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私は運動ができない(球技大会)

小学校の時、私は運動のできる子と友達だった。

その子のおかげか、学校が終わった後、男女合わせて20人ほどでするドッジボールに誘われて、広い空き地でよく遊んた。

私は速攻で当てられ、最初に外に出るのが定番になっていた。
ボールの取れない私は、飛んできたボールを走って追いかけていた。
私がボールを投げると「届かんやん」とみんなが笑った。

そんな私を見るに見かねて、ある男の子が
「僕の後ろについて僕の動く方に動いていればいいから」
と言ってくれたため、私はその子の後ろについて、その子が右に動けば私も右に動き、左に動けば私も左に動いていた。

私はボールが取れないから逃げるばかりだったが、それでも楽しかった。

私たちは空が茜色に染まるまで何度もドッジボールをして遊んだ。

学校の授業が終わると、「今日も行こう」と誘われた。
私は小学校時代、それなりに楽しい日々を過ごしていた。

中学になり、球技大会というイベントがあり、1年の時の球技大会は私のクラスが優勝した。

先生は高揚しながら喋った。

「クーベルタン男爵は言いました。オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある、と。しかし、勝つっていうのは素晴らしい。本当によく頑張りました」

ずっと応援側でいて出場することのなかった私は、敵方の相手クラスを応援していたけど、ニコニコとした笑みを表情に出し、先生の話を聞いていた。

2年になった。先生はこんなことを言い出した。

「健全なる精神は健全なる身体に宿ります。今まで応援するだけだった人も今年からは全員試合に参加するようにします。1年間のうち1回は必ず試合に出れることになりました」

つまりは、運動のできない私たちは健全なる精神が宿っていないから球技大会に出れるようにしてあげた、と言っているのである。

余計なお世話である。
健全なる精神が宿っていない、これは認める。
しかし、球技大会というものは遊びではない。
戦いである。
負けると「あの子のせいで」と苦情を言われるのである。
負けて泣いている子もいる。
球技大会で負けたくらいでなぜ泣かなければならないのか理解できなかった。

球技大会の好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
好きな人だけ出ればいい。

当時の私は、サッカーに至ってはどっちのコートにボールをシュートすればいいのかわからないくらいルールを知らなかった。
バレーボールは上からサーブすることもできない。
ソフトボールはミットの数が足りないから、私がミットを使うことはほとんどなかった。ボールが取れないから、ミットは必要ないのである。

私は球技大会に出たはずなのだが、球技大会の思い出が全くない。
何の球技に出たのかも、勝敗も全く記憶として残っていない。

思い出すのはその年に
「今年から何かの球技大会に全員参加することになりましたが、そのことについての考えを述べよ」
という国語の作文を書いたことである。

私たちは運動をしている姿を見られるのが嫌なんです。
私たちは失笑されるのが嫌なんです。
私たちはため息をつかれるのが嫌なんです。
私たちは他の人の迷惑になるのが嫌なんです。
負けた場合、複数の人が集まって私たちを横目で見ながらひそひそと話をするのが嫌なんです。

私は反対意見をつづり、
「全員参加というのは本当にいいことなのでしょうか」
と、最後の一文を書いて作文を締めた。

運動のできる友達は「全員できるのはいいことだと思う」と書いたらしい。
ほとんどの人は同じ意見だった。
応援をするだけでは「可哀想だ」と言うのである。

私の反対意見も虚しく、次の年も球技大会は全員参加となった。

クーベルタン男爵は言いました。←言っていない。

「凡庸な人間、もとい、劣等な人間がオリンピックに参加してもそこには全く意義がない」

#創作大賞2024 #エッセイ部門


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