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Ⅰ-15. クアンビン省における草の根のベトナム戦争:合作社、民兵、基層幹部

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(15)
★2010年3月3日~10日:ハノイ市、クアンビン省

今回の記事は、旧北ベトナムの最南端であるクアンビン省で実施した元民兵等への聞き取り調査をまとめたものである。

0.はじめに:民兵とは何か


現在、ベトナムの軍隊は、主力部隊(正規軍)、地方部隊、自衛民軍(以下、民兵と略す)の大きくは3種類に分けられている。ベトナム戦争期では、解放勢力側にはこれらの軍隊のほかに、準軍事組織の青年突撃隊、軍事物資輸送などのための緊急動員組織「民工火線(最前線民工)」などを編成し、多様な戦争動員体制を構築していた。

そのうち民兵は基層の社(xã)レベル(行政村レベル)で組織され、地方の共産党(当時は労働党)支部・政権の指導の下、通常の労働に従事しつつ、地方の治安維持と防衛を担当した。民兵は「人民戦争」の戦略的勢力だとされ、ベトナム戦争後もその組織は一応維持されている。今世紀に入ってからは法制化も進められている(「自衛民軍」法令2004年、その後の「自衛民軍」法2009年)。

民兵はベトナム戦争において基層の人民レベルで戦争の遂行を担ってきた存在であり、我々のベトナム戦争のイメージの中で「ゲリラ」として強烈な印象を残しているのもかかわらず、その実態についてはあまり明らかにされていない。民兵の実態を明らかにしなければ、下からの視線のベトナム戦争を描くことはできない。本稿はその欠落を若干でも補い、ベトナム戦争の「人民戦争」性の一端を解明しようとするものである。

1.調査地とインタビュイー


今回の調査地のクアンビン省は、ベトナム戦争中、旧北ベトナムの最南端の省で旧南ベトナムと軍事境界線を接しており、地上戦こそなかったものの、米軍の空爆による「破壊戦争」が熾烈に展開され、民兵の活動が盛んだったところである。同省は、東には南シナ海に面した海岸線が走り、西はラオスと国境を接し、最も狭い所でラオス国境から海岸まで約60キロしかない。南北には幹線道路の国道1号線が貫いている。同省はホーチミン・ルートの起点の一つとも考えられ(現在はゲアン省とする考えが有力)、ベトナム戦争中にホーチミン・ルートの建設やそこでの輸送任務等に従事した人が多く、ベトナム戦争期の青年突撃隊の隊員数はタインホア省、ゲアン省に次いで全国第3位である。

2010年3月3日に渡越し、ハノイ市に。翌日午前、ハノイから飛行機でドンホイ空港へ。タクシーでドンホイ市内のクアンビン省人民委員会および同省退役軍事会を訪問し挨拶。午後、同省のほぼ中央に位置するボーチャック(Bố Trạch)県に向かう。同県には世界自然遺産のフォンニャ・ケバン洞窟がある。同県の退役軍人会に挨拶して、早速、聞き取り調査を始める。宿は同県のゲストハウス。

聞き取り調査をしたのは、同県のフンチャック社(xã Hưng Trạch)、フーチャック社(xã Phú Trạch)、ハイチャック社(xã Hải Trạch)の3か所である。この3社は隣接しており、フンチャック社とフーチャック社は農業(主に米とキャッサバを栽培)を主要な生業としており海岸から1キロほど離れている。ホーチミン・ルート建設で有名な第559団はフーチャック社に長期間駐屯していた。ハイチャック社は砂地の浜辺にあり、漁業が主な生業となっている。

今回のインタビュイーは15人。フンチャック社在住が1人、フーチャック社在住が9人、ハイチャック社在住が4人(番外でソンチャック社在住が1人)である。15人中、11人が元民兵である。あとの4人はいずれも社レベルの活動経験が長い人物である。男性が12人で女性が3人。最年長は1926年生まれ、最年少は1950年生まれである。軍隊経験者は男性の2人(抗仏戦争期。最終階級が中尉と中士)。

2.「破壊戦争」が熾烈だったクアンビン省


クアンビン省は旧北ベトナムの最南端であった。ホーチミン・ルートの起点とも目され、北から南の戦場に行く部隊は、ここで軍装を補充し、北の軍装は送り返して南に持ち込まないようにし、「人民軍隊」から「南部解放軍」に変身した。軍事物資の輸送は国道1号線で北からここまで運び、さらにここからホーチミン・ルートへ運ぶものが多かった。またベトナム国土で最も横幅が狭く、海岸からラオス国境まで60キロしかない国土の臍で、ここを攻撃すれば南部へのルートを遮断・扼殺することができた。

このような地理上の要衝であったため、北爆の重要攻撃目標の一つで、米軍やサイゴン政府軍との地上戦はなかったものの、海からは米艦船による艦砲射撃、空からは米軍機による爆撃が激しかった。フンチャック社のズオン(男、1936年生まれ)によれば、数万トンの爆弾が投下され、一人当たり平均400~600発にものぼった。一度に多数の死者がでて、棺桶用の板が足りなくなったこともあった。同社では戦場での死傷者をはるかに上回る死傷者が爆撃によって生じた。フーチャック社は抗仏戦争期(1946~54年)には鬱蒼とした森におおわれていたが、爆撃によって森は失われた。

当地での「破壊戦争」は1964年から始まった。1964年8月5日午後、米爆撃機が初めて当地に襲撃してきた。初日は爆撃せず威嚇だけだった。翌日、タインケーを爆撃し、最初の犠牲者が7人出た。66年に戦争は激しくなり、67年にピークを迎えた。67年に当地では多くの幹部が犠牲となり、毎晩爆撃があり、海上からの砲撃もあり非常にこわかったとクイ(男、1935年生まれ)は語っている。67~68年にフーチャック社はホーチミン・ルート建設で有名な第559団の食糧備蓄区になっており、ホアック(男、1926年生まれ)の家には司令官ドン・シー・グエンの避難壕があった。タン(男、1935年生まれ)によれば、ベトナム戦争中、当時のフーチャック社の人口の約10%にあたる200人以上の住民が「破壊戦争」で死亡した。

1964年からの「破壊戦争」(第一波は1964~68年。第二波は1972年4月~10月)中、ハイチャック社の住民は多くが避難し、民兵だけが残って臨戦態勢をとっていた。民兵は、夜は臨戦態勢で、昼は山の方に避難した。女子ども・老人は5~7キロ離れた山間部に疎開した。ハイチャック社では1967年から、フーチャック社では68年から、子どもたちをタインホア省のK8に疎開させた。ホン(女、1945年生まれ)はフーチャック社が組織した2度の子どもたちのタインホアへの疎開を引率した。そこの受け入れ家族はそれぞれ1人の子どもを預かった。受け入れ家族には疎開してきた子ども分の米が国家から配給された。

聞き取り調査で非常に印象的だったのは、戦争中にほとんどの人が家を何度も焼かれたと語っていたことである。クイ(男、1935年生まれ)にいたっては爆撃による火事で家を7度建て直したという。フーチャック社には「山場隊」という組織があり、木材を切り出し、防空壕、家屋、学校の建築をおこなった。人々は家を何度焼かれても家を再建した。それを支える地域の仕組みがあり、民兵もその重要な一翼を担っていた。

3.合作社とベトナム戦争


旧北ベトナムでは1958年から農業集団化が始まり、60年代初には基本的に合作化が完了し、60年代末までには合作社の大半が高級合作社化していたとされる。合作社の形成されてきた時期はほぼベトナム戦争が開始され激化した時期と重なっており、合作社は人員・物資の供出において戦争遂行に大きな役割を果たしてきた。クアンガイ省ボーチャック県の3社における合作社と戦争との関わりの様子を以下ではみていきたい。

(1)フンチャック社

ズオン(男、1936年生まれ、元社人民委員会主席・社隊長)によれば、ベトナム戦争中、同社は米の収穫量が年に約900トンあり、毎年の国家への納入義務が300トン、さらに奨励分が100トンで合計400トンを納め、残りの500トンを社の人々で分配した(一人当たり平均で1か月に米5~7キロだった)。この供出を実際に担当したのが農業合作社である。フンチャック社では1968年に社全体が一つの合作社(高級合作社)になった。生産は4つの区域に分けられ、それぞれに生産隊があった。各生産隊は防空壕をもち、「田んぼを放置せずに生産し、着弾痕を放置せず土地を最大限に活かす」がスローガンに掲げられ、激しい爆撃下でも耕地を荒らさなかった。それは住民の生活を支えると同時に、戦場に食糧を供出するためでもあった。

民兵たちは農業合作社の労働点数制度で生計をたてていて、民兵としての給料や労働点数が出ていたわけではなかった。ただフンチャック社では臨戦態勢の時は1日につき12~15点の労働点数がついた。もし民兵の家族が一人当たり1か月米15キロの分配に満たなければ、合作社が補助して「調節」し、規定量を満たすようにした。タン(男、1935年生まれ、元社人民委員会主席・社隊長・社党委書記)によれば、フンチャック社では民兵が道路補修するのも労働点数に勘定されたが、自分のフーチャック社では労働点数に加算されていなかったという。このように労働点数の付け方は合作社により若干の違いがあった。

(2)フーチャック社

フーチャック社は1960年に合作社を組織し始めた。ホン(女、1945年生まれ、女性民兵)の家が合作社に加入したのは62年であった。同社では68年に高級合作化した。「籾は1キロも不足なく、軍隊は1人の不足もない」というスローガンにより、戦争中の物資と人員の供出が促された。同社では畜産が盛んではなく、豚を国家に納入する義務はなかったとタン(男、1935年生まれ)は述べている。

フーチャック社でも民兵たちは農業合作社の労働点数制度で生活していた。出征兵士の家族等を支援する制度もあった。兵士の家族、戦死者の家族にはその分の労働力が失われているため、労働点数に応じた分配だけではなく、国家から若干の現金の支給があり(1か月数ドン)、合作社は食糧等を定量で当該家族に配給した。これは「食糧調節」と呼ばれていた。「食糧調節」では、配給を受ける時にはその代金を支払わなければならなかった。当該家族は現金を十分には所持していない場合が多く、通常は合作社がそれを負担した。エム(男、1923年生まれ、元社党委書記・社人民委員会主席)の家は出征兵士の家だったので、「調節」すなわち定量の配給を受け、各人が米・雑穀毎月13キロの配給を受けた(実際には米は4・5キロのみであとは乾燥イモ、キャッサバ)。布は毎年4メートルで1年に2着の服がつくれる量であったが、実際は品薄で必ずしも買えるとは限らなかったという。

民兵にはそれ自体としての給料はなく、生計は合作社の労働点数制度に依拠し、ふつうは自宅で食事をし、制服の支給もなかった。当時、米は十分にはなく、混ぜご飯を食べた。衣服も不足していた。布の配給はあったが、人民にはめったに回ってこず、幹部優先だった。タン(男、1935年生まれ)は社隊長だったが当初給料はなく、後に7ドンほどが出るようになった。ホアック(男、1926年生まれ、元社党委書記・社人民委員会主席)によれば、当初、社の幹部には給料はなく、高級合作社が成立後に給料が7.2ドンでるようになったという。

ホン(女、1945年生まれ、女性民兵)が「民工火線」で動員された時には、食事は支給されたが、衣服の支給はなく、給料もなかった。帰る時に栄養剤若干と任務完遂証明書をもらっただけだった。

ブオン(男、1933年生まれ、民兵)は、国は正規軍を優先していたので、民兵は武器を除いて自給自足だった、と語る。日々、臨戦態勢で家に帰れないことが多く、農業や家のことは妻に任せきりで、労働点数もそれほど稼ぐことができなかった。そのためブオンの家では米が不足し、イモやキャッサバを食べた。合作社による「調節」の補助がなければ飢えていたという。クイ(男、1935年生まれ、民兵の中隊長)は民兵中隊と一緒に集団生活をした。自分の家の食料を持って行って食べた。不発弾処理の時も手弁当でやった。

エム(男、1923年生まれ)は次のように述べる。「バオカップ(国家丸抱え)制度を現在の我々は批判するが、戦争中はバオカップ制度がなければ、問題を解決することはできなかった。なぜなら全ては合作社が処理するのに依拠していたからで、棺桶から家屋までみな合作社が配慮した。合作社は生産を組織し、負傷兵・戦死者の家族や南部出征兵士の家族を支援する役割を果たしていた」。

(3)ハイチャック社

ハイチャック社は漁村で稲田がなく、主に漁業と輸送業で生活していた。食糧は国家から配給され、各家庭は米穀通帳により購入した。ルム(男、1928年生まれ、元合作社主任・社党委書記)によれば、同社では1958年に村(thôn)レベルの3つの漁業合作社がつくられた。61年には社(xã)レベルの高級合作社になり、ルムが主任となった。その漁業合作社は船を30~40隻所有し、社員家族は300戸以上あった。ハイチャック社にはそのほかに商業合作社、手工業合作社、輸送合作社、信用合作社があったが社員数は少なく、漁業合作社が一番大きかった。どの合作社にも属していない「個体戸」もごく少数あった。これらの世帯は「バオカップ」を受けられず、子弟は入党・入団(青年団)はできず、進学も困難だった。

ハイチャック社の漁業合作社は漁獲量が少なく、社員の稼ぎだけで食べていくのは困難だった。食糧不足に苦しんだハイチャック社は隣のフーチャック社から土地を借り、キャッサバ、イモなどを栽培し、それで漁民たちはようやく飢えないですむようになった。ハイチャック社は米、豚、鶏を国家に納入しないかわりに、海産物の水揚げの70%を納入しなければならなかった。残りの30%を社の人々で分配した。漁業合作社での女性は、2つの仕事班に分かれた。1つは魚網づくり。もう1つは製塩で、若い人はたいてい製塩に従事した。毎年、50~60トンの塩を生産して、南の戦場に送った。

ハイチャック社での海運による輸送業は抗仏戦争期から存在し、その頃は40~50トンの船をもち、抗仏戦争に服務するため南部から米を輸送した。抗仏戦争後、輸送合作社ができ、ハイフォンとクアンビンの間で石炭、セメントなどの輸送をおこなった。ベトナム戦争期、輸送船が40~50トンと大きくなると攻撃目標となり、合作社員は乗船しなくなった。機雷への恐れもあった。それで攻撃されないように船を10トン以下に小型化し、業務は南の戦場への物資供給のためのハティンとクアンビン間の輸送が主になった。

ハイチャック社の民兵は、漁業合作社の労働点数に応じた分配によって生活していた(「調節」があったかについては不明)。トー(男、1940年生まれ、元社青年団書記)によれば、民兵は臨戦態勢や道路補修の時も食事・道具は自弁で、手当はなかった。ドン(女、1947年生まれ、民兵の中隊長)も、民兵は通常は自宅で食事をしたが、敵の攻撃が激しい時は集団で食べることもあったという。しかしご飯は自弁だった。衣服も自弁で武器以外に国家が支給したものはなく、手当も受け取っておらず、まさに「至公無私」だった。

以上でみてきたように、ベトナム戦争中、合作社は人員と物資を動員することに関して素晴らしい能力を発揮した。人々の生計は基本的には合作社員としての労働点数に応じた分配に依拠していた。ただ、働き手を戦場にとられた出征兵士等の家族に対しては特別の分配制度があり、それは合作社が負担した。民兵はほぼ無給で働いたが、民兵にも合作社からの「調節」等の補助もあり、最低限の生活は保障されていた。その一方で合作社は、国家による強制買い上げ制度の過重負担、深刻な労働不足、出征兵士等の家族や民兵への支援負担、日増しに肥大化する非生産部門への分配などによって疲弊することにもなった。

4.民兵の組織と活動


ベトナム戦争中、各社(xã)には民兵組織である社隊が設置されて、社の防衛にあたったり、戦争に服務したりした。

(1)フンチャック社

フンチャック社では4つの村(thôn)にそれぞれ民兵大隊があり、2つの射撃隊があった。1つは地上砲の射撃隊で3門の地上砲を擁していた。もう1つは12.7mm高射機関銃の射撃隊で、3つの射撃班があった。射撃手は当初男性だけであったが、後に女性も加わった。同社には幹線道路・橋の近くに3つの陣地があった。敵が投下したパイナップル爆弾やグアヴァ爆弾はとても危険だったという。同社では工兵隊を組織して、不発弾処理をし、農民が耕作できるようにした。

(2)フーチャック社

人口規模がフンチャック社(人口1万959人、2010年)の半分足らずのフーチャック社(人口3988人、2010年)では、集落(xóm)ごとに小隊、村(thôn)ごとに中隊(約30人)が編成され、3村で3中隊(11小隊)の約100人の民兵がいた。民兵になるのは18歳以上で男女を問わなかった。民兵の40%は女性で、男性民兵の多くは既婚の妻子持ちだった。40歳以上の人もいた。

ティー(女、1944年生まれ)は1962年から民兵になった。まだ「破壊戦争」は始まっていなかったが、社では臨戦態勢をとり、組織を編成した。ティーは社副隊長を66~69年に務めていたが、社隊の司令部は3人(隊長1人、副隊長2人)だけで、副隊長の1人は人員管理、もう1人は政策工作(厚生福利工作)を担当した。副隊長として彼女は、負傷兵・烈士の家族と出征兵士の家族の慰問をした。戦闘では党委員会が民兵を指導し、民兵が臨戦態勢をとる場所も党委員会が指導した。党委員会が最も重要であった。

1964年になると社は民兵に1丁の銃と2個の手りゅう弾を支給した。射撃は社隊の幹部が県隊に学びに行き、帰って社の民兵に撃ち方を教えた。民兵は毎年、社隊から訓練を受け、銃と弾が支給された。ティー(女、1944年生まれ)によれば、武器は社隊幹部にはK53、一般民兵にはK44かCKCが支給され、多くはK44だった。中隊は週に一度点呼があった。民兵には3つの任務(戦闘、戦闘服務、生産)があり、民兵たちは臨戦態勢にある隊以外は、「手に鍬、手に銃」でどこにいても銃を携行し、戦闘機が襲来すれば撃ち、敵がいなくなれば生産に戻った。

ホン(女、1945年生まれ、女性民兵)は、昼は生産して、夜は海岸の巡回をした。銃は家に持ち帰って手入れした。1962年から頻繁に臨戦態勢がとられていた。64年8月5日から米軍機が襲来するようになり、防空壕をつくる運動が始まった。

エム(男、1923年生まれ)によれば、時にパイロットの顔が見えるほど超低空で飛んでくる敵の爆撃機を狙って民兵が手持ちの銃で撃ったのは、撃墜するためというよりは士気を鼓舞するためであった。

戦闘任務は、海岸と爆撃機への臨戦態勢の2つだった。民兵は、①海岸警備隊、②戦闘機動隊、③緊急救助輸送隊の3つから成っていた。海岸警備隊の民兵は昼に生産し、夜は海岸の警備・巡回をした。毎晩3小隊が海岸警備にあたり、ハイチャック社からタインチャック社までの海岸線を担当した。

戦闘機動中隊は36人おり、日夜12.7mm高射機関銃で爆撃機を迎撃した。12.7mm高射機関銃などの武器は県が支給した。ズン(男、1941年生まれ、民兵小隊長)によれば、フーチャック社に12.7mm高射機関銃がもたらされたのは1967年8月からで、2丁配置された(ボーチャック県全体で12丁、各社2丁)。後にドン・シー・グエン第559団司令官から2丁供与されて4丁に増えた。12.7mm高射機関銃は4人1班で、社では社隊副隊長が指揮した。ブオン(男、1933年生まれ、民兵)の班は、1967年か68年の10月15日に敵機F111を撃墜した。褒美として服一着と帽子、靴と数キロの米と豚肉が授与された。また12.7mm高射機関銃の戦闘隊以外にも、重機関銃火力大隊1つもあった。

戦闘機動中隊のもう一つの重要な仕事が爆弾・地雷処理だった。敵は磁気地雷を多数投下した。放置したままだと農業に支障がでるので、不発弾処理班が結成された。クイ(男、1935年生まれ)ズン(男、1941年生まれ、民兵小隊長)は不発弾処理班の班員だった。処理班は観測小屋で投下された爆弾と爆発した爆弾の数を数えた。不発弾処理に出かける前には、格別なご馳走を食べ、生前葬をして処理作業に臨んだ。磁気地雷処理で1人が亡くなった。

緊急救助輸送隊は、人々を避難させ、防空壕や道路が破壊されれば救助や補修に赴いた。爆撃による負傷者・死者がでれば手当をしたり、搬送して埋葬した。緊急救助輸送隊は村(thôn)ごと、青年団ごとに組織され、村長がその村の中隊長となった。敵は正確に幹線道路を爆撃してきたので、緊急救助輸送隊は、突貫で道路を補修し、住民の家屋から剥がして資材を調達することも頻繁にあった。住民は軍隊や省の命令で「車を通すために、家を惜しまない」のスローガンを実行し、家屋を取り壊してその資材で道路や橋を補修した。エム(男、1923年生まれ)の村では3軒の家のレンガを取って、着弾痕を埋め、道路を通行可能にした。

ティー(女、1944年生まれ)によれば、野良仕事の時、民兵は家事をするため1時間早く帰ることが認められていた。青年突撃隊と違って、当地の民兵に夜間の学習はなかった。空襲のため、夜間に灯りをつけることができなかったからである。

(3)ハイチャック社

「破壊戦争」が始まると、それまでの「生産と戦闘」から「戦闘と生産」へと重点が戦闘に移った。ハイチャック社では「手に網、手に銃」がスローガンに掲げられた。同社では民兵だけが居残り、ほかの住民は疎開した。住民が疎開した時、女性民兵が無償で運搬を担当した。

ルム(男、1928年生まれ、民兵小隊長)によれば、ハイチャック社では民兵は3つの主要部隊に編制された。第1中隊は臨戦態勢につく任務をもった。第2中隊は生産を重視し、夜に海岸警備をした。第3中隊は道路の防衛・補修で、女性が中心だった。青年団員は全員民兵になった。社隊委員会の中に青年団も組み込まれていた。青年団は2つの「船団」を組織し、海上輸送を担った。民兵の約40%は女性で、最年少は16歳だった。

ドン(女、1947年生まれ)は女性ばかりの中隊の隊長だった。人数は42人いて、3つの小隊から成っていた。抗仏戦争期の復員兵で40~45歳の人も25人ほどいて、なかには民兵中隊の隊長・副隊長になった人もいた。ディエット(男、1933年、復員兵)は漁業合作社事務所の民兵の小隊長だったが、小隊には県から支給された4・5丁のK44があった。「破壊戦争」が始まった直後はまだ12.7mm高射機関銃はなかった。戦争が激化すると12.7mm高射機関銃が配備され、戦闘機動中隊に防空小隊が付け加えられ、中隊は50~60人規模になったという。

ドン(女、1947年生まれ)が中隊長をつとめる隊の任務は輸送と道路補修、着弾痕の埋め立てで、戦闘中は弾薬の運搬、負傷兵の搬送などもおこなった。道路補修などはシャベルと鶴嘴だけの手作業で機械はなかった。道具も自弁だった。夜は銃をもって海岸を巡回した。昼間は爆撃が少なく、製塩作業に従事することができた。

「車が通るまで、家は惜しまない」「道が通るまで、血や労力を惜しまない」のスローガンの下、道路の補修や防空壕をつくるために人民の家屋等を壊して資材を調達することがしばしばおこなわれた。ドン(女、1947年生まれ)の民兵中隊は、120軒の家を壊して木材と石を調達したことがあった。爆撃を受けた寺院やディン(亭)もそのために利用された。ルム(男、1928年生まれ)も同じく、120軒の家屋を壊して資材を調達したことがあったという。トー(男、1940年生まれ)も、道路補修のため47軒の家屋を取り壊し、防空壕をつくるために77軒から資材を借用したことがある。ディエット(男、1933年生まれ)の家も資材の調達対象となり、家の建材を社に貸与し、社の幹部から借用書(1967年11月24日付け)を書いてもらったが、いまだに返してもらってないとぼやき、その借用書のコピーを私にくれた。

青年団の民兵は、約20キロ沖のホンラ島まで支援米を積んで来ていた中国船3隻から米を荷揚げする任務を引き受けた。荷の積み替えを妨害する米軍機や米艦船の攻撃は激しく(米軍は中国船には攻撃せず、接近するベトナム船を攻撃)、しかも磁気機雷が敷設されていたので、任務遂行はきわめて困難であったが、なんとか支援米の回収率を上げることができた。クリスマス停戦の直前に武器や物資をたくさん輸送するのを敵は知っていて、停戦前にルートを遮断しようと爆弾や機雷を激しく投下してきた。

以上みてきたように、党委員会の指導の下、民兵は各社で集落・村ごとにきちんと組織化され、女性が半数近くを占めた。任務は防空、海岸警備、輸送・交通ルートの確保が主で、武器は国家から支給されたものの、民兵はほとんど手弁当で任務を遂行した。また住民は道路・橋等の補修で自らの家屋を壊してまで建材・資材を提供した。こういった住民の驚くべき献身によって「人民戦争」は支えられていた。

5.基層幹部と文化補習


ベトナム戦争の遂行にあたって、軍事面での人民武装勢力の整備、経済面での合作社化とならんで行政面での改善も図られていた。それを端的に示しているのが、基層幹部の教育水準の向上である。華々しい戦闘に比べると目につきにくいが、ベトナム戦争中、社幹部や民兵幹部といった基層幹部たちの教育水準の底上げが徐々に進んでいた。

抗仏戦争期の成人向け識字学級である「平民学務」学級の教員だったビン(男、1926年生まれ、社の文芸委員長、編成外の教員)によれば、ボーチャック県では平民学務運動が盛んで、当地の3つの社で非識字者一掃を競い、フーチャック社が一番よい成績を収めた。平民学務運動が一段落つくと、文化補習工作(教育水準が低い成人に一定程度の教育水準をつけさせる速成補習学級)に注力されるようになった。抗仏戦争後、軍隊帰りの人は威信があり、エム(男、1923年生まれ、1947~58年に軍隊に在籍、中尉)のように社党委書記になる場合もあった。エムは未就学であったが、平民学務運動でビンの指導の下、熱心に勉強した。エムが社党委書記になった時、毎週木曜日と日曜日に社幹部は執務をせず、文化補習にあてた。それほど当時の社幹部の教育水準は低かった。フーチャック社では、平民学務運動から文化補習工作まで熱心に取り組んだので、合作化運動が始まった時、党委員以上の社の幹部はすべて小学校卒業程度以上になった。中学校卒業程度が出始めたら戦争が激しくなったので、小さなグループごとに文化補習が継続された。

フーチャック社のホン(女、1945年生まれ)は文化補習学級で7年生まで履修した。クイ(男、1935年生まれ)は子どもの頃、学校にはほとんど行かなかった。1960年に社の幹部になったが、字を読み書きできなかったので、61年から文化補習学級に派遣された。県で3年間、省で2年間、在職しながら勉学した。文化補習学級で8年生レベルまで履修した。勉学期間中も社に帰ってくると民兵に参加した。

ハイチャック社のルム(男、1928年生まれ)は父親が早世し、弟たち5人を養うため学校には行けなかった。社の幹部になる時、文化補習学級で3年生レベルまで学んだ。

以上みてきたように、ベトナム戦争中に社幹部の教育水準は文化補習によって底上げが進んだ。軍隊では士官に昇格させうために教育水準の低い人に対して文化補習をおこなったが(Ⅰー12. のクアンガイの記事を参照)、社幹部・民兵幹部に対しても公費によって文化補習を実施し、幹部の能力の改善をはかった。このようないわば「大衆教育」に対して北ベトナムは南ベトナムよりはるかに注力していたように思われる(エリート教育においては南は同等以上だった?)。

6.おわりに


軍隊史や党史、外交史の観点からのベトナム戦争史は数多くあるが、人民からの目線の戦争史はまだ少ない。本論もその試みの一つであるが、今回の調査を通してあらためて人民が負担させられたものの大きさを痛感させられた。ベトナム戦争中、武器こそ国家から支給されていたが、3社の住民は民兵としての労力や家財をほぼ無償で提供し、合作社の生産物のかなりの割合も国家に供出した。

ではどうしてそのような動員が可能になったのだろうか。あまりに激しい爆撃を受けたために、住民は単独では生きていけず、地域の人々と一緒に生活していくしか他に道がなく、体制への同調性が高まったことがその一因であろう。そのような状況の中で、共産党(当時の労働党)は巧みに「抗米救国」の宣伝工作を展開し、「バオカップ」制度を通して国家権力を基層社会まで浸透させようとした。国家と基層社会はもたれ合って存在していた。人々は国家のために献身し、国民化した。戦争という環境の下で、この「バオカップ」制度や民兵の生活を支える中核となっていたのは合作社であった。

今回のクアンビン省でのベトナム戦争に関する聞き取り調査における「戦争の記憶」の特徴は、戦闘が米軍に対するものに限られ、サイゴン政府軍との戦いがほとんどなかったことである。ベトナム戦争の記憶に関して、南北の「兄弟殺し」の記憶は抑制され矮小化される傾向にあるが、北の民兵の記憶はより「抗米救国」性をくっきりと浮かび上がらせるものとなっている。フーチャック社は、私たちの調査の数年前にアメリカからのミッションが訪れようとした時、反対デモが発生しており、まだ反米感情が根強いという。しかし現在(2023年)では反米感情もかなり希薄になったのではないだろうか。

3月7日(日)午前、オートバイを借りて、相棒のバイ氏の運転で、ホーチミン・ルートの起点と目されるところに行く。さらに、フォンニャ・ケバン洞窟に行く船着き場へ。その近くに青年突撃隊の記念碑(見出し画像)と記念館があり、見学。さらにそこから約18キロジャングルに入ったタム・コー洞窟へ。ここは青年突撃隊の8人の女性隊員が1972年11月14日に爆撃の犠牲となったところである。

3月8日に聞き取りを終了。9日、ゲストハウスをチェックアウトし、タクシーでドンホイ市に向かう。同市でクアンビン省退役軍人会主席を表敬。主席の車をまわしてもらって、ドンホイ市郊外にある「戦争博物館村」を見学。ここは個人でやっている民間の博物館で、自然を活かして戦場に擬した広大な敷地の博物館である(2023年時点で開館しているか不明)。同日午後、ドンホイ空港からハノイ市へ。翌10日、帰国。

残留日本兵のお墓

残留日本兵の日本人のお墓

3月9日、ボーチャック県からドンホイ市に行く途中、バーゾック烈士墓地(Nghĩa Trang Liệt Sĩ Ba Dốc)にある日本人のお墓にお参りする。名前はレ・チュン(Lê Trung)で軍医、日本国籍、1948年10月1日死亡と墓碑に記されている。日本名はない。この人物についての記事が『人民軍隊』2013年8月30日付の記事「ドンホイ市バーゾック墓地の日本人烈士(Liệt sĩ người Nhật ở Nghĩa trang Ba Dốc - Đồng Hới)」にある。

qdnd.vn/quoc-phong-an-ninh/xay-dung-quan-doi/liet-si-nguoi-nhat-o-nghia-trang-ba-doc-dong-hoi-44037

この記事によるとまだ日本名が判明していないとのこと。



★今回の聞き取り調査については、以下の拙稿を参照していただければ幸いです。
拙稿「『手に鍬、手に銃』、『手に網、手に銃』ー旧北ベトナム・クアンビン省の元民兵たちが語るベトナム戦争ー」『東京外国語大学論集』第84号、2012年
repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/70856/2/acs084016_ful.pdf




























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