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Ⅰー20. 「ザップ氏の兵士」と「ディン女史の兵士」:タイニン省(後編)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(20)

(3)北からタイニンの戦場へ

①南出身者の南部出征
北からタイニンの戦場に来た兵士には、大きく分けると2種類いた。1つは北出身者の南部出征である。もう1つは、元々南出身で、ジュネーブ協定後に北に「集結」していた人たちである。今回の聞き取り調査では2人の「集結」者がいた。この2人のうち、1人は北にとどまり、1人は南部出征した。

(a)クアイ(男、1929年、タイニン省、大尉)
クアイは1954年に部隊ごと北に「集結」。彼の部隊は、土地改革誤謬修正工作に参加、カトリック教徒が多数いるブイチュー、ファットジエムでは過酷な目にあった。「集結」後、8万人の武装武装解除の方針で一部の人は農場・林場に異動した。その後、武装闘争の方針がとられるようになると、1961年に南部に行く訓練が始まった。彼は足の負傷の後遺症があり、チュオンソン山脈を越えるのは無理との判断から、北に残った。
1965年に北部での破壊戦争が始まると、南部に出征しない兵士を防空・空軍に補充した。そのなかにクアイもいた。彼は、最初のミサイル部隊成立に参加した一人だという。彼は1973年に北で退役し、ベトナム戦争終結後に帰郷した。

(b)チョン(男、1934年、タイニン省、中佐)
1954年のジュネーブ協定後に部隊ごと北に「集結」。ハタイ省スアンマイに駐屯の第338師団に入り、その後、防空・空軍の高射砲士官学校で学んだ。1965年に南部出征。彼によれば、「集結」した南部人で最初に南部に戻ったのは、近距離にあるということで、クアンチ、トゥアティエンの人たち。クアンガイの人たちは1961~1962年頃だという。クアンガイ以南はその後になる。チョンの部隊は、南に来るのに4か月余りかかった。

チョンは、北に「集結」していた時にハーナム省の女性と結婚した。1965年に南部に出征した時、妻と子どもは北に残った。妻に再会できたのは11年後だった。

文化歴史遺跡の入口案内板(タイニン省)
・南部中央局基地
・南ベトナム民族解放戦線基地
・中央局安寧委員会基地

②北出身者の南部出征

北出身者でタイニンまで出征した人は、今回の聞き取り調査では4人いた。
(a)シエウ(男、1938年、タイビン省、中佐)
シエウは北ベトナムで最初の「軍事義務(兵役)」による入隊で、1959年3月に入隊した(筆者注:1959年憲法第42条で軍事義務を規定。1960年に軍事義務法を制定。62年、65年に改正。66年7月17日、総動員令の発令)。最初の軍事義務の時は徴兵検査が厳しく、厳選された。彼が配属された首都防衛部隊は特に選抜基準が厳しく、身長158cm以上、顔に傷なしが加わった。1963年3月に軍事義務を終え一旦除隊したが、1965年4月に再入隊。1967年2月に南部へ出征した。ホーチミン・ルートをすべて徒歩で踏破。途中、タイニンではジャンクソンシティーの戦い(1967年2月~4月)があり、解放勢力側が勝利した。タイニンに到着したのは、同年7月頃。途中、小団の約10%(70~80人)が脱落した。

シエウは、出征前の1957年に19歳で結婚。ベトナム戦争終結後にはじめて帰省した。1981年に妻がタイニンに来て同居した。

(b)タン(男、1945年、ゲアン省、専業上尉)
1965年2月に入隊。クアンビンで3か月訓練した後、同年7月に南部出征。DKZ12.7mmと食糧(7日分の米。次の駅亭で受け取り)など、30キロの荷物をもって行軍。ホーチミン・ルートは当初、すべての物をもって行軍していたが、その後、兵士は私物と食糧、軽い武器だけを持ち、他の物は軍用車で運ぶようになり、移動が速くなり、脱落者も少なくなった。南に入る時、正規の軍服1着、労働服1着、南ベトナム通貨500ドン(ピン札)が支給された。タイニンに到着するのに3か月かかった。

1965年10月からタンの部隊は中部高原のプレイメー作戦(1965年10月~11月))に参加した。この作戦中には米軍と直接対決したイアドランの戦い(1965年11月17日)があり、この戦いは「局地戦争」の幕開けであった。戦闘の時は毎日2・3ロンの米、戦闘がない時は1ロン(ロンは約0.3キロ)という規定があった。中部高原には1968年までいて、テト攻勢ではバンメトートを攻撃し、1969~70年はカンボジア国境に後退した。

タンは、ベトナム戦争終結後の1976年から1977年にかけて休暇で帰省。その後もタイニンで勤務。1982年にタイニンで結婚。妻はタイニンの人。

(c)リエン(男、1949年、ハティン省、中尉)
本籍はハティン省だが、父がタインホア省で暮らしていたため、同省のコン町で育つ。1965年に地元の県の売買合作社に入り勤めていたが、1968年のテト攻勢準備のため、緊急に徴兵・訓練された。タインホアからタイニンまで直行し、すべて徒歩で4か月かかった(乾季)。4日ごとに米の支給があった。結局、テト攻勢の第一波には間に合わなかった。第二波から参加。5年生修了と当時では学歴が比較的高かったので、南部解放軍司令部の暗号解読に従事した。チャン・ヴァン・チャー(Trần Văn Trà)将軍やホアン・ヴァン・ターイ(Hoàng Văn Thái)将軍に直接仕えた。

リエンは、1975年に休暇をもらい帰省して結婚。タイニン省で引き続き勤務し、1979年に妻をこちらに呼んで同居するようになった。

(d)タイン(男、1950年、ハタイ省、元兵士)
1968年2月に入隊し、2か月の訓練を受けて、1968年4月に訓練地のホアビン省を出発して南部に出征。チュオンソン山脈に着いて、ラオスの第36駅亭で1か月余り道路建設。そして再び行軍。すべて徒歩だった。タイニン省のカトゥムまで5か月かかった。タイニンでは南部軍事情報室に勤務した。
タインは、ベトナム戦争終結後の1976年に結婚したが、妻はカンボジア在住の越僑で、1970年に入隊しタイニンに来ていて、その時に知り合った。

以上、武装闘争の当初は主に南の人によって担われたが、その後、特に「局地戦争」の段階に入ると、北の人が補充されていくことになった。

北出身者で戦後タイニン省に定住するようになった人は「戦争移住」ともいえるが、上記のリエンが次に述べているような事情もあったのではないかと思われる。それは、ベトナム戦争終結後、士官を県レベルの職員補充に行かせる方針があったことである。准尉から少佐までの士官を党学校で学ばせ修了したら、県幹部に補充する。タイニン省はそのような士官が100人にのぼったという。

COSVN(南部中央局)
NLF(南ベトナム民族解放戦線)
PRG(南ベトナム共和国臨時革命政府)

(4)武器の推移

今回のインタビュイーの証言から、タイニンの戦場での武器の推移の一端を探ってみる。

ギア(男、1940年、タイニン省、上佐)の所属していた県隊は、トゥア・ハイの戦い(1960年1月)で敵から奪ったアメリカ製の銃、Thompson、Garandを装備していた。

ソン(男、1942年、タイニン省、中佐)によれば、1965年6月に米軍がタイニン省チャンロン(Trảng Lớn)に駐屯してから、米軍との戦いが激しくなった。北からの武器K44が入ってきたのは1965~66年頃だった。それまでは主には「敵の武器を奪って敵を討つ」だった。

ナー(男、1943年、ベンチェー省、中佐)は1963年にビエンホア砲兵団に入隊したが、そこでは日本軍の「山砲」をまだ使用していた。1965年に第5師団に異動したが、同師団には120mmと80mmの迫撃砲、DKZ75mm、DKZ82mmがあった。

チョン(男、1934年、タイニン省、中佐)は、1965年に北から南に戻ってきたが、それまでに14.5mmの重機関銃の訓練を受けていた。しかし当時、こちらにはまだなかった。彼は北からの武器の受け取りを任務とする第86中団に1966年から1971年に在籍していたが、武器は主には海上ルートでシハヌークビル港を経由してロクニンまで車で運ばれ、それを仕分けした。テト攻勢(1968年)後には、DKB、H.12、85mm砲も運ばれるようになった。

フオック(男、1942年、ロンスエン省、大尉)によれば、1966~67年に主力部隊はB40、B41をもっていたが、地方軍にはまだ装備されていなかった。

タム(男、1944年、タイニン省、元兵士)は1961年に県隊に入隊したが、最初に支給された銃はイギリス製の銃であった。トゥア・ハイの戦い(1960年1月)の後、鹵獲したアメリカ製の銃で県隊は十分な武器をそろえられた。タムによれば、戦闘は1968年のテト攻勢後、特に激しくなった。しかしその時には、タムの県隊にもB40があり、戦車を攻撃できるようになった。

シエウ(男、1938年、タイビン省、中佐)によれば、1968年から北朝鮮製の砲弾を多数使用するようになったという。それは対戦車砲弾として使われた。またチェコ製の狙撃銃も使われた。

クアン(男、1943年、ティエンザン省、上士)は1963年にティエンザン省第514小団に入隊したが、当時、同小団は軽機関銃、重機関銃、迫撃砲を持っていたが、数は少なく、敵から奪った武器が主であった。敵の最新兵器を入手したら上級部隊に納めて上級部隊に装備させた。
その後、タイニン省隊に異動するが、当初はアメリカ製の銃のM16やcarbinなどであった。1970~71年になると、主力部隊のように十分装備できるようになり、AK、B40、B.41、RPDがあったという。

社のゲリラだったファット(男、1957年、タイニン省、中士)によれば、1973年、第5・7・9師団は各社に主力部隊の武器を供給する方針を採ったため、当地のゲリラは強力な武器を持つようになった。ファットの隊には2つのB41、3つのB40、そしてM72、M79もあった。その頃、各ゲリラ戦士はAKとM72かM79を携帯していた。敵はゲリラを恐れた。捕まえると首を切ることもあった。部隊の兵士に対してはそのようなことはしなかった。地雷DH10を木に吊るして、超低空で来襲する敵機を爆破したこともあった。

ナー(男、1943年、ベンチェー省、中佐)によれば、1972年にロクニンを攻撃した時、解放軍には戦車があった。自軍の兵士たちも自分達に戦車があるとは思わなかった。敵も不意打ちをくらった。東南部の戦場では、この時が戦車の出現した最初。同年のビンロンの戦いでは、敵は対戦車陣地を構築するようになっていた。

以上、1960年代前半の「敵から奪った武器」が主だった状況から、1960年代なかばになるとカンボジアや北から武器が供給されるようになった。1970年代に入ると地方軍やゲリラの武器の充実化がはかられた。1972年には自軍の戦車が登場するに至った。

上記のシエウによると、米軍の砲撃は正確で脅威であった。サイゴン軍兵士は傭兵で、兵士といっても民族意識をもっていたので、解放軍と遭遇すると多くは逃げたという。

南部中央局跡にある「交通壕」(タイニン省)

(5)テト攻勢、「平定」、カンボジア

テト攻勢(1968年)はタイニンでも成功を収めることはできなかった。チョン(男、1934年、タイニン省、中佐)の部隊は、タイニン市の飛行場、ホアビン・ホテルあたりまで進撃したが、持ちこたえることはできなかった。チョンの意見では、テト攻勢の基本的な考え方であった進攻と蜂起の2つは完全には連携することはできず、実際には進攻のみであった。また進攻については極秘で、師団級以上の幹部しか知らず、十分な準備ができなかったという。

テト攻勢後、米軍、サイゴン政府軍による激しい反撃・掃討が展開される「平定」期(1968~70年頃)には解放軍はかなり厳しい状況に追い込まれた。ホア(男、1949年、タイニン省、中尉)は、部隊が一番困難だったのは、敵の掃討が厳しかった1968~70年で、兵士は空腹と塩不足にも悩まされた、と述懐する。ソンジアタインリエン、ナーの部隊はカンボジアに避難していた。クアンの勤務していた南部中央局も1969~70年カンボジアに避難し、71年末・72年初にベトナム領内に戻った。リエンの部隊は1971年まで力を蓄え、1972年から反攻態勢に入った。

タン(男、1945年、ゲアン省、専業上尉)の中団は、カンボジアのロン・ノルによるクーデタ(1970年3月)後、カンボジアに行軍し、ロン・ノル軍を攻撃したという。ロン・ノル政権になっても、カンボジア領内から米などの補給は続いた。ロン・ノル政権はベトナム国境地域を完全にはチェックできなかった。シハヌークの裏切りもあった。シハヌークは「中立化」政策を採り、解放軍のカンボジア領内通過を黙認していたが、クーデタ直前には、カンボジア領内のベトナム国境地方での解放軍に対するアメリカの爆撃を認めていた、という。

南部中央局経財委員会烈士の名を刻んだ碑
(タイニン省タンビエン烈士墓地)

(6)「ザップ氏の兵士」と「ディン女史の兵士」:階級と職位

ベトナム戦争の特徴の一つに地方性(地方による違い)がある。その一つに南北の解放軍における階級と職位の違いが挙げられる。たとえば北では副中隊長は准尉クラスであるが、南では上士クラスに相当するという違いのように。フオック(男、1942年、ロンスエン省、大尉)によれば、「ジャングルで戦っている頃、自分は大隊長だったが階級は上士に過ぎなかった。その頃、人々はよく言っていた。こちらのディン女史の兵士(lính của bà Định)は階級がなく、あちらのザップ氏の兵士(lính của ông Giáp)は階級があると。ベトナム戦争終結時まで私は上士にすぎなかった」と。ディン女史とは南部ベンチェー省出身の南部解放軍副司令官のグエン・ティ・ディンであり、ザップ氏とは北ベトナム国防相のヴォー・グエン・ザップ大将のことである。南の地方軍の兵士は北の兵士に比べて階級が相対的に低いということをここでは言っている。同じ解放軍で南北の意識があり、このような違いがあったことを確認しておきたい。フオックは「こちらでは階級を気に留めなかった。どっちみち戦闘し、給料はなかったのだから」と述べている。

タイニン省隊の兵士だったクアン(男、1943年、ティエンザン省、上士)は、昇格はあったが正規部隊のようではなかった。職位はあるが、階級はあまり問題とされなかった。「大隊長クラス」というと中尉の意味であるが、単に「大隊長」だと必ずしも中尉ではなかった(それ以下の階級のこともあった)。ジャングルで戦っている頃は階級のことはいわなかったが、ベトナム戦争終結後になっていわれるようになった。

タン(男、1945年、ゲアン省、専業上尉)は軍医で階級がなかったが、退職間近になってその階級制度ができ、「専業上尉」となった。

タム(男、1944年、タイニン省、元兵士)は、ゲリラや地方部隊の兵士だったが、除隊する時に階級がなかった。戦争中は解放のことを考えていただけで、階級のことなど気にかけなかった、と述べた。

この聞き取り調査の相棒であるダイ氏も、メコンデルタで戦っている時、部隊内で階級名をつけて呼び合うことはなく、階級のことはあまり気にしなかったという。北ベトナムでは、1958年に軍隊の階級が体系的に整備されるようになった(Từ Điển Bách Khoa Quân Sự VIệt Nam, 839頁)。階級制度が整備されてまだ日が浅かったというせいもあろう。旧日本軍のような強い縦の人間関係、陰湿ないじめなどの話を解放軍についてはあまり聞かないが、それが兵士間の平等性を示すものなのかどうか、単に緩やかな組織だったのか今後も検討していきたい。また、戦中と戦後で階級の受け止め方が変わったことも検討課題である。

筆者注:なお、長年ベトナム戦争に参加したのにもかかわらず、制度を受けていない人に対して、「抗米救国抗戦に直接参加したが、党と国家の制度をまだ享受していない対象に対する制度・政策に関する」政府首相決定290号(2005年)と「軍隊内で20年以下工作をし、復員・除隊して地方に帰った、抗米救国抗戦に参加した軍人に対する制度実現に関する」政府首相決定142号(2008年)が出されている。前者は主に南部で長く従軍した人で何も制度を受けていない人を対象とし、後者は北の人に主に適用されるものである。

南と北ということでいうと、ベンチェー省出身のナーが、「北の人は学がある。南の人は地理に詳しいが技術が限定的」と述べているように、北の人と南の解放区の人(都市部は除く)では歴然たる学歴差があった。地方部隊も最初はすべて地元の人であったが、後に北からの兵士が補充されるようになった。

北に「集結」した南出身者クアイは、「この戦争の最初は我々に勢力がなかったので悲観していたが、1972年になってようやく、北に軍団が設立されることになり、南部を解放する準備だと知った」と述べている(筆者注:最初の軍団、第1軍団が成立したのは1973年)。そして「北部がなければ南部を解放できなかった」と述べている。

以下はおまけ部分であるが、今回、ソンチョンのインタビューをしている時に、" bể " といわれる兵士が存在していたことを知った。この言葉は南部弁で「恐れる」という意味らしいが、戦闘意志がなく、戦闘に参加しないが、敵側につくわけでもなく、部隊内にいつづけていた兵士だという。相棒のダイ氏の部隊にもそういう兵士がいて、現在でも交流があるという。旧ソ連軍のように督戦隊がベトナムの解放軍があったのかどうか不明だが、 このような兵士が存在できたことは興味深い。

                      (タイニン省後編 了)











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