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Ⅰー22. 主要な戦場ではなかった中部最南端の戦争の記憶:ニントゥアン省

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(22)
★2012年2月27日~3月10日:ハノイ市、ニントゥアン省、ホーチミン市

見出し画像:ニントゥアン省の原発建設予定地だったところ。
2010年に日越両政府は第二原子力発電所建設で同意したが、2016年にベトナム政府は同計画の中止を決定した。

はじめに

今回は、東日本大震災の福島第一原発事故により、原発建設問題で揺れているニントゥアン省で聞き取り調査をおこなった。

ニントゥアン省は南中部沿海地方にあり、1976年から1991年までトゥアンハイ(Thuận Hải)省に属し、中部の最南端に位置していた。1991年にニントゥアン(Ninh Thuận)とビントゥアン(Bình Thuận)の2省に分かれた。(1976年以前は、ニントゥアン、ビントゥアン、ビントゥイの3つの省があった)。

軍区的には、現在、ニントゥアン省は第5軍区に属しているが、ベトナム戦争中は第6軍区に属していた。

ニントゥアン省の公式ホームページによれば、2022年の同省の総人口は59万8683人。総人口のうち、キン族が75.6%、チャム族が13%、ラグライ族が11%を占めている。同省はチャム族が居住する所として有名だが、ラグライ族もそれに匹敵するほどの人数が居住している。

2012年2月27日に日本を出発して同日にハノイ市着。2月29日にハノイ市を飛行機で発ち、カムラン空港に。そこから車でニャチャン市に移動し、知人とランチをした後、ニャチャン芸術文化短大を訪問。その後、ニントゥアン省のファンラン市に向かい、同市のホテルに投宿した。3月1日~3日まで、ニントゥアン省退役軍人会事務所において、13人にインタビューした(このうち1人は番外で枯葉剤被害者)。3月4日には同省バックアイ(Bác Ái)県フオックチュン(Phước Trung)社のラグライ族の村に行き、ラグライ族の元ゲリラにインタビューした。

原発建設予定地近くの漁港

3月5日には原発建設予定地近くの丘に登り、見出し画像などの写真を撮った。予定地近くの漁港に立ち寄り、昼食。実に風光明媚なところであった。帰路、ニンハイ(Ninh Hải)の町で元南ベトナム大統領グエン・ヴァン・ティエウの生家を訪れた。周囲の民家と比べれば立派だが、それほど大きな家ではなかった。そこからちょっと離れた浜辺にある避暑静養所に足をのばした。ここで1975年にティエウ大統領はサイゴン軍の中部高原撤退を決めたそうである。

元南ベトナム大統領グエン・ヴァン・ティエウの生家

3月6日、退役軍人会事務所と同じ建物にあるニントゥアン省枯葉剤被害者の会を訪問し、同会主席と副主席のお話をうかがう。その後、車でニンフオック(Ninh Phước)県に行き、2人の枯葉剤被害者にインタビュー。帰途、チャム族の陶器製造所に寄り、見学。同日午後、退役軍人会事務所にて総括式をおこなう。

3月7日、ファンラン市を発ち、カムラン空港経由でホーチミン市へ。武内先生の調査グループに合流。翌日、広南仏堂とチョロンの蔵霞洞永安堂を訪問調査。3月10日、帰国。

今回の聞き取り調査では、枯葉剤被害者以外に、13人の元退役軍人にインタビューできた。全員がニントゥアン省在住者の男性で共産党員であり、当地でのベトナム戦争を牽引してきたリーダー達である。13人のうち、地元ニントゥアン出身者が8人、それ以外の南部出身者1人、北部出身者4人である。北部出身者はいずれも、私が言うところの「戦争移住者」である。またニントゥアン出身者8人のうち、5人は1954年ジュネーブ協定後に北部に「集結」していた人たちであり、あとの2人もベトナム戦争中に1人は北部で、あと1人は南部中央局で勉学している。

以下は13人の一覧であるが、記載は名前(ファーストネームのみ)、生年、出身地、入隊年(南部出身者の場合は武装勢力に入った年)、入党年、最終階級、の順である。順番はインタビュー順。
①.メン、1931年、ニントゥアン省、1947年、1950年、大佐、北に集結
②.ギエム、1939年、タインホア省、1959年、1967年、少佐
③.ロン、1930年、ニントゥアン省、1948年、1950年、少佐、北に集結
④.ギア、1948年、ベンチェー省、1962年、1967年、中佐
⑤.ドー、1934年、ニントゥアン省、1950年、1961年、少佐、北に集結
⑥.ドアン、1930年、ニントゥアン省、1946年、1950年、?、北に集結
⑦.クアン、1949年、ハイフォン市、1966年、1970年、中佐
⑧.マイン、1929年、ニントゥアン省、1947年、1950年、大尉
⑨.カン、1945年、ゲアン省、1963年、?、中佐
⑩.クエ、1944年、ハバック省、1968年、1964年、大佐
⑪.フン、1938年、ニントゥアン省、1954年、1960年、少佐、北に集結
⑫.ラン、1935年、ニントゥアン省、1962年、1965年、上尉
⑬.チャマレ、1935年、ニントゥアン省、1959年、1967年、なし

ニントゥアン省退役軍人会事務所

1.ニントゥアン出身で北に「集結」したことのある人

(1)抗仏戦争から「集結」まで
インタビュイー13人のうち、この類の人は5人いる。これらの人は1954年のジュネーブ協定後に所属部隊ごと北部に「集結」している。ということで、当然のことながら、抗仏戦争には参加していた。

メン(①)は1947年に入隊。1950年から戦闘に参加し、翌年には小隊の副隊長を務めた。抗仏期、兵士の衣服や寝具は自前で軍からの支給はなかった。軍区は爆薬、手りゅう弾、米を支給したが、米は部隊には回らず、部隊の食べ物は普通はキャッサバで、民からの供給に頼った。衣服や銃は敵のものを奪った。第812中団に所属し、「集結」ではヴンタウからフランス船で北上し、タインホア省サムソンに上陸した。
ロン(③)は1950~53年に「突撃公安」にいて、メンと同じく1954年に第812中団で北に「集結」した。

ドー(⑤)は1950年に入隊した。郷里にはチャム人もいるが、部隊に入ったチャム人はとても少なかったという。1953年頃には部隊の陣容も整っていた。1954年に北に「集結」した。

ドアン(⑥)は1946年に入隊。「南進」運動参加者に勧誘されたのが契機であった。1949年に第212大隊ができた。1950年、ビントゥアンの第81・82連合中団の所属になった。同年なかば、第812中団に異動。1951年にいったんニントゥアンに戻り省隊に入ったが、51年末・52年初に第212大隊が損耗により2個中隊足らずになってしまったので、同隊に補充された。1954年、北に「集結」。

フン(⑪)は1954年に入隊し、何度か戦闘を経験した後、同年に北に「集結」した。第812中団に所属。

以上の5人のほかに抗仏戦争を経験しているのは、インタビュイー最高齢のマイン(⑧)である。彼は1947年に第81中団の兵士になった。衛生・看護を学び、ニントゥアン省隊に異動した。ジュネーブ協定後は当地にとどまった。

以上に見られるように、ニントゥアンでは抗仏期において、武装勢力として中団、省隊が成立していた。抗仏戦争が停戦となり、第812中団全体が北に「集結」するなど、正確な割合は分からないが、当地のほとんどの兵士が北に「集結」し(マイン⑧のような例もあるが)、まとまった部隊は当地には54年以降残ってはいなかったと思われる。

(2)南部への出征と武装勢力の構築(1965年まで)
武力による南部の解放を決めたベトナム労働党の15号決議(1959年)後、北に「集結」していた南の兵士たちの南部への出征が始まった。彼らはニントゥアンに到着すると山のジャングルに潜み、武装勢力の構築を図っていった。

おそらく第6軍区への最初の出征団に入っていたと思われるのがドアン(⑥)である。彼は1959年初に人民軍隊の政治総局と第2総局に呼び出され、打診を受け、同年2月からそのための一対一の極秘裏の研修を受けた。出発前、ホー主席の訓示があった。出征団は、カインホア、ダクラクの人とドアンの3人で、あと付き添いがいた。1959年6月15日にハノイを出発した。同年末、ニントゥアン着。
ドアンは、ダクラクに接するバックアイ(Bác Ái)の山中で武装勢力構築に着手した。1962年、ドアンはニントゥアンで最初の軍事情報委員長となった。

メン(①)は、1960年5月にハノイに行き、研修を受けた後、同年8月に南部に出征した。出征団は12人であった。出征前、チャン・ヴァン・ヴィン中将にこう言われた。「食糧は自ら耕す。補給はなし。弾薬は敵のものを奪って装備する。兵士は人民のなかから青年を引き抜き革命側につかせる」。とニントゥアンには同年11月に到着した。
到着するや、兵士集めに奔走し、1960年12月に18人の部隊を組織した(集結者6人、平野部のキン族6人、少数民族6人)。1961年9月に北から来た第82中団のうちの31人が加わり、第305大隊となった(メンは副大隊長)。食糧は自給しなければならなかった。1962年末・63年初、小隊クラスの幹部の訓練が始まった。メンは1965年なかばまで南部解放軍司令部で1年間学び、修了後に第270大隊の政治員になった。

ロン(③)は1960年10月に1個中隊(30人余り)で南部に出征した。ニントゥアンに着いたのは1961年1月で3か月かかった。一団は第6軍区各省に振り分けられ、ニントゥアンは2人だけだった。
ニントゥアンに着くと、軍隊はなく、村の青年を動員しなければならなかった。山中に住み、トウモロコシも十分に食べられない食糧不足で、ラグライ族に助けてもらうと同時に、自給のための食糧生産隊を組織した。

フン(⑪)は1960年3月頃に南部出征命令を受けた。出発時は不明であるが、ゲアン省からニントゥアンまで6か月かかった。
ニントゥアンに帰ってきた時(おそらく1961年1月~同年9月の間)、部隊は1個中隊があるだけだった(ロン③もその中にいた)。フンの部隊(おそらく第82中団)が加わり、第305大隊が成立した。この大隊が成立後、敵掃討と戦略村破壊の戦闘が活発化した。

ドー(⑤)は1961年に中団ごと南に戻った。途中、ラオスでは戦闘もおこなった。
ニントゥアンに戻り、ニントゥアン最初の部隊・第305大隊に配属された。この大隊は、北部集結者、平野部のキン族、少数民族から成り、約130人いた。ドーはこの大隊の独立小隊の小隊長となった。1963年末、省隊の第315大隊の大隊長になった。この大隊の多くは少数民族だった。その後、ロン(③)が大隊長をつとめる第305大隊に配属になった。ドーが副大隊長だった。このロンとドーのコンビは戦闘で大活躍し、敵から恐れられた。

このように北に「集結」していたニントゥアン出身の兵士たちは1959年から南に戻ってきた。北部にとどまった人も少数いるだろうが、ドー(⑤)が中団ごと南に戻ったと言っているように、ほとんどの兵士は1960年代前半までに南に戻ってきたのではないかと推測される。

省都ファンラン市内の公園

2.ニントゥアンおよびその他の南部の出身者

上述の北部集結者の5人以外にニントゥアン出身者は3人、その他の南部出身者(ベンチェー省)が1人いる。

マイン(⑧)は前述したように抗仏戦争から参加していたが、抗米期にニントゥアンで1960年2月に成立した最初の武装勢力10人のうちの1人であった。1964年にはニントゥアンの兵站副委員長、軍医主任となった。

ラン(⑫)は1962年に省隊に入り(ロン③の部隊)、多くの戦闘に参加した。1965年には特殊部隊に引き抜かれた。1967年の戦闘で戦功をあげ、「滅米勇士(Dũng Sỹ diệt Mỹ)」の称号を授与された。
ランは1973年のパリ協定後、北部に行き勉学した(1975年4月まで)。その時は、1972年12月31日にタイニンを出発し、ホーチミン・ルート西ルートを通って、1973年3月8日にハノイに着いた。

チャマレ(⑬)はラグライ族であるが、1959年に村(thôn)のゲリラに参加した。村のゲリラは12~20人で、最初は銃はなく弩だけが武器だった。銃が入手できるようになったのは1961・62年頃。彼の言い方によれば、県レベルの武装勢力ができたのが1960年、省レベルが1961・62年、軍区レベルが1968年だという。
チャマレは、1973年、南部中央局で社隊幹部クラスの研修を受けた。

以上の3人はニントゥアン出身であるが、ギア(④)は南部ベンチェー省出身である。彼は第9軍区のウーミンの森で生まれ、1962年に入隊し、1964年には南部解放軍の主力軍に所属していた。1965年9月に、他の40人ぐらいの南部人とともに特殊部隊隊員としてニントゥアン省隊に補充された(補充された人のうち75年まで生き残ったのは3人だけだという)。

15号決議が出された1959年から米軍の直接軍事介入が強まる1965年まで、ニントゥアンにおける武装勢力は主に地元の人々によって形成された。ほぼゼロの状態から再構築され、北からの集結者、少数民族(主にラグライ族)、平野部のキン族によって構成された。部隊は大隊を編成するまでになっているが、実質的に大隊規模であったのか疑問が残る。

ラグライ族のチャマレ(⑬)が住むバックアイ県フオックチュン社

3.北部の出身者たち

インタビュイー13人のうち、4人が北部出身で現在はニントゥアン省に在住している「戦争移住者」である。

ギエム(②)はタインホア省出身で1959年3月に入隊している。おそらく北ベトナム最初の「軍事義務」による徴兵である。1962年4月に徴兵義務を終え、いったん除隊している。1965年1月に再召集され、1966年1月に再入隊した。第610小団に配属。1966年12月に南部に出征し、ホーチミン・ルートを行軍し、1967年7月にニントゥアンに着いた。同年9月に最初の戦闘に参加し、翌年のテト攻勢にも参加した。1968年10月、ニントゥアン省隊に配属になった。
ギエムによれば、ニントゥアンに北の部隊が来たのは、1965年にハタイ省の小団(第207小団?)が最初。ギエムの第610小団は2番目。その翌年には特殊大隊が来たという。北からの補充部隊の来るタイミングが遅く、規模も大きくないのは、ニントゥアンが重点戦場とされていなかったからだという。

クアン(⑦)はハイフォン市出身で1966年に入隊。軍事義務法では満18歳で徴兵となっているが、志願すればそれ未満でも入隊できた。クアンは最初に第320B師団・第3中団・第1小団(第610小団?)に配属された。この小団は主力師団に属していたため、通常の2倍の規模があり、小団は約700人、大隊は約200人いた。1966年12月に南部への出征命令が出た。途上のホーチミン・ルートでは多くの人がマラリアで亡くなった。ニントゥアンには1967年7月に到着。出発時と到着時が上のギエムと同じなので、クアンもおそらく同じ第610小団に属していたと思われる。
1967年11月、第6軍区は、ニントゥアンの既成部隊と第610小団を合併して再編成した。クアンは特殊大隊に配属になったが、その後負傷して、1970年5月からはニントゥアン省隊の会計担当に転じた。第610小団は南部出征時には約700人の兵士がいたが、ベトナム戦争後に生き残った人は200人余りにすぎないという。
クアンは、南部出征前は南部がまもなく解放されると思っていたが、戦場に来て犠牲が多いのをはじめて知った、と語っている。

クエ(⑩)はハバック省クエヴォー市(現バクニン省)出身。1960年に青年突撃隊に入り、ターイグエン鉄鋼区建設に従事。総動員令に基づき、1968年6月に入隊。1969年に南部に出征し、第6軍区司令部の防衛にあたった。1971~75年まで特殊大隊の政治員としてビントゥイで戦闘し、戦後の1976年にニントゥアン、ビントゥアン、ビントゥイの3省が合併してトゥアンハイ省が成立すると、トゥアンハイ省隊に所属し、退役まで勤めた。

カン(⑨)はゲアン省出身で1963年7月に入隊。この時は高校生を入隊させた最初だという。1964年から第4軍区のゲアン省隊、その後第341師団に属し、北中部の海岸防衛にあたった。1971年、南ベトナムの東南部へ向かった。途中のホーチミン・ルートでB52の爆撃にあい、1600人の部隊の40%しか残らなかったという。タイニン省に辿り着くまで6か月を要した。到着後、カンは南部各省で戦うが、ニントゥアンでの戦闘経験や勤務経験はない。
1988年にカンは退役するが、故郷ゲアン省での生活が苦しいため、ニントゥアンに移住し、坊(phường)の党書記を務めた。その意味で厳密には「戦争移住者」とはいえない。カンの移住にあたっては、1981年10月の閣僚評議会指示110号「県級と基礎級の幹部の増強に関して」や1983年8月の政府指示214号「県級・基礎級の政権幹部隊伍の健全化継続に関して」が関係しているのではないかと思われる。またそれより以前、ラン(⑫)も「県級政権を増強する指示」で1978年に民政部門に異動している。フン(⑪)も1987年から数年間、「県級の増強」の指示で民政機関に勤めた。これらの指示は、戦後の兵員の削減や地方の行政・治安の安定化をねらいとしていたのではなかろうか。

以上、北部出身者がニントゥアンに来た経緯を見てきたが、メン(①)ロン(③)の証言でも、北部からニントゥアンに補充の部隊が来たのは、1965年の第207小団が最初であった。その陣容は1個工兵中隊と2個特殊小隊、さらに少数民族の1個中隊があり、武器はDKZと迫撃砲を備え、メンが政治員を務めた。北からの武器もホーチミン・ルートを通して1965年から入るようになった。マイン(⑧)によればニントゥアンは海のホーチミン・ルートからは外れていた。チャマレ(⑬)も、北の兵士と初めて会ったのは1965年だと述べている。ロン(③)によれば、第207小団が補充されたので、1966年3月にニャーティエンレーを攻撃できた。次いで1967年に第610小団、1968年に特殊大隊などが補充されるようになった。ただ、ニントゥアンは主戦場ではなかったので、中部高原、東南部、西南部への支援と比べると支援は薄かった。

「祖国ベトナムの神聖なる海・島の主権を断固として堅持する」

4.1965年から1975年までの戦い

この時期のニントゥアンでの戦争について特徴的な点や踏まえておくべき点について挙げていきたい。

◆米軍による空爆はニントゥアンにも勿論あったが、メン(①)によれば、B52による爆撃は2度しかなかったという。これも主戦場ではなかった証左の一つである。

◆主戦場ではなかったため、北からの支援は薄く、自力更生を余儀なくされた。北から来た部隊の兵士以外は衣服の支給はなく自前で、ギア(④)は長ズボンを少数民族の人と交換してしまったため、3年間、短パンで過ごした。食糧は兵士の食糧生産隊や少数民族などに頼らざるをえなかった。

◆ニントゥアンにはサイゴン政府軍、米軍以外に韓国軍も駐屯し、主に飛行場の防衛をおこなっていたので、韓国軍との交戦の記憶が存在している。あと少数ではあるがフィリピン兵もいた。

◆戦闘は反掃討と戦略村破壊の2つが多かった。これらは歩兵が中心的に担い、米軍陣地の攻撃は特殊部隊が主におこなった。米軍との戦いでは、手りゅう弾で攻撃する特殊部隊のやり方を用いた。

◆1968年のテト攻勢は、ニントゥアン省内の地方での攻撃はあったが、解放軍の力不足で中心都市ファンラン市やファンラン飛行場を攻撃できなかった。したがってテト攻勢後の敵による激しい反攻や平定・弾圧もなかった。

◆1975年4月には特に大きな戦いはなく、ドー(⑤)が率いる部隊がニントゥアン南部のフークイを攻撃し、ギア(④)率いる部隊がタップチャム・ファンラン市を攻撃し、タインソン飛行場を占拠し、4月16日にニントゥアンを解放した。ギアの部隊はサイゴン政府軍の空軍司令官の中将と准将を捕えた。

◆ニントゥアンにおける解放勢力側の中枢は、省党委と省隊であった。敵はこの2機関の在り処を執拗に捜索した。それで省党委はビントゥアンへ、省隊はトゥアンアム県に分散したこともあった。南ベトナム民族解放戦線や臨時革命政府の人員もいたが僅かで、省党委や省隊の人が掛け持ちすることが多かった。

チャム族の陶器製造所

5.少数民族に関する記憶

ニントゥアンの主要な少数民族としてはチャム族とラグライ族がいる。今回のインタビュイーの話によると、チャム族は抗仏戦争、抗米戦争の両方において解放勢力側への参加が少なく、サイゴン政府側にも就こうとしなかったとのことであった。その理由についてメン(①)は、チャム人には、焼かれることも埋葬されることもなく死ぬと一族に災厄をおよぼすのを恐れる風習があるからではないかとしている。チャム人の解放軍兵士が少なかったことは、ニントゥアン省退役軍人会の会員数は7000人近くいるのに、そのうちチャム人は数十人しかいないことでも明らかである(調査時)。

一方、ラグライ族と解放軍との関係はより密で、多くのラグライ族が解放軍に参加した。ラグライ族の戦士として有名なのはピナン・タック(Pinăng Tắc:1910ー1977)で、ファンラン市には彼の名を冠した通りがある。チャマレ(⑬)は村のゲリラであったが、その村のゲリラはバックアイ県一番のゲリラだったので特別に全員AK銃を装備していた。1969年には、米軍機7機を撃墜し、人民武装勢力英雄の称号を授与された。戦争でチャマレの村の生活は大きく変わった。戦争中は衣服は褌が主だった。1968・69年頃に敵が残していった大量の砂袋の袋で衣服を仕立てるようになった。戦後直後の1976年に山の上から現在地に下りてきて、稲作もするようになったという。

ベトナム戦争終結後も戦争は終わらなかった。メン(①)カン(⑨)フン(⑪)はカンボジアで、ギア(④)ドー(⑤)フン(⑪)はFULRO(被抑圧民族闘争統一戦線)との戦闘に従事した。カンは第479戦線に属してカンボジアに9年間いた。「戦線」は軍団より規模が大きく、第479戦線は8個師団と専門家約1万人を擁していた。
ドー(⑤)は、第610小団の小団長として、1979~80年、FULRO鎮圧に従事した。敵の多くはチャム族とラグライ族だったという。戦った相手にはヤ・ドゥック(Ya Duck:コホー族)がいた(注:その後どのような経緯を経たのか不明だが、ヤ・ドゥックはラムドン省祖国戦線副主席、ラムドン省選出国会議員になっている)。フン(⑪)はベトナム戦争中からFULROと戦ったという。1973年か1974年頃、「自主高原」を掲げる1個中隊がラムドン省で立ち上がったが、フンの部隊はこのレンジャー中隊を殲滅したという。

省都ファンラン市の海水浴場

おわりに

主要な戦場ではなかったニントゥアンは、解放軍の地元勢力の自力更生性が高かったとはいえ、北からの支援なしでは戦いを継続し勝利することはできなかったであろう。

大規模な戦闘や空爆がなかったニントゥアンではあるが、枯葉剤は1961年から1965・66年頃まで散布され、その被害者が存在している。ニントゥアン省枯葉剤被害者の会の主席によれば、調査時、同省の枯葉剤被害者は4800人余りで革命功労者による支援の対象となっているのが約2000人(革命側で戦闘した人、およびその子弟)で、残りの2800人は社会保障と赤十字による救済がなされている(革命功労者による支援より待遇が低い)。枯葉剤被害者を革命功労者と社会保障対象者の障がい者に二分することについては議論中だと聞いた。

調査当時はまだ原発の建設中止が決定する前であった。インタビューした退役軍人との話でこのことも話題になった。表立った建設反対意見はなかったが、懸念する声は強かった。
                          (了)





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