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Ⅰー33. カオダイ教の源流「明師道」とベトナム戦争:信仰と戦争協力拒否

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(34)
★2015年~2019年:ビンディン省、ハノイ市、カントー市、バックリュウ
          省、ホーチミン市、タイビン省
見出し画像:「明師道」信者のおばあさんたちと歓談(タイビン省タイビン
      市の信者宅にて)

はじめに

 みなさんは「明師道」(正式には明師道南宗仏堂教会 Giáo Hội Phật Đường Nam Tông Minh Sư Đạo )という宗教をご存知だろうか。この宗教はベトナム政府によって公認されている16宗教・36団体のうちの一つである。
ちなみに2020年12月28日付け内務省公文6955号での公認16宗教は(かっこ内は公認団体数)、仏教(1)、カトリック(1)、プロテスタント(9)、カオダイ教(10)、ホアハオ仏教(1)、イスラーム教(7)、バハイ教(1)、浄度居士仏会(1)、セブンスデー・アドベンティスト教会(1)、四恩孝義仏教(1)、明師道(1)、明理道・三宗廟(1)、バラモン教(2)、モルモン教(1)、タロン孝義仏教(1)、宝山奇香(1)である。ベトナム戦争終結後、ベトナムが南北統一されてから、2008年にベトナム政府によって公認されるまでの長い間、明師道はいわば「忘れられていた」宗教であった。
 明師道は中国の民衆宗教「先天道」が東初祖によって1863年にハティエンに広済仏堂が建立されて以降、ベトナムに伝えられたものである。19世紀末から20世紀初にかけてベトナム南部で盛んに信仰された。当初は主に中国系の明郷(ミンフオン)の人々によって信仰されていたが、フランスの研究者ジョルジュ・クーレが1926年に出版した『アンナンの秘密結社(Les Sociétés Secrètes en terre d'Annam)』の中で指摘しているように、民族主義的で救済宗教的な色彩を強めていき、ベトナム人にも信仰されていくようになった。扶鸞(筆者注:中国のこっくりさん)運動の高まりとともに明師道も盛んとなり、1920年には植民地当局から公認された。カオダイ教・教理普及機関から発行された『カオダイ教の歴史 第1巻 開道 起源から開明まで』(2005年)では、「カオダイ」や「三期普度」といった言葉が明師道の経典から由来していること、カオダイ教創立初期には明師道出身の高位聖職者が多くいたことを指摘しており、明師道はカオダイ教の源流の一つともいえる。カオダイ教(1926年成立)が隆盛になるにしたがい、明師道は衰えていった。

ベトナム政府宗教委員会作成の紹介動画「国の発展に同行する明師道・南宗仏堂教会」
(2024年1月18日公開)から

 現在の明師道の現況は上の図のようになっている。地図の黄色部分が信者が分布しているところとなる。旧南ベトナムが多く、北ベトナムは少ない。仏堂と呼ばれる祭祀施設が53か所、聖職者が約170人、修行が約360人、信者が1万人近くとなっている。明師道は比較的小規模の宗教であるが、文化的影響は大きい。

 筆者は、武内学習院大学教授を代表者とする科研プロジェクトによる明師道資料合同調査に参加してきた。このプロジェクトの成果は以下の3冊の共著にまとめられている。
・武内房司編『越境する近代東アジアの民衆宗教 中国・台湾・香港・ベト
 ナム、そして日本』(明石書店、2011年)
・武内房司編『戦争・災害と近代東アジアの民衆宗教』(有志舎、2014年)
・武内房司編『中国近代の民衆宗教と東南アジア』(研文出版、2021年)

明師道の仏堂で収集された経典『回陽因果演音』(甲申年1944年刊行)
上記本の最初の見開き。チューノム文にクオックグーのルビがつけられている。
1944年まで民衆宗教の世界ではチューノムが使用されていたことが分かる。

 合同調査以外に筆者は単独で2015年から2019年にかけて、中部(ビンディン省)、南部(バックリュウ省、カントー市、ホーチミン市)、北部(ハノイ市、タイビン省)において明師道の聞き取り調査をおこなってきた。ビンディン省の雲南寺は合同調査の一環でおこなったものであるが、それ以外の調査はハノイ市の妙南仏堂のレ・ゴック・リュウ・ハーさんにセッティングしていただいた。教団幹部(当時の陳大老師、チャン・ホアン・タイン事務局長、北部の教団実務を中心的に担っているレ・ゴック・リュウ・ハーさん)とともに農村の在家信者にもインタビューできた点は貴重だと考えている。

雲南寺に掲げられていた額(保大十五年)

(1)中部ビンディン省クイニョン市の雲南寺(2015年12月27日)

 雲南寺は、東初祖がベトナムから中国に戻った後、弟のチュオン・ダオ・タン(Trương Đạo Tân)が海路で中部のクイニョンに渡り建立した由緒ある寺で、元々は山の上にあり、そこには阮朝保大帝(在位1926ー1945年)の勅の額が掲げられている(上の写真)。
①住持のチャン・ヴァン・ルアン(男、1972年生まれ)
「18歳でここに修行に入った。両親もこの寺に帰依。妻帯せず、ここの住持をしている。経典は仏典とわが宗派独自の玉皇経や天地経などで、漢字のものとベトナム語のもの両方がある。扶鸞のことを聞いたことはあるが、見たことはなく、現在ここではおこなわれていない。ここの信者は約250人。かつて寺は山の上にあったが、戦争のため、1967年に下におりてきた。明師道は長く存在していて、解放前の南ベトナムでは「南宗仏堂居士教会」と呼ばれていた。祖師チュオン・ダオ・タンが山上に寺を建て、明師道はこの地方で広まった。祭祀の時は長い黒服に黒い帽子で、それは公認前も変わらず。ドイモイ以前のバオカップ(国家丸抱え)時代、信者が集まらず、寺の経営は苦しかった」

②信者のグエン・ヴァン・チュオン(男、1940年生まれ)
「山の上の寺はベトナム戦争中に共産主義者を匿っていると疑われ、山の下に移された。
 私は戦争中は何度も(旧サイゴン軍から)兵役逃れをした。ここに来て9年になる。平日は住持と自分と2人の女性(この2人は通い)で寺を切り盛りしている。大祭などで多く集まる時で200人ぐらいだ」

 以上から、雲南寺はチュオン・ダオ・タンを開祖とし、旧南ベトナム時代は「南宗仏堂居士教会」に属していたこと、南北統一後のバオカップ時代は厳しい状況に追い込まれていたこと、現在、扶鸞はおこなわれていないと寺側から主張されていることが確認できた。

妙南(仏)堂(ハノイ市)

(2)北部ハノイ市の妙南仏堂(2017年7月23日)

 ここは、現在、ハノイ市で唯一の明師道の仏堂で、住持や信者は女性のみである。
①ファム・ティ・ラー住持(女、64歳)
「自分は今年64歳で13歳から斎戒している。長期の精進(肉食、動物性油、ニラ・ネギ・ニンニクなどの刺激物を食べない)と五戒を守らなければならず、厳しいので、出家できるのは少しの人のみ。ハノイにはかつて明師道の仏堂が3つあった。そのうちの一つ明南堂(1930年創建)はジュネーブ協定後の1954年に信者が南部に移住し、今その場所は軍隊に接収されている」

②レ・ゴック・リュウ・ハー(女、30歳前後、住持とともに妙南仏堂で修行している)
「この仏堂は1930年創建で(筆者注:1931年との説もある)、創立者と修行者は女性。降筆(筆者注:扶鸞のこと。ベトナム北部ではこう言う)は以前おこなわれていて、檀があったが今はない。明師道は秘めて修行をおこなうので、あまり世間には知られていない。多くの人からは在家の仏教徒とみられている。それで植民地期の1920年に「南宗仏堂居士教会」という名前で登記した。1930・40年代に北部でも布教が進められた(主にビンディン省の人たちによって)。1945~54年は南北間で連絡があったが、54年以降は途絶えた。仏堂はハノイにはかつて3つあった。現在、北部にはニンビン省に1つ、タイビン省とタインホア省には比較的多くの仏堂が存在する」

 以上から、ベトナム北部にも南部ほど多くはないが明師道の仏堂が存在し、ハノイ市では妙南仏堂が唯一現存の仏堂となっていることが現場で確認できた。

南雅仏堂(カントー市)

(3)南部のカントー市の南雅仏堂(2017年9月12日)

①ホアン・フック(男、28歳)
「16歳から南雅仏堂で修行し、現在、天恩(筆者注:明師道の聖職者の位の一つ)。広東系の明郷(ミンフオン)の第5世代で一族のほとんどが明師道の信者。この仏堂では多数の中国系の信者がおり(約40%)、多くはカントー市に住んでいる。明師道を仏教と誤解している人が多いが、明師道の主な起源は道教。禅宗思想と儒教の治世・斉家思想と融合した『三教同源』。現在、南雅仏堂には13人の出家者がいる(男6人、女7人)。
 『明師』の名前は、先天道をベトナムに伝えた東初祖(チュオン・ダオ・ズオン)がつけた。弟のチュオン・ダオ・タンは中部で布教し、ビンディン省に雲南仏堂を建てた。ベトナムの明師道と関係が深いのは、広東の羅浮山潮元洞と香港の極楽洞。1975年以前は、香港の祖師が頻繁にベトナムの仏堂を訪れていた。現在も関係はあるが、主にメールのやり取りのみ。南雅仏堂のグエン・ザック・グエンは漢方医で薬局を開いていたが、1895年に南雅仏堂を建てた。南雅仏堂は徳済派発祥の地。『南』の字のつく仏堂は同派。その後、中国から2人の大老師がベトナムに来て普済派と弘済派をつくり、明師道は3つの宗派ができた。3つの宗派では道服と儀礼がちょっと異なる。 
 南雅仏堂はフランス植民地期には東遊運動の拠点になったり、アンナン共産党の支部が置かれたり、ベトミンを支持したりした。そのためフランスから2度活動停止を命じられた(1926年、1941年)。旧南ベトナム時代、南雅仏堂は宗教活動に専念した。1975年以前、祖師ヴオン・ダオ・タムが『南宗仏堂居士教会』を設立した。同教会は1978年に解散した。2008年にヴオン・ダオ・タムの弟子のチャン・ダオ・ニュー(現在の陳大老師)が働きかけて、明師道は公認化された。中部の仏堂では仏教化の傾向が強いが、南雅仏堂とヴィンロン省の福済仏堂やホーチミン市の光南仏堂は道教回帰の傾向がある」

福寧仏堂(バックリュウ省)

(4)南部のバックリュウ省の福寧仏堂(2017年9月13日)

①チャン・ホアン・タイン(男、1968年生まれ)
「カントー高等師範学校で学び、今は教員をやりつつ福寧仏堂住持と『明師道・南宗仏堂教会』の事務局長をしている。明師道の信者は全部で約4200人、修行者は1500人(筆者注:政府宗教委員会の発表した数字とは異なる)。ベトナム戦争期より信者数は少なくなった。今、修行者は高齢者ばかりで、若い人は少ない。華人が約20%でホーチミン市に集中し、地方はキン族が多い。公認後の今は統一されて3つの宗派に分かれていない。ティエンザン省には普済派の仏堂が10あったが、明師道教会に属している。ホーチミン市に光南仏堂が建てられたのが1920年で、その時に明師道教会が公認された(植民地期)。3つの支派に分かれ、カオダイ教は明師道から生まれた。
 経典は天言経、救苦経、阿弥陀経、金剛経、普門経が読まれ、中部では普門経と阿弥陀経、南部では天言経と救苦経がよく読まれる。公認化された2008年以前は、明師道は仏教の庇護のもとで活動していた。祖師の法事だけは光南仏堂に集まっていた。明師道教会が公認されるまで、きわめて困難な時期だった。明師道教会は設立されたばかりで、教理学校がまだない。公認直後に比べれば組織的には改善されたが、まだ若い人が少ない。明師道は修行が厳格で入門する人が少ない。昔は香港とのやり取りがあったが、今はメールだけ。ホーチミン市では仏教から慶南仏堂が返還されていないが(筆者注:上記の政府宗教委員会の紹介動画の中には慶南仏堂が出てきているので、現在は返還されているものと思われる)、この福寧仏堂は長い交渉の末、返還してもらえた。こういった紛争が仏教との間にはあり、フーイエン省やハノイ市では現在進行中。北部ではタイビン省に信者が多い」

②チャン・タイン・ティー(男、63歳)、チャン・ヴァン・セム(男、57歳):福寧仏堂の信者
「ティー(富裕な米作農家)の父方の祖父はこの仏堂の住持だった。この仏堂は元々、家族の祭祀所で、1918年に創建された。ティーの兄も住持で2年前に亡くなった。この仏堂の住持は創建時から今までキン族であった。信者もこの周辺のキン族。農業地帯で、交通が不便な所で、華人はいない。セムの祖父、父もここで修行した。1952年には地区の共産党委員会がここを借りて党学校を開設した。ヴォー・ヴァン・キエット元首相もその頃ここに来た。仏堂は2008年に再建。明師道の仏堂はバックリュウ省ではここだけ。明師道公認前は、活動を続けるために仏教に加入・附属し、公認後、独立した」

 カントー市の南雅仏堂はメコン・デルタの大都市にあり、華人系の信者が多く、中国語教室も開設されている。一方、福寧仏堂はメコン・デルタの交通の便の悪い農村地帯に位置し、華人系住民がほとんどいず、信者がキン族だけで成り立っている仏堂である。元々は富裕な家の祭祀所から発祥し、明師道公認前は仏教の傘下にあり、公認後、仏教から明師道に復帰したケースである。

光南(仏)堂(ホーチミン市)

(5)南部のホーチミン市の光南仏堂(2017年9月14日)

①教団トップの陳大老師の娘(50代と思われる)
「自分は6人兄弟の2番目。家族はみな明師道に帰依しており、自分も10代から修行しているが、出家しているのは父のみ。まもなく第3期(2018ー2023年)の新しい明師道教会の理事会を選出しなければならないが、老齢化で人がいない(筆者注:陳大老師は第2期までで理事会トップを引退した)。この仏堂では出家者は5人だけ。父は福建から10歳の時、一家でベトナムに来た。母は福建出身の父親とベトナム人の母親の混血で、母と祖母は明師道を信仰していた。それで父も信仰し修行するようになった」

②陳大老師(男、1937年生まれ)
「自分は1937年の生まれで、妻の両親に従い修行した。書類上は1940年生まれだが、これは旧サイゴン軍からの徴兵逃れのため。しかしその後、徴兵逃れの罪で投獄された。家族は釈放のため、お金を工面した。台湾に勉学に行ったが、いつだったかもう記憶にない。その後、食品加工の会社に勤めた。ベトナム戦争終結後も勤めていたが、1978年の『北京膨張』事件で降格させられ、翌年に依願退職した。それからは出家して修行に専念した」

 ごく短時間のインタビューであったため詳しい話は伺えなかったが、陳大老師の明師道入門の経緯の一端が明らかになった。1978年の華僑・華人への締め付け強化政策は明師道にも大きな影響を与えたものと推測される。

陳大老師と娘さん(ホーチミン市の光南仏堂にて)

(6)北部のタイビン省の第1回目(2017年11月23日~24日)

 タイビン省はトンキン湾の海岸沿いの平野部に位置する省で、北部では明師道の仏堂が多く存在する所である。
①チャン・ティ・ニャン(女、1940年生まれ。タイビン省タイビン市内の自宅で信者の集会所を運営。見取り画像はその自宅内)
「ハーナム省出身で、1961年に実母と一緒に実母の出身地のタイビン省に移住。父には3人の妻がいて、母は第二夫人。私は商業機関で炊事係をし、1965年頃そこで知り合った人と結婚。自分は長期間の勤めはしなかったので、年金はないが、夫の残した年金と子ども達の扶養で生活できている。両親は困窮していた時、明師道に入信し、タイビン市に明師道をもたらした。自分は46歳の時から30年近く信仰している。両親が亡くなった時、友人を誘って両親が修行した仏堂を訪れ、その縁で信者が集まるようになった」

善光仏堂に集まった信者たち(タイビン省)

②善光仏堂(タイビン省キエンスオン県ビングエン社)の信者50人ほど
「在家修行者の人々で、ここの信者は代々入信していて4・5代目になる。80歳のおばあさんで50年以上修行している篤信の人もいる。この仏堂は阮朝の保大帝(在位1926ー1945年)の頃、建てられた。先人たちはタイビン省ティエンハイ県に行き、グエン・チー・ギア(Nguyễn Chí Nghĩa)に学んだ。 
 ここは完全に家族の自留地・建物で耕作地ではなかったので、農業集団化で農業合作社にとられるのを免れた。以前は各集落(thôn)にお寺があったが、1950年代なかばから1960年代におこなわれた農業合作化の後は各集落に宗教施設は一つのみとされた(合祀化)。この仏堂は最初はとても小さな建物だったが、建て増しして今のように立派になった。信者はこの社の人が中心で周囲の社にもちらほらいる。(社会主義)政権と摩擦が生じ、何人かが収監されることがあったが、『ベトナム仏教教会』が調停に入ってくれた。1972年に弾圧されて、在家修行も禁じられて捕らえられ解散を命じられたこともあったが、自分たちは決して明師道を捨てなかった。この15~20年、当局は擁護してくれる。祭礼などで多い時は50~70人が仏堂に集まる。ここではみなが長期精進をしている。不殺生のため豚やニワトリなどを飼育していない。お経は先人が残してくれたものをコピーして使っている。

東湖仏堂の祭壇。
中央上にある「無極の輪」が明師道の特徴

③レ・コン・トゥン(男、1958年生まれ)東湖仏堂(タイビン省タイトゥイ県トゥイフォン社)
「出身地はこの仏堂から6キロ離れた所。1977年から4年9か月兵役に就いた。1997年にここに来た。夫婦二人そろってここで修行。合作社時代にも信者はいたが、仏堂にとってはとても困難な時期だった。境内に崇慶寺建立(17世紀末)の石碑があるが、おそらく1960年代に合祀されて、明師道も加えられたのではないかと思われる」

霊岡寺の山門(タイビン省)

④チャン・ヴァン・ホア(男、1954年生まれ)霊岡寺(タイビン省タイトゥイ県トゥイニン社)
「地元の党支部書記をしている。この寺は阮朝維新帝(在位:1907ー1916年)の頃からある。以前、この集落(thôn)には2つのディン(đình)、1つの寺、1つのデン(đèn)があった。合作社時代に宗教施設は破壊され、この集落では2つのディンが破壊され、教室と倉庫になった。この寺はこの集落では唯一残った。現在、若い世代はお寺には関心をもっていない。

⑤グエン・ティ・ホア(女、83歳)霊岡寺
「ここは名前が霊岡寺となっているが、仏教のお寺ではない。祭壇に無極の輪があるので明師道の仏堂である。2007年から改修・増築し2009年に完成した」

(7)北部タイビン省の第2回目(2018年7月23日~24日)

①チャン・ティ・ニャン(第1回目の①)の信者グループ
「ビン(女、60歳)は27歳で夫を亡くし、1997年から明師道に入った。ここから20キロ離れた所に住んでいる。『ベトナム仏教教会』に明師道が蚕食されるのを心配している。ホック(男、47歳)は、小さな商売をしながら修行。4年前、息子が病死してから修行に入った。フン(女、76歳)は、娘が病気がちだったのが1997年に入信してから治った。元小学校教員で、党歴も50年ある。そのほか遠くハザン省から通ってくる人もいる。ここに集まる信者の多くは老婆で、入信の理由は病気や災難。ニャンの導きで明師道の儀礼を受け、状況が改善した。ニャンは聖職者ではないが、布教に重要な役割を果たしている」

チャン・ティ・スエンさん(至善堂、タイビン省)
堂内にはほんの僅かの家財道具しかない簡素な生活ぶり。

②チャン・ティ・スエン(女、80歳)至善堂(タイビン省キエンスオン県ヴーレー社)
「ここは自分の家の土地。仏堂は家族のためにかつて建てられたもの。父母はタイビン省ティエンハイ県で受戒し、ここに仏堂を建てた。兄弟はいるが、19歳から修行し、ずっと独身。仏堂は最初、藁葺き、土壁だったが次第に修繕。信者の寄附を受けているが自立が主。ニャン(上記の①)のところのフンとタインはここで受戒した。19歳の時以来、完全に斎戒し、薬も飲まない。合作社の時代、ここは自留地だったので接収を免れた。合作社員にならなかったので労働点数はなく、生活は苦しかった。しかし堤防工事だけは参加した。ベトナム戦争当時、修行を捨てることになるので、民兵にも青年突撃隊にも入らなかった。ここには北爆はなかったが、電気も道路もなく、藁葺きの独り住まいで読経して心を鎮めた。ドイモイ後に耕作地の再分配を受けたが甥・姪に耕作してもらっている。財産は3サオ(1000㎡余り)の土地と炊飯器とポットと薬缶・茶碗のみ。学校には行っていないのでクオックグーは少ししか知らない。お経は漢字で書かれているので、父が漢字を教えてくれた。この仏堂は一番多く人が集まる法事で30~40人」

普光仏堂(タイビン省)

③グエン・ティ・フエ(女、61歳)、ファム・ティ・クエ(女、64歳)普光仏堂(タイビン省ヴートゥー県トゥイルオン社)
「フエはここの人ではなく、14・15歳の頃、病気になってここに送り込まれ、治癒したのでそのままここで斎戒して修行。この仏堂は元々家族の祭祀所で、クエはこの家族の養子となり、同じく14・15歳から修行へ。1975年以前、戦争と合作化により宗教活動は制限され、家庭内祭祀と烈士の祭祀だけが認められた。今は地元当局の支持や妨害は特になし。ハノイの妙南仏堂が北部の中心となっており、南部との関係が不可欠とは感じていない」

詞路堂(タイビン省)

④ヴー・ティ・ゴアン(女、34歳)詞路堂(タイビン省ティエンハイ市)
「枯葉剤被害者の子で両足を欠く。結婚も難しいということで入信。ここは一族の祀堂と併存しており、創立者はグエン・チー・ギア。合作社時代、ここは家族の自留地だったので接収されなかった。明師道の公認前、仏教に転じた仏堂や信者が多くいた。明師道は仏教より修行が厳しかった(長期精進など)。バオカップ時代、宗教活動は制限されたが、家族・一族内の儀礼は禁じられず、法事はふつうにおこなわれた」

 タイビン省での聞き取り調査から分かったことは、同省での仏堂は家族の祭祀場所を起源とするものが多いこと、もしくはそういった所が合作化後も存続できたことである。合作化・戦争期、バオカップ期には宗教は厳しく統制され、「ベトナム仏教教会」の庇護下に入ったり、仏教寺院化することによって存続をはかったケースも少なからずあったと思われる。

(8)北部のハノイ市の第2回目(2019年3月5日)妙南仏堂

①レ・ゴック・リュウ・ハー(天恩)への再インタビュー
「北部に明師道を伝えたのはチン・ダオ・タイン(Trình Đạo Thanh)で、彼は香港から海路でベトナムへ来た。ビンディン省で碧南仏堂などを創建。その後、ナムディン省、ニンビン省そしておそらくタインホア省で布教した。それは1920年代。ニンビン省やタインホア省の仏堂はチン・ダオ・タインを祀っている。チン・ダオ・タインがハノイに来て、ブイ・ゴック・ハー(Bùi Ngọc Hà、女性)に授戒。明師道では女性は男性に授戒できないので、ハノイの信者は女性ばかりになった。ブイ・ゴック・ハーはハノイでの明師道を発展させた。
 妙南仏堂は1930年創建。北部では中国人の信者は少ない。地方ごとの特色があり、タイビン省ではチャン・フン・ダオ(陳興道)の祭祀が、ハノイでは「四不死(ソンティン、タインゾン、チュードントゥー、リュウハイン)」の祭祀が加わっている。北部はヴオン・ダオ・タムのような徳済派によって布教されたので徳済派が多いが、2008年に統一され、3つの宗派で大きな違いはなくなった。南北分断期は戦争もあり、発展は困難であった。バオカップ時代も。1981年に「ベトナム仏教教会」が設立されると、仏教に転じた仏堂や信者が登場し、仏教化が進んだ。しかし明師道がお寺で祀られることもある。それはムラの寺である(たとえば東湖仏堂)。ムラの寺は仏像のほかに玉皇上帝、太上老君、孔子の像があり三教思想によっている。ハノイ市タインチー県のサイ寺は元々明師道ではなかったが、一時期、明師道となり、その後また仏教に戻った。南部の省では元々明師道の仏堂だったのが、住持がいなくなり、仏教になった所もある。公認後、明師道の機構面は強化された。第3期(2018ー2023年)はグエン・ヴァン・ザン(Nguyễn Văn Dần)が中央理事委員長で、陳大老師は長老会議会長となった。タイン師は事務局長留任(筆者注:コロナ禍の最中にタイン師はコロナが原因で亡くなられた)」

レ・ゴック・リュウ・ハー(右)(ハノイ市妙南仏堂にて)

聞き取り調査のまとめ

 以上の聞き取り調査から、以下のことがいえるのではないかと思われる。
◆明師道は中国の民衆宗教「先天道」が19世紀後半にベトナムに伝えられた
 ものである。19世紀末から20世紀初にベトナム南部で盛んとなり、カオダ
 イ教の源流の一つともなった宗教である。
◆北部への明師道の布教は、1920年代くらいから中部から来た人たちによっ
 ておこなわれるようになった。
◆南部と比べると数は少ないが、北部ではタイビン省、タインホア省に多く
 仏堂が存在する。
◆ベトナム民主共和国(北ベトナム)の農業合作化の時期、農村では宗教の
 合祀化が進み、宗教施設の数が制限されるに至ったが、家族の祭祀所とし
 てあった仏堂は存続できた。社会主義政権になってから扶鸞は禁じられる
 ようになった。
◆ベトナム共和国(南ベトナム)の下では、1960年代に明師道の教会組織
 「南宗仏堂居士教会」が公認されたが、南北統一直後に解散した(当時の
 中越関係悪化も影響あったか?)
◆南北分断期、明師道でも南部と北部の連絡が途絶えた。北部には明師道の
 統一組織はなかった。
◆南北統一後、明師道の仏堂は「ベトナム仏教教会」の傘下に入った。その
 状況の中で、明師道の仏教化が進んだ。
◆2008年に明師道は公認化されたが、信者数の先細り、高齢化が進んでい
 る。また第3期の中央管理委員長がキン族になったように、教団組織のベ
 トナム化も進んでいる。
◆明師道の信者の中には至善堂のチャン・ティ・スエンさんのように、旧北
 ベトナムにおいても、信仰のために、農業合作社にも加わらず、戦争非協
 力を貫いた人がいたことは心にとどめておきたい。
                             (了)

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