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組曲Ⅰ 修羅の春13

 そうしてまた次の夜、閉店近くになってまたカウベルが鳴った。入ってきたのはサキソフォーンのケースをぶら下げたОだ。今夜は春彦が遅番、真樹が客としてカウンター席にいた。マスターが「いらっしゃい」と普段とは違う朗らかな声を上げ、なぜかその声が引っ掛かるように真樹の耳に残った。店の隅のボックス席で静かに飲んでいた二人連れが、ちらりとОに目を遣り、それから何の関心もないというように目を逸らすとまた二人の会話に戻った。

 その晩も真樹はОに即興のセッションをねだり、Оは応じた。演奏が始まると、隅で飲んでいた二人の客が大きく口を開けて、唖然とした顔で聴いていた。そしてその次の夜もほとんど聴き手のいない閉店間際のセッションを真樹とОは繰り返した。

 Оがデイヴィスに初めて顔を出してから四日目、さすがに四日目ともなるとマスターから話を聞いた常連客や、ジャズアカデミーの学生たちが、そろそろ噂が広まりかけているОのサキソフォーンを聴いておこうと集まってきた。最初の夜と同じく、Оはやはり真樹に大切な秘密でも打ち明けるかのようにいくつかの音を丁寧にゆっくりと鳴らした。

 ド、ラ、ミ、ファ♯、ソ、ミ♭、レ・・・、大きく開かれたまま何も見ていないその目の表情から、Оの中で今、自らが鳴らしたばかりのいくつかの音のイメージが大きく膨らんでゆくのがわかった。そのОがちらりと真樹を一瞥し、それからゆっくりとサキソフォーンに息を吹き込む。

 静かな店の空気がぴんと張り詰めた。肌に触れると、触れたその肌をひりひりと痛ませるような独自の緊張感を伴った空気が店内に満ちた。その空気を切り裂くように伸ばされた一本の糸、その艶やかな絹糸のように長く引き伸ばされたサキソフォーンの音に、触手のような真樹のピアノのアルペジオが絡みつく。そして別の高さの音を、また違う高さの音を・・・、Оが音の高さを変えるたび、白く細長い真樹の指が紡ぎ出す響きもさまざまに変化する。間合いを詰めてゆくように、次第にОが奏でる一つ一つの音が短くなってゆくと、少しずつ隠れていたリズムが姿を現し始める。それはまるで横たわったままの美しい人形に、次第に命が吹き込まれてさまを見ているかのようだった。ゆるやかにリズムが動き始める。Оも真樹も、二人ともが何かに耐えているかのようなゆるやかさだった。

 先に耐えられなくなったのは真樹の方だった。鍵盤の一番左端、最も低い音域、そこに居並ぶ鍵盤に丸めた拳を叩き付けると、堰が切れたように音の塊が一気に噴き出す。まるで草原を駆け抜ける一頭のしなやかな獣のように、猛烈なスピードで真樹のピアノが疾走を始めた。すかさずОのサキソフォーンが真樹の後ろ姿を追い掛ける。もうこれ以上の速度はこの世に存在しないと誰もがそう思うようなスピードで。

 Оの体の奥底から次々と溢れ出してくる旋律の断片を、いちいち真樹は丁寧に拾い上げ、Оに向かって投げ返してくる。ふと真樹の中を数日前の春彦の言葉が掠めた。Оが海に向かって戦いを挑んでいる、確かに春彦はそう言った。ああ、やはりその言葉は間違っている。Оはただただ水が高いところから低いところに向かって流れるように、自然に音を紡いでいるだけなのだと。もしОが激しく演奏しているように見えるのなら、それはО自身が激しいのではなく、その時にОが描こうとしている世界があまりに激しいだけなのだ。真樹はピアノを弾きながら改めてそう確信した。二人の距離がさらに縮まり、縺れ、重なり合い、溶け合って大きな響きとなる。その響きは誰もが想像しえないような大胆さで変化を続け、そこに居合わせる誰もがただただ翻弄され、その果てしない美しさに怯えた。

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