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組曲Ⅲ 敗残の秋16

 酔狂は止まない。次の日も緒方はその部屋に泊まる事にした。明るいうちに買い物に出かけ、スーパーマーケットの駐車場にある公衆電話から東京の自分の部屋に、いや、数日前までは確かにそこに存在していたであろうなつめの残像に向かって電話を掛ける。呼び出し音が何度も繰り返され緒方の膝は震えた。受話器を戻すと口元が悲しさでぐにゃりと歪み、思わずその場にしゃがみ込んだ。胸の奥がずきずきと痛み、自分が何か取り返しのつかない事をしたのだと思った。時間を戻したかった。しかしそもそもどこまで時計の針を戻し、何をどうすれば取り返しというものをつける事ができるのだろう。

 そんな日が幾つも続き、次第に緒方は静かな気持ちで呼び出し音を聴くようになっていた。閉じられたカーテンの隙間から僅かな光が差し込んでいるだけの誰もいない部屋に、電話の呼び出し音だけが虚しく響く。そんな情景を思い浮かべ、深い溜息を吐く。毎日、日めくりのカレンダーでも繰るように、なつめがいなくなった事を何度も何度も電話で確かめ、そのたびに味わう苦痛も、最初に味わった激しく、身体を切り裂くようなものから、甘い悲しみを伴う柔らかな痛みへと変わっていった。古くなったゴム紐がいくら引っ張ってみても、もう元には戻らないように緒方の心もいつしかだらりと伸び切ったままになっていた。緒方の心の中でだらしなく伸び切ったゴム紐、そうさ、人はそれを諦めと呼ぶのだとそう思い、一人寂しく笑った。

 それからさらに数日、膝小僧を抱くように、なつめの事、死んだ後輩の事をしっかりと胸に抱え込んだまま酒を飲み、眠り続けた。ふと目を覚まし、湿気た布団が乾くように自分の心が乾いたと感じられた朝、緒方はその部屋を離れる事にした。心は乾いたが、それは濡れる前の奇麗な状態に戻った訳ではなかった。湿気が運んできた汚れをしっかりと染み込ませたまま緒方の心は干からびた存在に生まれ変わったという、ただそれだけの事だった。

 

 久しぶりに東京の自分の部屋に戻ってきた。ここに着くまでの間、何度も何度も、くどいほどに自分に言い聞かせた通りに部屋には誰もいなかった。どさりと旅行鞄を足元に投げ出すとあたりに埃が舞った。不動産屋に紹介されて新しい物件を探しにきた客のように、緒方は部屋の中を隅々まで丁寧に見て回った。部屋の中はすっかり片付いていて、そこは普段よりも随分と広く見えた。部屋を仕切るために緒方が吊り下げたカーテンは外され、テーブルの上にきちんと畳んで置かれていた。台所の脇には丁寧に洗ったコップが並べられている。箪笥の抽斗を開けると、なつめの衣類が入っていたスペースだけが空っぽになっていた。

 遅い午後だった。太陽の光が窓から斜めに差し込み、部屋の中は明るい陽光に満ち溢れていた。泣くにはこの部屋は明るすぎる。漠然とそう思ったのは、他に思う事がなかったからだ。なつめとの暮らしは喜びと同時に、また大きな苦痛を伴うものでもあった。緒方は今、その苦痛から解放されたのだと、そう考える事はできたが、だからといって悲しさがいささかも和らぐ訳ではなかった。大きく窓を開けると明るい陽射しの中、乾いた冬の匂いが一杯に流れ込んできた。悪い夢の中を過ごしてきたような気分だった。その悪い夢から醒めると、冬という季節の底に緒方は一人佇んでいた。

                   了 Ⅳへ続く

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