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Ⅰー3.北部農村の退役軍人・退役軍人会

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(3)
★2005年12月22日~30日:ハノイ市、ナムディン省

今回、初めて本格的な聞き取り調査をおこなった。調査地は、ハノイの南西の海岸地方であるナムディン省ハイハウ県ハイソン社。調査期間は12月24日~27日の4日間で、農家に民泊した。調査はベトナム社会科学院社会学研究所にセッティングしていただいた。

ハイソン社は、海辺に近い新開地であり、銘柄米「ハイハウ米」で有名なハイハウ県のほぼ中央に位置する。同社人民委員会の説明によれば、人口8600人(殆どが農民)、退役軍人476人(そのうち28人は抗仏戦争)、戦没者168人。「英雄的ベトナムの母」は5人いる。社の退役軍人の最高位は大佐である。枯葉剤の直接的被害者は約30人で、68人が直接・間接の枯葉剤被害者で被害者手当を受給している。ハイソン社の共産党員は378人で、そのうち187人は退役軍人である。すなわち党員の半数近くを退役軍人が占めている。

聞き取り調査は、ハイソン社の人民委員会、党委および退役軍人会が斡旋・紹介してくれた10人の退役軍人の自宅に伺って、ベトナム語で一人当たり約1時間のインタビューをした。質問は相棒ダイ氏と私の二人でおこなった。インタビューは録音し、調査終了後、ダイ氏がテープ起こしし、そのテープ起こし原稿を私にメールで送ってもらった。

12月24日、ハノイから車で約4時間でハイソン社に着いた。同社は純農村で米作と副業の盆栽づくり以外、これといった産業もなく、ホテルなどの宿泊施設もないため、私は農家に民泊させていただくことになった。その農家はいわゆる三間一部屋(Ba gian Một buồng)の典型的な北部民家建築で、私は祭壇横の寝床で休ませていただいた。この家には水道はまだなく、井戸水を使っていた。毎度の食事も提供していただき、炊き立ての「ハイハウ米」のご飯はとてもおいしかった。二晩目と三晩目は夕飯を食べながらベトナム焼酎をいただき、午後9時前には就寝していた。

ハイソン社に到着した日はクリスマスイブの日で、同社の人民委員会に挨拶した後、見出し画像の教会に招かれた。ナムディン省はカトリック教徒が多くいる地方であるが、ハイソン社も人口の18%がカトリック教徒だという。教会で夕食を司祭と一緒に食べ、その後、クリスマスイブを祝う集いに参加した。教会の庭にステージがしつらえられ、歌や踊りが演じられており、かなり多くの観客が集まっていた。信徒ではない人や近在の人々なども見に来ているという。私がステージに見入っていると、お前もステージに上がって何かやれと突然のご指名。「一飯」の恩義もあり断るわけにもいかないので、やおらステージに上がり、特にこれといった芸のない私はえいやっとばかりに日本語で「きよしこの夜」を歌った。音程ははずれるは、歌詞を途中から忘れるはで、聴衆のみなさんにはクリスマスイブのとんだお耳汚しをしてしまった。

翌25日から聞き取り調査を開始。初日は3人。翌26日に5人、27日に2人。ハイソン社は比較的密集しているので、徒歩でそれぞれの家を訪問してインタビューすることができた。家と家が離れているメコンデルタの村ではこういうわけにはいかないだろう。今回インタビューした10人の退役軍人はいずれも男性で、平均年齢が57.5歳(調査時)。出征した時期は10人中8人が1965年以降。軍隊在籍期間の平均は約17年半の長きにわたる。出征時の年齢は17歳から21歳で、17歳が5人と最も多かった。出征時に既婚であったのは3人で、4人はベトナム戦争中に結婚した。いずれも1か月程度の休暇で帰郷し、その休暇の間に慌ただしく結婚している。社内の女性と見合いで結婚したケースが多い。10人のいずれもがベトナム戦争中に南部の戦場に出征している。

ベトナム戦争は、ハイソン社の退役軍人にとって、社会的移動性をもたらした。多くの人は生まれて初めて故郷を離れ、国内外の戦場を「遍歴」し、国土の理解を深め、他郷の戦友との同隊意識・同胞感を強めた。軍隊での新暦にそった時間意識になじみ、軍隊内で学校教育を受けたり、党員となったりして社会的地位上昇のよき機会ともなった。
彼らの戦争の語り方は、手柄話などの「栄光の語り」ばかりではなく、「負の面」についても語られ、ベトナムにおける戦争の「公式的記憶」と矛盾するものではないが、「党の指導」より「兵士の力」がより前景化し、悲しみの記憶が大きな比重を占めている点が異なっているといえる。

ハイソン社の例に見られるように、北部農村においては退役軍人は共産党員の有力な供給源であり(このような状況はいつまで続いたのであろうか?2010年代には変化したのではないだろうか?)、共産党の強力な支持基盤となっていると考えられる(一方で「物言う体制内者」の面もある)。
しかし、軍人恩給制度・顕彰制度などに対する退役軍人の不満は強く、また退役後に農民として、あるいは恩給生活者として暮らす彼らは、1990年代半ば以降の経済の発展から「取り残され」、豊かになれない不満を胸底に抱えているように思われる。
ハイソン社の退役軍人たちは戦争体験をあまり若い世代に語り継いでいこうとしていない。個人としても、組織としてもそうである。

以上はハイソン社での聞き取り調査の概要であるが、以下の拙稿にまとめているのでご覧いただければ幸いです。
拙稿「現代ベトナムにおける退役軍事と退役軍人会 ーベトナム北部ナムディン省ハイハウ県ハイソン社の事例ー」『東京外国語大学論集』第73号(2007年) repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/24097/1/acs073007.pdf

12月28日にホーチミン市に移動し、翌29日にビンズオン省ライティエン在住の中国系の蘇明通氏(1917年生まれ)の自宅を訪ね、太平洋戦争時代のことについてインタビューする。30日深夜、帰国。





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