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Ⅰー19. フイン・タン・ファットの長男にインタビュー:ビンフオック省(後編)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(19)
★2011年5月16日~6月3日:ハノイ、ホーチミン市、ビンフオック省、ホーチミン市

はじめに

今回のビンフオック省での聞き取り調査のインタビュイーの中に、ベトナム戦争中の南ベトナム民族解放戦線・副主席兼書記長で、1969年には南ベトナム共和国臨時革命政府主席に就任したフイン・タン・ファットの長男フイン・ティエン・フン(Huỳnh Thiện Hùng)氏(見出し画像の右から二人目。フン氏の自宅にて)がいた。後編では、彼へのインタビューを少し詳しく紹介する。

フイン・タン・ファット(1913ー1989)
南ベトナム共和国臨時革命政府主席(1969ー1976)、ベトナム社会主義共和国副首相(1976ー1982)、同国家評議会副主席(1982ー1989)

(1)家族について

①父親のフイン・タン・ファット
父の故郷はベンチェー省ビンダイ(Bình Đại)県チャウフン(Châu Hưng)社。父は、南ベトナム共和国臨時革命政府主席で、1976年以降、ベトナム社会主義共和国の閣僚評議会副主席(副首相)や祖国戦線中央委員会主席などを務め、1989年にサイゴンで死去した。

②母親のブイ・ティ・ガー(Bùi Thị Nga)
母は元々はハノイの人だが、1925ー1930年頃、家族はフランスの労働者募集で南部に移住してきた。母は教員をした後、抗戦に参加し、知識人工作に従事し、何度も投獄されたが、活動を継続した。1975年の後、ホーチミン市祖国戦線の副主席を務めた。2002年に死去。

③自分について
1946年12月生まれ。6人兄弟。1954年、8歳の時に、北部に「集結」。母から父は北にいると言われた。当初は2年だけのつもりでいた。南部出身の生徒のための学校(ハイフォン市ドンチエウにあった)に通学。1965年末、中央統一委員会は、南部に出征する手続きをするように広く求めた。そこで私は、親代わりになっていたファム・ゴック・タック(Phạm Ngọc Thạch)医療相を通して、当時北部にいたファム・フン(Phạm Hùng)に手紙を送り、自分の意向を伝えた。
身体検査は問題なく、1966年1月29日に入営した。水雷の専門小団である第506中団・第738特種工兵小団に配属になった。10か月訓練を受けた。1966年10月9日に南部に向けて出征した。同月、入党した。2007年3月に退役するまで軍隊に41年間いた。党歴は現在、43年。

妹のフイン・ラン・カイン(1948-1968, Huỳnh Lan Khanh)写真の前方中央

④妹のフイン・ラン・カイン(Huỳnh Lan Khanh)
1948年生まれ。妹はまだ小さかったので、ジュネーブ協定後に北部へ「集結」せず、南部にとどまった。1964年に高校を卒業すると自ら革命に参加した。英語と仏語が堪能であったので、外国人ジャーナリストのバーチェットなどの通訳をした。1968年にカンボジア国境戦線で米軍に捕まり、ヘリコプターに乗せられてまもなく飛び降りて亡くなった。2・3日後に遺体が発見された。後に彼女の名前は、ホーチミン市タンビン区の通りの名前となった。父娘2人がホーチミン市の通りの名前になっている。

⑤3番目の弟フイン・ヴェ・クオック(Huỳnh Vệ Quốc)
彼も北部に「集結」せず、南部にとどまった。サイゴン政権に徴兵され、トゥードゥック(Thủ Đức)の士官学校に入った。後勤士官としてビエンホア飛行場で勤務。1975年後、サイゴン軍の准尉だったので、3日間、改造学習へ。その後、大学で学び、原子力研究所に勤め、現在は退職している。

⑥4番目の弟フイン・ミン・トゥアン(Huỳnh Minh Tuấn)
1963年に越境してカンボジアに行き、飛行機で中国を経由してハノイに行った。北部の南部生徒対象の学校で勉学した。彼は南部行きを望んでとても煩悶していたので、1973年にグエン・ティ・ディンおばさんが彼女の団と一緒に南部に帰らせてくれた。1975年後、ベンゲー港管理者の補佐をして、現在は退職。

⑦5番目の弟フイン・スアン・タオ(Huỳnh Xuân Thảo)
1963年にトゥアンと一緒に北部に行き、南部生徒対象の学校で学ぶ。その後ソ連に留学し1976・77年頃に帰国。ホーチミン市科学技術研究所に現在も勤務している。

⑧6番目の弟フイン・ヴィエット・ズン(Hùnh Việt Dũng)
小さい頃は2人の叔母と暮らし、大学にも行った。1980年に唆されてオーストラリアに渡り、癌で亡くなった。

⑨2人の叔母
両親は革命に参加していたので、子ども達は祖母と2人の叔母(母の妹)に預けられた。この2人の叔母は今もサイゴンに健在。2人は未婚で、私たち兄弟を育てるのに明け暮れた。私たち兄弟は2人の叔母を第二の母とみていた。トゥー叔母さんはフランス国籍をもち、フランス大使館で働いていた(私の母も同意。そうしないと子どもを預けられなかった)。その夫は中士から中佐の時まで、わが家族を監視していた。フオン叔母さんは何年もの間、在ドイツのサイゴン政権大使館の書記官を務めた。1976年に「情報英雄」である夫と共に政府によって帰国が認められた。フオン叔母さんはホーチミン市国家図書館に勤務し、現在は退職。

フイン・ティエン・フンの家族は両親が解放勢力側の大幹部であったが、空間的そして政治的に分散・分裂した状況にあったといえる。それは戦争・革命のさなかで家族を保持していくすべであった。なお、父親のフイン・タン・ファットは南ベトナム民族解放戦線と南ベトナム共和国臨時革命政府の最高幹部であったが、北ベトナム(ベトナム民主共和国)の1946年選出の第1期国会議員であったこと、ベトナム民主党と共産党の二重党籍であったことを指摘しておきたい。

南ベトナム共和国臨時革命政府・事務所跡の交流館(Nhà Giao Tế)内部の展示(ビンフオック省ロックニン県)

(2)フイン・ティエン・フンの軍歴について

①入営からチュオンソン越えまで
上述したように、フンは1966年1月に入営した。第738特種工兵小団で訓練を受けた。特種小団は水雷を扱っており、水特攻の技能も身に着けた。その年の10月に南へ出発した。車でフーリー(Phủ Lý)まで行き、そこからは徒歩。クアンビン省、ラオス、チュオンソン山脈西部を通って中部高原のコントゥムに到った。そこからカンボジア国境、カンボジア国内のモンドキリ、「オームのくちばし」、そして1967年3月にタイニン省に入った。6か月かかったが、実質は4か月。

フンが行軍した頃はさまざまな武器を携行していかなければならず、背負う荷物は食糧や水もあり40~50キロととても重かった。第6軍区に着いた時には兵士は疲れ切っていた。疲労で亡くなる人もいた。
その後1968年以降、トラックが通行できるようになったこと、敵の歩兵がいないこと(特殊部隊はいたが)などにより、武器はトラックで運び、兵士は私装(自衛の銃を含む)と食糧だけを背負えばよく、兵士の体力消耗は減じ、行軍速度が上がった。それから弱って斃れた兵士がいる場合は、その兵士を駅亭に預けることができるようになった。

食事は2人につき3筒の干し肉、士官には朝鮮人参の顆粒数粒が追加された。敵の攻撃を受けたり雨の日に備えて、兵士には各人5包の栄養剤が配られた。疲れた時には効果的だった。
ラオスに入れば、食糧が補充されるといわれたが、そんなことはなかった。カンボジアに入ると、食糧を受け取ることができた。しかし蠅の卵のついた干し魚を食べて赤痢が発生したりした。兵士は空腹で行軍した。

道案内は少数民族の人が多かった。村から離れた道が多く、普通の生活が懐かしくなった。

フンの小団は特種小団だったので兵員は800人余りであったが、タイニン省に着いた時には100人余りになっていた。体力がなくなり途中で脱落した人が多かった。死亡者は11人だった。1年近く経って、脱落者も体力を回復し、帰隊してきた。
フンたちの前に、ハンガリーの銃を装備した中団が出発したが、こちらに着いた時には、兵士たちは体力が残っておらず、戦闘できる兵士は大隊規模しかいなかった。一年してようやく部隊は本来の姿に戻ったという。

②南部の戦場にて
1967年3月に南部に来て、フンは南部工兵参謀部第5室の偵察戦士となった。参謀部の地図作成に関わり、1968年のテト攻勢の戦闘には加わっていない。

南部における工兵は2つの段階があった。1967~1971年は、工兵も直接的に戦闘し、工兵の武器を用いて攻撃した。1972~1973年になると、味方には戦車や各種砲車が存在するようになり、工兵は道路建設に転じるようになった。
工兵の戦闘の特徴は、分散的で地方軍と一緒に戦うことが多く、大きな戦いはなかった。特攻と工兵は、中隊以上に党幹部の政治員がいた。

1968年のテト攻勢後、解放勢力側は大きな損害を被った。後退して再編すべきだったが、サイゴン周辺地域では攻勢が続けられた。1969年末、第525小団の第27大隊に配属になり、第4分区に入った。サイゴン包囲のために4つの分区がつくられ、第4分区は現在のロンタイン、ビエンホアになる。サイゴンまで30キロ余りで、激戦地だった。
敵は態勢を立て直し、1969~71年は非常に激しく反撃し、「索敵殲滅」で平定し、北からの補給路を絶とうとした。
解放勢力側の地方勢力は、主力軍が後退していたので、きわめて困難な状況に陥った。第4分区のゲリラも多大の損害を出した。タムアン(Tam An)、フオックグエン(Phước Nguyên)のように、社隊長と政治員と1人の兵士しか残らなかったところもあった。

1969年末・70年初、第7軍区参謀室の中隊政治員に。ロンカイン地区に駐屯した。戦闘の激しさはそれ以前ほどではなくなったが、補給がなく、食べる物に困った。緑豆と野菜(主には森の野草)で塩も薬品も不足した。この頃、夜の12時に敵の飛行機は伝単を撒き、拡声器で「死神か帰順か」と訴え、我々に精神的圧力をかけた。

1970年にカンボジアに渡り、大隊幹部クラスで4か月学んだ。

③ベトナム戦争終結後
1975年以降、ホーチミン市第8軍区の軍事指導委員会で仕事。1978~81年に中団の政治幹部養成の政治学院で学ぶ。中越戦争の時は小団の政治員を務めた。1981~87年は、第7軍区第476工兵中団の副政治委員、1987~90年は第7軍区新聞の総編集長兼宣訓室副室長。1990年1月~9月、第317師団の副政治委員。
1990年9月~91年6月まで、カンボジアに。ベトナム軍がカンボジアから撤退後(1989年9月)、友軍の被害が多かったため、党政治局の同意を得た上で、秘密団を組織し、率いた。友軍の指揮所の防衛が任務。1991年6月には国連軍が送り込まれてきたので、この秘密団は撤退した。フンはカンボジアから帰国した最後の軍人の一人。
1991年6月~2000年7月、第7軍区の軍事裁判所の裁判官。この時期、大学の法学部で学び、学士号を取得。2000年7月~2001年3月、第7軍区軍事学校副校長。2001年3月、第16兵団の政治副司令。2007年3月、退役。大佐。

(3)今の家族

以前の妻とは離縁。現在の妻はスティエン族の人(38歳)。この妻との間に1人の男の子。7ヘクタールの畑があり、カシューナッツ、ゴム、キャッサバを栽培。2サオ(南部サオ)の菜園をもっている。

以上が、フイン・ティエン・フン氏のお話の概要である。フイン一家について多少とも情報を補えたのではないかと思う。ただ、ベトナム戦争中の家族との交流、1975年のサイゴン解放時のお話などを聞き漏らしたのが残念である。2022年4月11日付け『人民軍隊』紙の電子版によれば(https://www.qdnd.vn/ban-doc/tin-buon/dong-chi-dai-ta-huynh-thien-hung-tu-tran-691319)、フイン・ティエン・フン氏は2020年4月9日、ビンフオック省ドンソアイ市の自宅で癌のため逝去した。享年75歳。

南部解放軍司令部の会議場。
ここでホーチミン作戦の最終的決定もなされたといわれる
(ビンフオック省ロックニン県)

(4)聞き取り調査中に見学したところ
聞き取り調査中、ビンフオック省内の参観もおこなった。
5月21日午前7時半、ドンソアイ市を車で出発し、9時半頃、ロックニン県にある南部武装勢力司令部軍事委員会基地(南部解放軍司令部)跡に到着。各司令官、副司令官の小さな家が点々として散在し、上記写真の会議場、そして展示館があった。
同日午後、同じくロックニン県にある「交流館」(臨時革命政府事務所跡)を見学。村役場程度の大きさ。その後、アンロック市に寄り、1972年に米軍の空爆で3000人が亡くなった墓地を訪れる。途中、見事なゴム園が続く。

投票所の様子。青いカーテンの中で投票用紙に記入する。
(ビンフオック省ドンソアイ市)

5月22日、この日は国会、省評議会、市評議会、坊評議会の選挙が重なっている日。午後、ドンソアイ市内のとある投票所に行った。相棒のダイ氏が不在者投票をするためだ。彼はハノイ市の有権者だが、国会議員の選挙については当地でも投票できるとのこと。いずれも定員より2名多い立候補者がおり、投票用紙は立候補者の名前がすでに記載してあり、不可の立候補者名に線を引く方式。投票時間は朝7時から夕方7時までとなっているが、午後3時過ぎには投票率がほぼ100%になり、驚くことに3時半には開票が始まっていた。一党支配体制だからこそ、投票率にはこだわらなければならない。

5月24日、フオックロン市に向かう途中、トゥアンフー(Thuận Phú)とフージエン(Phú Riêng)に止まり、記念碑を撮影。
なお、ドンソアイの市内で黄色の袈裟を着た托鉢僧を2回見かけた。ベトナムでは公道での托鉢は認められていたのか?

浄土居士仏会本部の入口

5月27日、ドンソアイ市よりホーチミン市に戻る。ダイ氏とはここで別れる。
6月1日、ホーチミン市第6区にある浄土居士仏会の本部を訪問。ここは漢方で無料治療してくれるところとして有名。本部内の敷地には漢方薬にする草が所狭しと天日干しされている。正会長の話では、テト攻勢の時に、ここは革命側の根拠地になったという。
6月2日深夜、ホーチミン市より帰国。












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