見出し画像

Ⅰー32. 軍隊に入ったのは「悪い」履歴を拭い去るため:ハノイの知識人の戦争体験と戦争の記憶

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(33)
★2016年7月16日~8月7日:ハノイ市、ハザン省、ラオカイ省、フエ市、
              ホーチミン市
見出し画像:1972年春季大攻勢(イースター攻勢)(クアンチ省クアンチ古
      城)での戦闘の様子。この戦いには北ベトナムの多くの学徒兵
      が動員され戦死した。

はじめに

 今回はハノイ市内でおこなった7人の知識人に対するインタビューの結果をご報告する。この7人は全員男性で、3つのグループに分けられる。文学者2人、元学徒兵3人、中越戦争経験者2人の3つである。

 まず今回の調査日程を以下に記す。
7月16日:成田空港発、ハノイ・ノイバイ空港着。ミーディンの国家大学宿
     舎に投宿。
7月17日:文廟、ホーチミン廟、一柱寺を参観。
7月18日:語学研修開講。
7月22日:『神々の時代』の作者ホアン・ミン・トゥオン氏の自宅訪問。
7月23日:ハノイ近郊の国家文化財「ドゥオンラム村」を参観。
7月24日:ハザン省ヴィスエン(Vị Xuyên)の烈士共同墓地とヴィスエン戦
     線記念館を訪れる。ハザン市内のホテルに泊まり、翌日、ハノイ
     に戻る。
7月27日:午前、文学者チン・ディン・コイ(Trịnh Đình Khôi)氏に自宅で
     インタビュー。
7月29日:午前、研究協力者のダイ氏宅にて詩人ファム・ドゥック(Phạm
     Đức)氏にインタビュー。
7月30日:ラオカイ省サパに観光。翌日、ハノイに戻る。
8月1日:ノイバイ空港発、フエ・フーバイ空港着。フエ市のホテルに投宿
8月2日:フエ市内のファン・ボイ・チャウ博物館、ホー・チ・ミン博物
     館、革命歴史博物館(元の国子監)などを見学。
     翌日、ハノイに戻る。
8月4日:午前、グエン・ナン・ルック(Nguyễn Năng Lực)(仮名)氏宅
     にて3人にインタビュー。夜、中越戦争経験者2人にヴィエット
     (Việt)氏宅にてインタビュー。
8月5日:語学研修閉講。
8月6日:ハノイ・ノイバイ空港発、タンソニャット空港着。クチ・トンネ
     ル、ベンタイン市場などを参観。
8月7日:統一会堂、戦争証跡博物館などを参観。同日の深夜便にて帰国。

ヴィスエン烈士共同墓地(ハザン省)

 今回の7人のインタビュイーの概要は以下の通り。記載事項は順番に、名前、生年、出身地、入隊年、主な戦場・駐屯地、除隊年、入党年;備考、である。なお、文学者の1番と2番は実名。そのほかは仮名である。また、いずれも現在はハノイ市在住。
1.チン・ディン・コイ(Trịnh Đình Khôi)、1946年、バクニン省、1965
  年、クアンナム省とクアンガイ省、1975年、1968年;党中央宣教委員会
  勤務、作家、枯葉剤被害者
2.ファム・ドゥック(Phạm Đức)、1945年、ハイズオン省、1963年、ハ
  ノイ市バーヴィー山、1975年、1968年;詩人、2022年に死去
3.ルック、1952年、ハノイ市、1972年、ランソン省、1986年、1979年;
  師範大学の学徒兵、高射砲・ミサイル部隊の兵士
4.トゥオン、1952年、ハノイ市、1972年、クアンチ省、1975年、2002
  年;建設大学の学徒兵、歩兵、枯葉剤被害者
5.フン、1954年、タインホア省、1972年、クアンチ省、?、1992年;建
  設大学の学徒兵、歩兵
6.ヴィエット、1959年、ハノイ市、1977年、ハザン省、1982年、?;父
  親は有名な英語学者のダン・チャン・リュウ(Đặng Chấn Liêu)
7.ザイン、?、1974年、カンボジア・中越国境、1983年、?;空軍の兵士

Ⅰ.ハノイの文学者の戦争体験、戦争の記憶

作家チン・ディン・コイ(Trịnh Đình Khôi)

(1)チン・ディン・コイ(1946年生まれ)
  バクニン省ティエンズー(Tiên Du)県出身。祖父は漢学教師で、幾つかの社をまたがって教える「総師(tổng sư)」だった。父も漢学教師で漢方医や占い師でもあった。祖父には3人の妻がおり、父にも複数の妻がいた。私は12人兄弟。幼時から漢学を学び、『金雲翹』(筆者注:19世紀なかばにグエン・ズーによって創作された3254行の韻文物語でベトナム文学の最高傑作とされる)を全文暗記している。土地改革後、私の家のような「地主」の子弟は「履歴」が非常に悪いとされ、ひどい扱いを受けた。
 1965年、高校を卒業し、入隊した。その頃はまだ大学入試がなく推薦制で、私は成績はきわめて優秀だったにもかかわらず大学に入れず入隊した。私の家の「履歴」のせいだった。私より成績は悪いが「履歴」のいい人が大学に進学していた。私が軍隊に入り、共産党員になろうと努力したのは、「地主成分」という私の家の「履歴」を変えるためであった。私が入隊後の1968年に共産党に入党すると村じゅうがびっくりした。私が部隊に行き共産党員だということで、その後、弟たちを大学に進学させることができるようになった。
 米軍が上陸してきた1965年の4月に入隊し、数か月の訓練の後、南部に向けて出発した。出征時には死を覚悟した。戦場は主に中部のクアンナム省、クアンガイ省だった。戦闘は熾烈をきわめ、とても語り尽くすことはできないが、2つの事が特に記憶に残っている。1つ目は、私が負傷した時、より重症の人を置き去りにしてしまった事。あとで戻ってきた時には姿が見えず、2年後にもう一度その場所に戻った時に木の根元に白骨死体を発見した。所持品からその人だと判明した。
 2つ目は、チュー・フイ・マン(Chu Huy Mân)将軍(当時は少将。後に大将、国家評議会副主席)にまつわる話。ある丘での戦いで双方に多数の戦死者が出た。米軍はヘリで遺体を運び、わが軍は戦死者をその場に埋め、負傷者は担いで運んだ。密林の所で米軍のヘリはどうしても遺体の一つを回収できなかった。置き去りにされたその遺体は若い大柄の米兵で時が経つとともに次第に悪臭を放つようになり、わが軍の兵士は食事ものどを通らず吐く人さえ出てくる始末だった。それを見たマン将軍は直ぐに撤去するように命じたが、私はその遺体を埋葬するように提案した。埋葬する時、その若い米兵にもその人なりの人生があったのだろうにと私は思った。後にマン将軍に会った時、将軍はそのことを覚えていた。
 クアンナムとクアンガイの戦場では、米軍、韓国軍、サイゴン軍と戦った。韓国軍との戦闘が最も困難であった。米軍は火力は強力であったが、戦いは最も容易であった。サイゴン軍兵士はベトナム人独特のずる賢さをもっていた。1974年に負傷し、北部に戻った。軍隊には都合10年間在籍した。私は負傷兵であるとともに枯葉剤被害者でもある。
 抗米戦争は「我々が勝ち、敵が負けた」という人がいるが、実際には我々も非常に多くの敗北を喫した。「戦略的に勝ち、戦術的に失敗した」ともいえる。戦後には「政権が勝ち、人民は負けた」を目撃することになる。この言葉はフイ・ドゥック(Huy Đức)著『ベトナム:勝利の裏側(Bên thắng cuộc)』(2015年、めこん)の跋に書かれた言葉で、元々は詩人グエン・ズイ(Nguyễn Duy)が言った言葉である。

チン・ディン・コイ作『竹の旗竿』(2004年)

 復員後、ハノイ総合大学の語文科に入学した。法律の勉強のためソ連に留学する話もあったが、どうしても文学が勉強したかったし、軍隊時代に『軍隊文芸』誌に記事を寄稿していたこともあり、語文科に入った。大学では優秀な成績を収め(卒業論文満点)、卒業後は講師として大学に残り、大学の党委にも参加した。
 その後、党中央宣教委員会に移った。軍隊経験のある人を大学から採用したいとの意向に沿ったものだった。当時の委員長は詩人トー・ヒュウ(Tố Hữu)で、直属の上司も有名な詩人のホアン・チュン・トン(Hoàng Trung Thông)だった。文学と作家協会を監視するのが仕事で、この仕事を30年間余り続けた。この仕事は文学者とどのように接するかが難しいが、結局、文学界の指導者と協力できただけで、一般の文学者とは協力関係が築けなかった。最初から私は、同委員会は文学者の監視や警戒ではなく支援者でなければならないと思っていた。
 党宣教委員会勤務のかたわら、私は現在までに25冊の本を書き、作家協会に入って20年余りになる。私は兵士と女性をしばしば描いている。この2つによってこの国はつくられてきたと考えるからだ。小説『竹の旗竿』は、抗米世代が初めてディエンビエンフーの戦いを描いたものである。「我々が勝ち、敵が負けた」といった戦争文学のスタイルとは異なっている。戦後の兵士の疎外も描いている。
 共産党指導下の我が国の文学は、政策の挿絵か戦争奉仕のものにすぎず、政治に奉仕するものであって人類に奉仕するものではなかった。万世にわたるものを生み出さず、一時的なものを生み出しているだけである。我が国はニセの精神的価値を乱発し、本当の価値を貶めている。乱発には、学位の乱発、称号の乱発、将官の乱発(約20年前には30人だったのが現在は1500人に及ぶ)、首長の乱発などがある。
 現在、私は党活動を中止している。

詩人ファム・ドゥック(Phạm Đức)

(2)ファム・ドゥック(1945~2022年)
 ハイズオン省出身。母がハイフォン市の病院で働いていたので6歳からハイフォンで成長した。父は部隊に行っていた。1963年、ハイフォンで当時唯一の高校を卒業して、入隊。徴兵はその頃はもはや軍事義務法通りではなかった。私は大学に進学せず、思い切って入隊した。
 ホアビン省ドイシム(Đồi Sim)地方で3か月余り、通信兵の訓練を受けた。一緒に訓練を受けた仲間には高校生もいた。訓練が終わると、無線、有線、送電線の専門別に分かれた。私はより学歴が高かったということで無線に配属された。無線の電信兵には戦術級と戦略級の2つがあり、私は司令部に配属されたので、戦略級であった。司令部でなく、現場の師団、中団、小団に配属されれば死ぬ確率は高くなった。ハノイ郊外のバーヴィー(Ba Vì)山に駐屯していた。山中には堅固な塹壕がつくられていた。
 通信兵には、コン・チュエン(Công Truyền)、グエン・ズイ(Nguyễn Duy)、グエン・トゥイ・カー(Nguyễn Thụy Kha)のように詩人が多い。通信に関わる多くの女性の声を電波越しに聞いているので、感興が呼び覚まされるからだろうか。当時、軍隊の電話交換手の女性たちは主に洞窟の中で働いていた。
 私の勤務は一日三交代制だった。空腹だったが、戦場兵ほどではなかった。最も大変なのは夜間に目を見開いて夜勤しなければならないことであった。電文は数字の列の暗号で、それを送信したり受信して翻訳した。短い電文ほど重要で緊急度が高かった。仕事柄、昇格はあまりなく、最高位は副小隊長で専業准尉であった。
 その後、通信軍種の雑誌である『通信』誌に異動した。1971年の国道9号線・南ラオス作戦には同誌の記者として参加した。詩「煙を払いのける(Xua khói)」が評判となり、『軍隊文芸』誌に掲載された。部隊では壁新聞による文芸活動が盛んで、ジャングルに駐屯している部隊では「樹木の新聞」があった。紙が不足していたので、タバコの箱、乾物の食料袋などで新聞をつくった。大隊、小団レベルではそのような文芸活動がおこなわれ、部隊を鼓舞した(中団レベル以上だと、プロの文学者がいた)。このような文芸活動から新しい作家・詩人が発掘され、『軍隊文芸』誌はとりわけ戦場からの新人発掘に注力していた。ニ・カー(Nhị Ca)、トゥー・ビック・ホアン(Từ Bích Hoàng)、ダイ・ドン(Đại Đồng)、ヴー・カオ(Vũ Cao)などはその例である。世に残っている詩は、戦士と人々の生々しい現実生活から生み出されている。
 私は部隊に12年余りいて、1975年に復員し、青年出版社に勤めた。幸いにも、何冊かの詩集を出版でき、作家協会の会員にもなった。私の望みは、ベトナムの兵士は戦闘するだけではなく、知識・感情・魂をもった人間だと世に知ってもらいたいことだ。それらの兵士が抗米戦争の中で成長して詩人・作家となり、現在のベトナム文壇の多くを占めている。音楽家や画家もそうである。

1972年の学徒兵

Ⅱ.学徒兵の戦争体験・戦争の記憶

 Ⅰー29. で「ベトナム戦争末期のハノイの学徒出陣」について書いたが、本稿はその続編である。

(1)ルック(1952年生まれ)
 ハノイ市出身。1969年に高校を卒業し、師範大学に進学。3年生だった1972年5月に入隊。当時、兵力不足で学徒兵が動員された。兄は外国語大学の英語教員であったので、兄を兵役に就かせず私が入隊した。しかし1年足らずで、兄も入隊するはめになった(兄は英語が堪能だったので、パリ協定後に協議機関として設置された4者軍事連合委員会に出向になり、タンソニャット空港のキャンプ・デーヴィッドにいた)。学徒兵は別個の部隊に編制されたわけではなく、一般の部隊の中に組み込まれた。学徒兵は「プチブル」として軽蔑されることもあった。
 私は第127高射小団に配属され、中越国境のランソン省ドンモー(Đồng Mỏ)に駐屯した。1971年にハイフォン港が機雷封鎖され、社会主義諸国からの援助ルートは陸路のみとなった。ドンモーは鉄道と道路が合流する要衝で、同小団はその防衛にあたった。同小団は3個大隊から成り、1個大隊は37mm高射砲、2個大隊は57mm高射砲をそれぞれ6門装備していた。
 ラインバッカーⅡ作戦(1972年12月18日~29日)の第1波(12月18日~22日)ではハノイとハイフォンが爆撃され、その後ランソン、タイグエン、バックザンにも広がった。ドンモーも4夜連続のB52の爆撃を受けた。B52が来襲した最初の夜、備えが間に合わず、9人の兵士が亡くなった。そのうちの2人は学友であった。B52の爆撃は夜間だけで、国道1号線の向こう側の山の洞窟に入れば安全だった。
 先月(2016年7月)、その亡くなった学友のうちの一人の家族を訪ねた。90台の母親が存命だった。墓参には、故人が学生時代付き合っていた学年が一つ下の女友達も同行した。1975年に遺族は遺骨を郷里に持って帰り、幾つかの社の共同墓地に埋葬した。昔の女友達は今は出世して社長になっていた。しかし私生活では恵まれず、離婚し子どもも亡くしていた。
 ベトナム戦争終結後、1984・85年の2年間、ミサイル小団の指揮官として中越国境のヴィスエン、ラオカイにいた。その時はミサイル兵もAK自動小銃、RPD軽機関銃を携帯した。ヴィスエンは激戦だった。私は部隊に14年いた。復員後は、『ハノイ・モイ』紙の記者となった。南部の解放軍の武器の中には、敵から鹵獲したもののほかに敵兵から購入したものもあった。解放軍は、食糧や武器を南部で購入するための送金ルートをもっていた。私はそのルートについて記事に書いたことがある。

 57mm高射砲。ルックによれば、射程は約6キロ

(2)トゥオン(1952年生まれ)
 ハノイ市出身。ルックの高校時代の同級生。高校卒業後、建設大学に進学。その頃、大学生はまだ少なかった。県(huyện)に高校が1つか2つしかなかった。1970年以前は大学入試がなく「履歴」を勘案し選抜していた。学徒兵は、1970年5月から登場した。ただし、この時は既卒者で、技術系・医学系が主だった。1971年9月から現役学生の学徒兵は増え、41大学すべての大学から徴兵されるようになった。学徒兵は第325師団で訓練を受け、大部分はクアンチの戦場に送られた。その時点では、北ベトナムの人々の勝利を信じる気持ちは揺らいでいた。戦争は20年余り続いていて、どの家にも出征者、戦死者がおり、学徒兵まで動員することが不可避な事態になっていたからである。
 私は1972年5月に入隊。2か月の訓練の後、7月27日に南部に向けて出発した。自動車と徒歩でクアンチに急行し、1か月で到着した。軍隊の編制は学校別とか地方別とかは特になかった。大学の若手講師と5年生は北部にとどまり、技術系部隊に配属された。建設大学の卒業生は工兵の兵種が多かったが、私たちは歩兵に回されて戦場で戦闘した。第325師団は、学徒兵の占める割合が比較的高かった。私たちの主な戦場はクアンチ古城からクアヴィエット(Cửa Việt)の区域とフエ市のフーロック(Phú Lộc)であった。
 どの家でも出征者を出さなければならなかった。兄は農業大学の教員だったので、代わりに私が出征した。出征は祖国に対する私たちの責任だと思っていた。好きで行ったのではない。私は近視で、メガネをかけているのは中団全体で2人しかいなかった。もう一人は内勤者で戦闘兵ではなかった。クアンチ古城の戦いで私は味方の誤射で負傷してしまった。味方兵は我々の部隊でメガネをかけている人を見たことがなかったのでてっきり敵の偵察兵だと思い間違えてしまったのだ。
 当時の学徒兵はロシア文化の影響を大きく受けていた。出陣の時はロシアの歌曲を歌った。戦火の中、塹壕でもそれらの歌を歌って鼓舞しあった。私と友人は戦車兵たちにロシア語で歌を教えた。クアンチの戦いで彼ら5両の戦車隊はサイゴン軍の多数の戦車と戦い、全員玉砕した。
 ベンハイ川を越えて塹壕に入ると、その壁にロシア語で「祖国か死か(Родина или смерть)」と書いてあった。学徒兵が書いたものであった。1972年3月のクアンチ戦に参戦した学徒兵はみなその文字をヘルメットに書いていた。1972年6月、ミーチャイン川の戦線で学徒兵が捕虜になり、ヘルメットにロシア語が書かれていたのでロシア兵だと思われ、拷問され死亡した、と第304師団・第66中団所属の人が話してくれた。この「祖国か死か」は、1941年にソ連兵が書き、1961年にキューバのカストロが発言し、そして1972年にベトナムのクアンチ戦線にかくのごとく登場したのであった。
 学徒兵は夢見るロマンの魂をもっていた。当時、知識人階層は「プチブル」と軽んじられ、労働者、農民の兵士と比べて、私たちは何倍も奮闘しなければならなかった。それも「プチブルの動機」だと見なされた。
 部隊生活では高尚さと卑劣さが共存している。労働者出身で模範生と思われていたある人物から「(階級的)立場がない」と度々私は批判されていた。しかし彼は最初の戦いを前にして私たちのものを盗んで逃亡した。死はいつも目前に存在したが、自重し名誉を保たなければならなかった。もし逃亡すれば自分と家族の名誉はきわめて損なわれる。おそらくこれは私たちの世代全体の心情である。自重心によって、また家族と知識人の名誉心によって私たちは縛られていた。ただ戦いに入ったら、頭の中は生きるか死ぬかだけだった。
 サイゴン放送のラジオ番組「ベトナムの母」は、解放軍の兵士の動向を放送し、ハノイでも多くの人がひそかにそれを聴いて情報を伝えあっていた。しかし情報はガセであった。同番組は1972年12月19日に「サイゴン軍はクアンチ古城を占拠し、敵が放置した物の中には、百科大学、総合大学、建設大学、経済大学の学生の多くの書類があった。北ベトナムの戦闘した師団は学生たちであった」と報じたが、実際には、師団は学生だけではなかった。
 

解放軍が使用したAK自動小銃


米軍が使用したM16自動小銃(ARー15)。
トゥオンによれば、AKの方が破壊力が強い。またM16は泥につかると使用が困難になる。

 もしクアンチで学徒兵が戦っていなければ、クアンチは知られておらず、忘れられていたかも知れない。なぜならクアンチ古城が陥落したのは失敗だったからである。クアンチのお陰でパリ協定締結にいたったともいわれるが、クアンチを維持できたのは81日間だけで、撤退する時には力尽きており、敵に再占領された。パリ協定の行方はラインバッカーⅡ作戦での勝利によっている。クアンチの話をしたのは、当時、学徒兵がいて、学徒兵はそのように生き、戦ったということを後の世代の人に知ってもらいたいだけで、功績を誇りたいわけではない。
 戦後、1975年7月に列車で北に戻り、復学した。生き残った学徒兵の大多数は復学した。卒業後、銀行部門の仕事に就いた。
 カンボジアにいた時のこと。18歳の兵士が負傷して両足を切断するはめになっている場面に遭遇した。彼は私に取りすがって泣いた。私は言った。「君だけじゃあない」。彼は言った。「ここでの戦争はあなたたちの世代の抗米戦争とは比べられない。他国での戦争だ。敵の姿はどこにも見えない。待ち伏せ攻撃、地雷などで死傷するばかり。私たちは不幸だ」。私は言った。「君たちの犠牲があればこそ、私たちが守るために戦った成果はなくならない」と。
 政治体制は何であれ、共産党が最初に宣言した「独立、統一、領土保全」によって人々を取り込むことができた。今、民心は共産党から離れている。私は私たちの成果が失われるのを望まない。私たちは解放と統一のために戦った。後の世代は領土保全のために戦わなければならない。2014年の石油リグHD981号事件でようやく「北方国境退役軍人連絡委員会」が設立された。
 1995年から毎年、建設大学の卒業生グループはクアンチの戦場を訪れ、墓参している。また、戦死した戦友の家を訪問し、焼香している。戦死公報は多くの場合、死亡日が不正確でそれを訂正してあげている。
 

米軍とサイゴン軍が使用したM79グレネードランチャー
解放軍も敵から鹵獲したり、密かに購入して使用した

(3)フン(1954年生まれ)
 タインホア省生まれ。両親は部隊で知り合い結婚した。1955年に家族はハノイに移住。私は1971年に建設大学に入学した。1972年5月、1年生が終わる間際に入隊。学徒兵には1年生から5年生、若手教員までいた。5年生は卒業課題を免じられ、大部分は北部にとどまり工兵司令部に入り、一部の人はホー・チ・ミン廟建設へ回された(筆者注:ホー・チ・ミン廟は約2年の歳月をかけて1975年9月2日に完成した)。1年生から4年生は南部に出征した。私たちの小団は3個大隊あり、そのうち2個大隊は建設大学の学生だった。私は入隊した時、18歳になっていなかった。出征時、90%の人は死ぬと思い、死を覚悟した。
 訓練では学徒兵は飲み込みが早かった。大学入学時に1か月の軍事訓練を受けていたからだ。大隊幹部は、3・4年生レベルの学歴の人が多かった。私たちを訓練した人は士官学校出できちんとしていた。2か月の訓練期間だったが、実質は1か月半だった。
 クアンチの戦場に来ると、わが軍は兵力が損耗していた。3年生以上と体格のいい人は、工兵、輸送、戦車などの兵種に配属され、私たちは歩兵に補充された。戦闘はとても熾烈だった。私たちの死傷者は主に敵の火力によるもので弾丸によるものは少なかった。逃亡の考えはなかった。個人の名誉、家族の名誉を守るためだった。部隊の仲間とは戦友の情のほかに同窓の情もあって親しく、40年以上たった今でも友情は変わらない。
 クアンチの戦場に来てほどなく負傷した。北部に戻され、静養部隊に入れられた。その時にB52の爆撃で部隊の何人かが亡くなった。復員する時に、労働者として東ドイツに行くか、大学に復学するかの選択があったが、大学に復学することにした。負傷兵で大学に通うと、部隊にいた時の給料が支給された。
 大学を出てから建設部門で働いたが、1985・86年頃まで生活は苦しかった。ドイモイ以降、私たち知識人階層も一部だけど優遇され、待遇がましになった。退役軍人に対する社会政策もとられるようになった。退役軍人会(1989年設立)の会員になれば、医療保険に無料で入れる。勲章制度も整備され、枯葉剤被害者の手当も支給されるようになった。私は年金のほかに負傷兵手当をもらい、月に合わせて米ドル換算で400ドル近くになる。裕福ではないが、普通より高い方だ。負傷兵の子どもは高校・大学などの学費が免除になる。

772高地(ハザン省)1984年7月12日の激戦地

Ⅲ.中越戦争経験者

(1)ヴィエット(1959年生まれ)
 ハノイ市出身。父ダン・チャン・リュウ(Đặng Chấn Liêu)はフランス在住の越僑で、フォンテーヌブロー会議(1946年)での仕事ぶりでホーおじさんにその手腕を買われ、ホーおじさんの呼びかけに応じて1953年に帰国し抗仏戦争に参加した。戦後、外務省儀典局の副局長やホーおじさんの外交面での個人秘書などを務め、多くの国際会議に参加した。ファム・ヴァン・ドン(Phạm Văn Đồng)首相兼外相に随行している写真が多数残っている。父は英語に堪能で、共著で英越辞典を編纂している。
 父が師範大学の最初の英仏学科主任だった時、ダン・キム・ザン(Đặng Kim Giang)(少将、元人民軍隊後勤総局副主任)、グエン・ヴィン(Nguyễn Vịnh)、ヴー・ディン・フイン(Vũ Đình Huỳnh)(ホー主席秘書、外務省儀典局長などを歴任)、ファム・ヴィエット(Phạm Viết)らが逮捕される事件があり(筆者注:1967年のテト攻勢直前に起きたいわゆる反党修正主義事件。フルシチョフの「修正主義」に従っているとされた人たち多数がスパイとして検挙された事件)、父もあやうく逮捕されるところで、逮捕は免れたが当局の監視下におかれた。父は、窮乏を余儀なくされたダン・キム・ザンやファム・ヴィエットの家族を援助した。
 私は学校の成績はよかったが、この事件のため外国留学には行けなくなった。ベトナムでは「履歴主義」が強いからである。建築大学3年生の時、1977年に入隊した。ハザン省で訓練をうけ、最初はハザン省隊の第191中団に配属された。その後、ラオソン(Lão Sơn)の1045高地に駐屯する第313師団・第22中団・第4小団に移った。1045高地に駐屯している時はまだ中越両軍の緊張はなかった。第3小団に移り、1800A高地、1800B高地に駐屯していた時、両国軍の戦闘があり、中国軍にそこを奪われ、1387高地も占拠された。私は1509高地に最初に足を踏み入れた人の一人だが、そこにいた時はまだ激しい大きな戦闘はなかった。しかし地雷が到る所に敷設されていた。敵は一日中砲撃してきたが、私たちの小団レベルでは大砲はなく、120mmと160mmの迫撃砲と重機関銃しかなかった。私はそこに1982年までいた。その高地が奪われたのは1984年以降である(筆者注:ヴィスエンの1509高地では1984年7月に大きな戦闘があり、中国軍によって占拠された)。
 私は小団の通信兵だった。2W機を使い、すべて中国製の通信機器だった。アメリカ製のPRC25などはなかった。武器はほとんどがソ連製と中国製だった。アメリカ製の武器はあまり使われていなかったが、M79グレネードランチャーは使用した。私はAK自動小銃よりM79の方が好きだった。AKは弾丸が重かった。M79は手りゅう弾代わりになるし、射程は10倍で体も疲れない。またアメリカ製の武器は錆びなかったが、ソ連製はすぐに錆びた。弾薬の不足はなかった。心配なのは体がもつかどうかだけだった。弾丸をたくさん撃つと耳から血が出た。私は中越国境の戦場に3年9か月いて1982年に復員した。

Mig 21戦闘機(軍事歴史博物館、ハノイ市)

(2)ザイン
 ベトナム戦争末期の1974年末に入隊。ハノイの第361防空師団に配属された。同師団は北部に兵士の3分の1だけ残して、残りの3分の2は南部に出征させた。私たちは、サイゴン解放時、ビエンホア飛行場を接収し、米軍のF5、A37と訓練機を鹵獲した。A10も1機鹵獲した。1976年にタンソニュット飛行場、1978年にカントー飛行場に移った。カントーには1980年までいた。米軍機A37は多くの優れた点があり、火力も強い。米軍機F5はソ連軍機Mig 21よりも性能がよかった。米軍機はMig 21よりも滑走距離が短くてすんだ。
 カンボジア戦争では我々が完全に航空優勢を確立していた。クメール・ルージュのために中国が提供したMig 17、Mig 19を40機以上、鹵獲した。それらをビエンホアとカントーの飛行場に移して補修整備し、1980年代初頭にカンボジアのフン・センに返還した。Mig 17は重くて遅く、火力も弱かった。
 中越戦争では最初、中国は強く、ハノイまで進攻する勢いだった。我々はカンボジア戦争に兵力を割いており、私の中団も北部に残っていたのは1個小団のみで、それも食糧生産を主にする女性ばかりの部隊だった。私たちが引き返してきて、ようやく女性小団を後方に戻した。第918中団はベトナム戦争でC 130輸送機を10機余り鹵獲していたが、中越戦争の負傷者をC 130輸送機でハノイに直接運んだ。

ケサン基地跡のタコン空軍基地跡に陳列されているC130輸送機(クアンチ省)

おわりに

(1)チャン・ディン・コイは軍隊に入ることによって悪い「履歴」を拭い去ることができた。土地改革(1954~1956年)の階級分類によってブルジョアジー、地主、プチ・ブル、富農は悪い階級成分とされ、労働者、農民(貧農・雇農)が基本階級とされた。悪い「履歴」をもつ家族は就職、入学では差別された。その差別を挽回できる場が軍隊であった。軍隊は少数民族などを「国民化」するとともに、「履歴主義」による階級社会の中で差別を受けていた人々を包摂する機能ももった。

(2)チャン・ディン・コイのベトナム戦争の総括では、ベトナムは勝利したが、敗北も多く喫したというものであった。ベトナムは解放軍側の詳細な戦死者数をおおやけにしていないが、戦死者数でいうと、解放軍側はサイゴン軍や米軍などと比べてはるかに多いのは明らかである。トゥオンが述べているように、1970年代初頭、北ベトナムはかなり追い込まれており、民心も動揺していた勝敗がきわどい戦争で、最終的に「戦略的に勝った」戦争であった。「戦後には、政権が勝ち、人民は負けた」との文句があるが、これはベトナム戦争勝利の果実を体制側が独占し、人民には持たらされなかったことを意味するのだと思われる。

(3)トゥオンは、自分たちがベトナム戦争で戦った成果で守るべきものは「独立、統一」であるとし、特定の政治体制だとはいっていない。そして後の世代の課題は「領土の保全」だとしている。この発言には、2014年の石油リグHD981事件が意識されていることは間違いない。ちなみに、インタビュイーたちは、南ベトナム政権をこれまでのように「傀儡政権」とは言わずに、「ベトナム共和国」と言っている。これも2014年以降の変化の一つである。

(4)ルック、ヴィエット、ザインの話に見られるように、中越戦争は1979年だけの戦争とは捉えられていない。
                             (了)


 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?