ離れる傾向がある。認知機能や身体操作など、様々な部分で凸凹のある発達も特徴の一つとされる。

読み書きを高校生並にこなせる知的欲求モリモリの7歳の子供がいたとして、実年齢だからと小学1年生に合わせて授業を受けなくてはならない、とすればどうか。少なくともストレスを受け流し切るというのは非現実的だ。過興奮性によって、心身に受けるダメージも無闇に増幅されるかもしれない。

日本の公教育は、文化や成立の背景から平等や調和を重んじる。それが悪いものとは言えないが、どういう形にせよ枠からはみ出る子には環境的に厳しい。能力によるえこひいきというより、苦しい状況で扱われていた子供たちが、健全に育つ権利を守る為の支援といえる。

生まれ付きの要素となれば、複雑な感情を抱く人もいるのは分からなくもないが、本人たちが自ら望んでそうなったのか、少し考えてほしい。ゲームのようにリセットや設定の変更を出来るならまだしも、設定の確認でさえ現実では難しい。彼らの特性は、大人になったら消え去るわけではなく、生きづらさを抱え込む人もいる。


本来は、障碍やギフティッドなどの言葉で属性を足したり、診断を根拠にする必要は無いのだろう。そもそも誰であっても苦労や悩みは背負うのだから、困った時に素直に頼ることの出来る仕組みは必要だ。大まかな環境さえ整備出来ないなら、多様性やインクルージョンという言葉はお飾りになってしまう。

記事を読んで頂いてありがとうございます。個人の見解なのはお忘れなく。