Ⅰー2.台湾出身の残留日本軍・軍属の嘆き
ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(2)
★2005年9月6日~19日:ハノイ市、ニンビン省、ホーチミン市
今回は9月6日から16日まではハノイ市に滞在し、その間、紅河デルタ南端のニンビン省に行き、ニンビン市に在住している台湾出身の残留日本軍・軍属の呉連義氏にお会いし、お話を伺った(見出し画像は呉連義一家との写真。呉連義氏は右から二人目。その左隣が奥さん)。17日から19日まではホーチミン市に滞在した。
ハノイ市では、9月8日に『退役軍人』紙の読者委員長ハン・クオック・カイン(Hàn Quốc Khánh)氏にベトナム退役軍人会についてインタビューした。同氏によると、現在の会員数は約250万人で全国レベルから集落(xóm)レベルまで支部がある。退役軍人といってもベトナム戦争など実際の戦闘を経験したことのある「cựu chiến binh」とそれ以降の「cựu quân nhân」の区別がある。入会は任意であるが、入会しない人も一定数いる。相棒のダイ氏の推測では入会率は6割ほどで都市部は少なく、その理由は同会が必ずしも退役軍人の利害を守っていないからではないか、とのことである。
9月11日、ニンビン省ニンビン市の呉連義氏のお宅を訪ねた。彼は台湾の嘉義の出身で、太平洋戦争中、日本軍の軍属として台湾拓殖の子会社の台湾綿花で働き、戦後もベトナムにとどまった。彼のことについては、名波正晴『ゆれるベトナム』(凱風社、2001年)で詳しく紹介されているので、参照していただきたい。呉連義氏は日本語をだいぶ忘れてしまっていたが、私との会話ではたどたどしい日本語で対応してくれた。
「現在、家族は子・孫を含めて30人余りの大家族になっている。ベトナム戦争中、息子たちは「日本人」の子どもということで、軍隊に入れてもらえなかった。1979年の中越戦争の時は中国のスパイ扱いでつらい目にあった。数年前に一度、台湾に一時帰国し、台湾のパスポートをもっているが、台湾に永住帰国したい。日本からの賠償金はいらないが、帰国の援助金がほしい。日本は無責任国家だ。」
私と呉連義氏が話している間、相棒のダイ氏は奥さんにインタビューしていた。後日、その内容について、私に教えてくれた。その概要は以下の通り。
「15歳で最初の結婚をしたが、夫の暴力がひどくて家を出た。ファットジエム(Phát Diệm)で彼と知り合い、1951年か52年に結婚。山間部にある軍隊の倉庫だった所を住まいにして所帯をもった。抗仏戦争後、ニンビンに戻るが、彼は土地を分配してもらえなかった。1958年に(帰国のための)政治学習に行くが、帰国できなかった。ベトナム戦争中、息子たちは出征を許されず、高等教育を受けることもできなかった。しかし飢えることはなかった。1979年の中越戦争の時は、スパイ扱いされ、出ていけと言われて大変だった。彼は戸籍がなく、配給も受けられない。今、夫とは食事を別にしている。」
9月15日、ハノイ市の投宿先のホテル・ロビーにて、共産党中央・科教委員会教育局副局長のグエン・ヒュウ・チー氏とアムステルダム高校の歴史教員ドアン・キュウ・オアインさんにベトナムの歴史教育についてインタビューした。歴史教科書の4回目の改訂中であると伺った(1950年、1956年、1980~1991年、2000~現在)。
ベトナムでは歴史は不人気の科目だ。ベトナム戦争の歴史についても同様だ。しかしこの年、ベトナム戦争で夭折した人たちの日記、『永遠の20歳』、『ダン・トゥイ・チャムの日記』などがベストセラーになり戦争ものが注目された。恋愛という要素を入れたのが若い世代にうけたとする見方もあるが、現時点から振り返ると、その人気はあまり長続きしなかった。
9月17日にホーチミン市に移動。翌18日にホーチミン市在住の韓国人ク・スジョンさんと会い、出版予定の本の原稿について打合せた。韓国では、『戦争の悲しみ』の作者バオ・ニンよりヴァン・レー(Văn Lê)の方が人気があるとのことであった。翌19日に帰国。
<番外>
同年11月18日から渡越し、21日・22日の二日間にわたってハノイ人文社会科学大学で開催された「東遊運動100周年記念シンポジウム」に参加した。川本邦衛先生、白石昌也先生なども参加。24日に帰国。
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