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言葉に悪酔いしないように

noteを4日間投稿し有難い事に毎記事「スキ」が付き、読んでくれた人の存在に驚きを隠せません。
noteを通じて自分なりに他人との関係性を築く土台として、また社会への免疫をつける為に始めました。

読み返してみても堅苦しい…。
私のこの内省的な性格から生ずる癖も対個人、あるいは文面だから許されているのものの、実生活では不具として現れ痛手を被ります。
noteに没頭しているとそういう危惧が頭から離れる瞬間があります。
自らに警鐘を鳴らし、今一度私がnoteを書く意味を再確認する為に今日は筆を執らせてもらいました。

具体的にnoteを書いていると(言葉を紡ぐ人なら御理解いただけると思いますが)、より良い言葉を探す為にその深みへと沈んでいく内に、等身大の、生身の自分を置き去りにしているような感覚に襲われます。
恐らくそれは言葉に悪酔いしている証拠です。
巧みな言葉によって現実の自分を曲解し、言葉の甘美なる毒に蝕まれているのも承知のくせ、その毒の愉悦に浸っている。

その高尚な文面とは裏腹に…。
生身の人間は自堕落に違いないでしょう。

私利私欲、自惚れる為に言葉を探し、言葉の海に身を投じている内に海岸から発した等身はいつの間にやら潮や波に乗せられ、海の只中に漂流し、辺りは茫洋に漂う水面があるばかりで、陸の、岸際の姿はもう見えない。

現実を置き去りにして現実に戻れなくなる、そういう恐ろしさも身に染みて覚えて置かなければなりません。

何せ言葉は時として無力だからです。
言葉は言葉の世界で制約を受けているのであり、つまり、言葉にも天井があると言う訳です。

舌足らずで言葉に行き詰まり自分の伝えたい事が伝えられない無力感もあるでしょうが、そうではなく、幾ら弁舌に語りかけても他人に理解してもらえない無力感もあるのです。

幾ら好きと伝えても相手の中に自分への好意が存在しなければ、その時の言葉は無力です。
言葉の無力感を重々承知した私はある種の言葉への執着を捨てなければなりません。
しかし、言葉の全てを否定するのではなく、言葉も手段の一つとして認め、言葉以外の手段、行為行動を現実に片足を残して生きていかなければなりません。

行動には人間の、生命の爽やかさが垣間見られます。
そこで私も社会で快活に生きていけるように、XやYoutubeなどでありのままの軽快な自分も今後表現できたら良いなと思います。

以上、反省と改善の途中報告でした。
Xで呟くのはまだ恥ずかしくて慣れません。
徐々に慣れていきたいです。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。


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