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Ⅰー27. ベトナム戦争中のサイゴン市内工作:ホーチミン市(1)(前編)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(27)
★2013年12月19日~12月29日

見出し画像:ホーチミン市枯葉剤被害者の会の表札

今回は、ホーチミン市での聞き取り調査の結果をお届けする。聞き取り調査の対象は、4つのカテゴリーに属する人々、合計13人である。いずれも解放勢力側で、①枯葉剤被害者、②戦争中にサイゴン市内の工作に従事したベテラン党員、③女性捕虜、④青年突撃隊、である。

調査日程は以下の通り。
12月19日:日本を発ち、ホーチミン市へ。中心部のホテルに投宿。
12月20日:終日、人文社会科学大学のシンポジウムに参加し、発表。
12月21日:午前、人文社会科学大学の語文科とベトナム学科を訪問。お昼は  
     同大学主催のお別れパーティー。
12月22日:午後、ダイ氏と合流。
12月23日:午前、市の労働局、枯葉剤被害者の会の事務所、青年突撃隊元隊
     員会の事務所に表敬訪問。昼食は被害者の会の事務所にてご馳走
     になる。午後、同事務所にて、2人にインタビュー。終了後、ホ
     テルを中心部のホテルから同事務所近くに変える。
12月24日:被害者の会の副主席の自宅にて、3人にグループ・インタビュ
     ー。午後、ダイ氏の友人とヤギ肉屋へ。その後、午前中にインタ
     ビューしたトン氏の自宅を訪問。
12月25日:午後、被害者の会の事務所にて、4人にインタビュー。
12月26日:被害者の会の事務所にて午前1人、午後2人にインタビュー。
12月27日:被害者の会の事務所にて午前1人にインタビュー。午後、中心部
     のホテルに戻る。
12月28日:終日、資料読み。夜、留学中の学生4人と夕食。
12月29日:資料読み、買い物など。深夜便にて帰国。

今回聞き取りをした人の一覧は以下の通り。データは、左から順に、名前、性別、生年、出身地、入隊年(革命参加年)、入党年、備考、である。順番はインタビュー順。

①ラム、男、1938年、ニンビン省、1965年、?、枯葉剤被害者
②ニャット、女、1936年、ロンアン省、1954年(党活動)、枯葉剤被害
 者・市の被害者の会の副主席
③バイ、女、1944年、市内クチ県、?、1965年、諜報機関で「兵運」工作
④トン、男、1940年、ティエンザン省、1956年(学生運動)、元ホーチミ
 ン市司法局局長
⑤エム、男、1945年、市内クチ県、1962年、1963年、死刑判決囚
⑥タム、女、1950年、ベンチェー省、1961年(革命参加)、1968年、元
 ホーチミン市スポーツ文化局副局長
⑦ミン、女、1948年、市内クチ県、1960年(革命参加)、1967年
⑧ベー、女、1946年、?、1964年(革命参加)、1968年、別動隊
⑨ビン、女、1952年、市内第9区、1968年(革命参加)、1974年
⑩ヒュウ、男、1949年、ティエンザン省、1968年(青年突撃隊)、1971
 年、元最高裁判事
⑪ティエン、男、1944年、市内クチ県、1964年(青年突撃隊)、1966年
⑫ホアン、男、1948年、カマウ省、1967年(青年突撃隊)、1970年
⑬スアン、女、1949年、カマウ省、1962年(革命参加)、ホーチミン市青
 年突撃隊元隊員会主席

重複もあるが、①と②は枯葉剤被害者、②~⑥はベトナム戦争中にサイゴン市内の工作に従事したベテラン党員、⑥~⑨の4人はビンディン省フータイの女性捕虜収容所に収監されていた女性たち、⑩~⑬は南部の青年突撃隊隊員だった人たちである。

ホーチミン市枯葉剤被害者の会の事務所前のチャン・フン・ダオ通り

1.ホーチミン市における退役軍人の組織

さて本題に入る前に、本節標題の件につき、少し触れておきたい。今回の調査は当初、ホーチミン市の退役軍人会に対しておこなう予定であった。しかしホーチミン市の退役軍人の組織についてのナーバスな問題もあり、諦めざるをえなかった。首都ハノイ市では退役軍人会は強力な組織で、2023年末で28万人近くの会員を擁している(Kinh tế & Đô thị 06-12-2023)。一方、ベトナム最大の都市ホーチミン市の退役軍人会は、2022年で会員数が7万人近くにとどまっている(Trang Tin Điện Tử Đảng Bộ Thành Phố Hồ Chí Minh, 22-09-2022)。ホーチミン市の退役軍人会の会員数が少ないのには、旧南ベトナムの首都であったことともに、戦後の歴史的経緯が関わっている。

ベトナム戦争が集結してから10年ほどした時、南部の抗戦者たちは生活困難な状況のなかでの相互扶助を目的に「元抗戦者クラブ(Câu lạc bộ Những người Kháng chiến cũ)」を自発的に結成し、1986年5月に結成が許可が許可された(1986年9月23日が創立日とされる)。当初、会員は6千人ほどであったが、2年後には2万人に膨れ上がった。活動は会員間の相互扶助から、汚職・権力乱用への反対など政治的なものへと広がり、「立候補制度」への具体的提案もするようになった。1988年9月にはその機関紙に南北の拙速な統一を批判した記事が掲載された。そのため1989年3月、当時のグエン・ヴァン・リン書記長は同クラブの活動停止を求め、主要幹部を収監、自宅軟禁にした。

その間、全国的な「ベトナム退役軍人会(Hội Cựu chiến binh Việt Nam)」が官製組織として1989年12月に設立された。ホーチミン市の退役軍人会は1990年3月に設立されている。一方、活動停止状態にあった「元抗戦者クラブ」は1990年に「抗戦伝統クラブ(Câu lạc bộ Truyền thống Kháng chiến)」と名称を変更し、活動内容から政治改革的要素は除かれて復活した。2013年5月に「ホーチミン市抗戦伝統クラブの組織と活動の条例」が制定され、公表されている(Công Báo Thành phố Hồ Chí Minh, 31-05-2013)。同クラブは2022年末で会員数が3万5千人余りである(Nhân Dân, 28-11-2022)。

このようにホーチミン市には、公認された退職軍人組織が2つ存在している。両者の関係がいかなるものであるのか、今のところ不詳で今後究明していきたい。

枯葉剤被害者の会の事務所入口

2.ホーチミン市の枯葉剤被害者

ホーチミン市には、調査時で約5000人の枯葉剤被害者がいるといわれている。今回は、同市の枯葉剤被害者の会を訪ね、お話をうかがった。

①ラム(男、1938年生まれ)
北部ニンビン省の出身。1959年にタイグエン省に行き、雇われ仕事をしていたが、鉄鋼工場の同郷者の斡旋で正規の労働者になる。給料は約40ドンで、アパート代が18ドンだったので、家に送金する余裕があった。1965年に徴兵検査に合格し、入隊。労働者を6年間していたので、入隊してすぐに中団の小隊長になった(下士)。3か月訓練して、9月に南部へ。ゲアン省ヴィン市の手前まで汽車で、そこからは徒歩でトゥアティエン省のアサウ(A Sầu)まで行った。アソー(A Xo)に着いたのは1966年3月頃。所属部隊は北部では第320B師団と名乗っていたが、南部では第325B師団と名称変更した。

到着したばかりでアソーにて米軍基地を攻撃中に負傷。師団の診療所で治療後、負傷兵として補給の兵器委員会で仕事。米と塩が欠乏し空腹だった。南に行くほど困難になった。南部では補給局に補充され、統計工作、北部からの武器の受け取りに従事した。1969年にフオックロンにいた時はB52の激しい爆撃を受けた。1970・71年はカンボジア(オームの嘴)に避難していた。1975年のホーチミン作戦の時は、負傷兵のため直接戦闘には参加しなかったが、長距離砲団に補充された。同年9月にサイゴンに入り、武器の管理に従事した。

1979年に退役して(中尉)、交通運輸部門に就職。同年、サイゴン出身の女性と結婚した。5人の子どもが生まれたが、3人が枯葉剤被害者。第一子の娘は6か月で亡くなった(1979年)。1980年末、第二子の娘が生まれるが、この子には異常はなかった。1982年と1985年に男の子が生まれたが二人共障害があり、なんとか座れるが、しゃべれず、食べようとしない。リハビリセンターや病院に行っても匙を投げられた。上の男の子は2008年、下の男の子は2012年に亡くなった。その間、2009年に妻も亡くなった。1992年生まれの末っ子には異常はない。

ラムは次のように言う。二人の男の子が亡くなって、彼らと自分にとって肩の荷が軽くなった。子どもの世話で郷里に帰ることもできなかった。恩給と枯葉剤の手当で毎月700万ドン近くを受給している。受給のための書類は十分保管しているが、記載に間違いもあり、行政手続きが煩瑣である。アメリカを恨んだこともあったが、今は違う。国の方針も「友を増やし、敵を減らす」なので。自分は死と紙一重のところで生き残り、幸運だった。

②ニャット(女、1936年生まれ)
南部ロンアン省の解放区の生まれ。祖父母は革命青年同志会の一員で、母はナムキー蜂起(1940年)に参加した革命一家。ジュネーブ協定後、父と4人の弟妹は北部に集結。この時、ニャットはグエン・ヴァン・リン(後の書記長)の秘密工作の手伝いをしており、南部に残った。その後、サイゴン市内でグエン・ヴァン・リンらと活動し、チョロンに住み、仕立て屋をして偽装した。1957年に弾圧が厳しくなり、南部党委とともにプノンペンに避難し、60年にタイニンのジャングルに移動した。1961年にマーダー戦区で南部中央局が設立されたが、ニャットは同戦区の最初の女性だった。その後、同戦区は連絡と補給に難があるため、タイニンの北に移った。ニャットは青年団の書記を務めた。

1965年にアメリカが「局地戦争」戦略をとると、人民解放軍のグエン・チー・タイン大将は都市での運動を重視した。特に市場(いちば)での女性の役割。そこでニャットは1965年にサイゴンに戻り、ビンタイン(Bình Thạnh)のバーチュウ市場でおもちゃ売りをした。おもちゃに秘密の連絡文書を入れられるし、軽くて運びやすかったからである。ところが1966年に逮捕されてしまう。判決は3年の刑であったが、共和国旗に敬礼しなかったことで、コンダオ島を含め7年近く獄中に入れられた。1972年10月に釈放される。釈放後は、青年団、婦女会の仕事をした。ニャットによると、サイゴン市内にあった民族解放戦線の組織のうち、解放労働組合が一番強力に活動していたという。特にVINATEXCOの労働者たち(戦車の轢き逃げ抗議など)。各組織にはそれぞれの別動隊(テロ組織)があり、当時の台湾大使を撃ったのもこのテロ組織の人たちである。

戦後、ニャットは、1999年に中央婦女幹部学校校長を退職後、ホーチミン市枯葉剤被害者の会に参加。同会は2005年に設立され、2013年時点で3000人余りの会員がいる。同市では5000人以上が枯葉剤被害者を対象とした補助を受けている。ニャットは調査時、同会の副主席を務めていた。

ニャット自身は、1965年にクチにいる時に枯葉剤を浴びた。それ以降、流産が続いた。夫も枯葉剤の被害者で1999年に亡くなった。ジュネーブ協定後に北部に集結した3人の弟のうち、1人はクアンチで戦死。あとの2人も出征し、枯葉剤被害者となっている。

3.サイゴン市内の工作に従事したことのあるベテラン党員

③バイ(女、1944年生まれ)
市内クチ県の基地の村出身。1960年、16歳から革命工作に参加した。トンネル掘り、戦闘用バリケード作り、青年従軍運動など。その後、「兵運工作」(敵兵士への調略工作)に従事した。一般的に、サイゴン軍の各師団には解放勢力側諜報機関の「内線」(内通者)がいた。ズオン・ヴァン・ミン将軍(南ベトナムの最後の大統領になった)の弟ズオン・ヴァン・ニャットとは一緒にいたことがあり(後にニャットは北部に集結)、ミン将軍に働きかけをおこなった。サイゴン軍准将のグエン・ヒュウ・ハインも一緒だった。「兵運」は南部革命の特徴で、アメリカが「ベトナム人を用いてベトナム人を討つ」政策を採った時は、それに対抗した。

ヴォー・ヴァン・トン氏

④トン(男、1940年生まれ)
南部ティエンザン省出身。故郷は競合地区で父親はベトミンに参加。トンは、サイゴンの学校に通い、1956年から学生運動に参加。共産党は抗仏期から学生運動を指導していた。トンは1960年に革命根拠地に赴き、民族解放戦線の設立準備に関わった。1962・63年頃、学生の中にテロを実行する武装勢力ができた。1965年に入党し法学部の学生だった時、チン・ディン・タオ(Trịnh Đình Thảo)の平和要求運動に参加し、公開新聞の編集を担当したが、捕まった。その時は執行猶予3年だった。1968年のテト攻勢の時は決死の覚悟で臨み、敵4人に取り囲まれて危うく死ぬところであった。1969年まで、第3区・党委副書記を務め、市内への銃運び込みに従事した。同年、逮捕され、共和国旗への敬礼を拒否し、コンダオ島に送られた(3年間)。獄中では2回のハンガーストライキに参加した。1973年のパリ協定で釈放され、一旦、帰郷したが、また戦区に向かった。解放後、サイゴンの接収と市の1万人近くの公職者の改造を担当した。市の内務局で市政権の組織化をおこなった。その後、畜産技芸会社(VISAN)の社長とホーチミン市司法局局長を務めた。

トンによれば、民族解放戦線(1960年設立)とその後のいわゆる「第三勢力」は、社会の各層の支持を取り付けるための「革命の便法」であった。南ベトナム民族解放戦線は北の共産主義者が指導し、党内に南部用の人民革命党をつくった。トンが入党したのは人民革命党であった。ベトナム戦争中の南部には革命を支援する多くの組織があった。1965年には、平和要求・民族自決要求運動が展開された。1968年のテト攻勢後は、民族・民主・平和連盟(第三勢力)が結成された。パリ会議では革命臨時政府も参加していたので、解放後、南部中央局書記だったグエン・ヴァン・リンは統一ではなく連邦国家を主張していた。しかし党政治局では批判され、リンは政治局員を解任される羽目になった(筆者注:その後、リンは復権し党書記長になり、ドイモイを推進した)。

トンは現在(調査時)、ベトナム国内の民主要求グループに参加し(建議61 Kiến nghị 61)、民主主義の樹立と汚職追放を求めている。戦争中、人々が犠牲精神を発揮できたのは、党の教育と民主主義の実現によっていたのに、今の党はそうなっていないと指摘。党は祖国に奉仕し、党員も祖国に奉仕しなければならず、党が祖国の上にあるのではない、としている。

<後日談>  2016年8月28日付けRFAおよび同年8月29日付けVOAによれば、ヴォー・ヴァン・トンは、同年8月26日から共産党を離党する旨の文書を所属党支部に送付した。文書の中でトンは、国会議員とホ-チミン市市議会議員の選挙に自ら単独で立候補した件で、党支部から「点検」を提案されたことを明らかにし、ベトナム国内で活動している団体組織がベトナムの法律を執行していないのは容認できない、とした。また「以前、私たちは独立国家の解放・統一のために(共産党に)参加した。現在、そのことは成し遂げられた。(中略)今や何の目的も残ってない」と述べた。
・https://www.rfa.org/vietnamese/news/vietnamnews/senior-communist-party-member-quits-08282016091219.html
・https://www.voatiengviet.com/a/nguyen-giam-doc-so-tu-phap-tp-hcm-tuyen-bo-bo-dang-cong-san/3484862.html

⑤エム(男、1945年生まれ)
市内クチ県出身。クチではほとんどの家は抗戦に参加していた。学校卒業後、農業をしていたが、ゴ・ディン・ジェム政権の苛政を憎み、1962年に地方部隊に参加。1965年、サイゴン市内工作(別動隊のテロ)に従事し、旋盤工の労働者に偽装して潜入。エムの組織は大統領選立候補予定者2人(チャン・ヴァン・ザイン、グエン・ヴァン・ボン)を射殺した。暗殺に行く時は、当時登場したばかりのホンダのオートバイに乗って行った。1966年に逮捕され、死刑判決を受けた。1963年に19歳で入党していたが、党員だとは供述しなかった。コンダオ島に収監され、1975年の解放までいた。死刑囚は他の囚人とは別に1人か2人の部屋に入れられた。8年間、手錠をかけられたままであった。獄中にも党組織があり、政治教育がおこなわれ、気概をもって団結して闘争した。
                            (前編 了)






















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