見出し画像

Ⅰー18. 暫定軍事境界線の北と南:クアンチ省

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(18)
★2011年2月28日~3月10日:ハノイ市、フエ市、クアンチ省、ホーチミン市

はじめに:旧南ベトナムの最北端クアンチ省

2011年3月4日~8日にベトナム中部のクアンチ省ドンハー市において、当地の退役軍事・元青年突撃隊隊員を対象にベトナム戦争についての聞き取り調査を実施した。本稿はその結果をまとめたものである。

調査地のクアンチ省は1954年のジュネーブ協定後、省北部を横断するベンハイ川が暫定的軍事境界線とされ、二分された。川の南側(ハイラン県、チエウフォン県、カムロ県、ゾーリン県、フオンホア県とヴィンリン県の一部)は旧南ベトナム側に属し、川の北側のヴィンリン県のほとんどが旧北ベトナムに属すことになった(「ヴィンリン特区」)。クアンチはまさに軍事境界線によって引き裂かれたのである。ベトナム戦争中のクアンチで最も名高い戦いは、双方が多数の戦死者を出した1972年のクアンチ城の激戦(1972年6月28日~1973年1月31日)である。第一波(1972年6月~9月)では、解放軍はクアンチ城を81日間死守したが、サイゴン政府軍の反攻により9月16日にクアンチ省南部を横断するタックハン川北側への撤退を余儀なくされた。第二波(1972年9月~1973年1月)では、サイゴン政府軍はドンハー市に向けて進攻し、失地を回復しようとしたが、解放軍はタックハン川の両岸でサイゴン政府軍を阻止した。クアンチ省のタックハン川以北はベトナム戦争終結以前にいちはやく解放されていた。

暫定軍事境界線区域の地図

1.クアンチ省でのでの聞き取り調査


2011年2月28日、渡越しハノイ市着。3月2日、ハノイ市からフエ市に移動。3月3日午前、フエ外国語大学において漢越語に関するセミナーを開催。同日午後、クアンチ省ドンハー市に移動し、同省人民委員会に挨拶。ドンハー市内のホテルに投宿。翌4日より聞き取り調査を実施(8日まで)。

聞き取り調査は、ドンハー市退役軍人会と同市元青年突撃隊隊員会が紹介してくれた13人、偶々出会った元サイゴン政府軍兵士1人を対象におこなった。うちわけは、男性の退役軍人11人、女性の元青年突撃隊隊員2人、元サイゴン政府軍兵士1人である。全員が現在ドンハー市在住で、1人を除いてクアンチ省出身である。聞き取り調査のほとんどはインタビュイーの自宅でおこなった。元サイゴン軍兵士1名については、ドンハー省退役軍人会幹部同席のもとで聞き取り調査を実施し、本人が録音・撮影を拒否したので、聞き取りのメモによりまとめた。なお、軍隊の単位名はベトナム語をそのまま訳しているが、「中団」、「小団」、「大隊」、「中隊」は、一般的にはそれぞれ連隊、大隊、中隊、小隊に相当する。インタビュイーの名前は仮名。

2.聞き取り調査の内容

カウ氏(写真右)

(1)カウ(1927年生まれ、軍隊在籍期間:1950~1968年、入党年1958年、最終階級:中尉)

クアンチ省チエウフォン県チエウアイ社出身。出身地は抗仏期には解放区であった。49年に社のゲリラとなり、翌50年には県の第335大隊に、53年にはクアンチ省の第230小団・第14大隊に入隊。54年7月、停戦になると、フランス軍捕虜をクアンチ省から北部のハティン省まで何度か連行した。捕虜は1回に10~20人で黒人の傭兵が多かった。

1954年8月19日に部隊は「集結」のため北部へ向けて徒歩で行軍を開始した。「集結」後、クアンチの革命勢力はごく僅かになってしまった。行軍は朝3時に出発し、北部のハティン省キーアインに9月2日に到着。中国の毛沢東から部隊の一人一人に肉1缶と煙草半箱が贈られた。9月15日にヴィン市に到着。小団からカウを含む4人が選ばれて、ヴォー・グエン・ザップ将軍と面会し、10月10日のハノイ解放を目指して向かう。ハノイ市を接収したのは5個師団。カウは第350師団に属し、バックマイ飛行場を接収した。

1954年11月23日に党中央と民主共和国政府はハノイに戻った。カウは、ホー・チ・ミン主席の防衛にあたる第350師団・第600中団に異動し、外国首脳を迎えるのが任務の第2大隊に配属された。北ベトナム政府は58年に8万人の兵員削減を図った。カウは軍隊に残り、65~67年にはソンタイの士官学校で学んだ。しかし68年に循環器系の病気に罹り、退役。化学工業総局に異動した。組織室長となったが給料は80ドンで、軍隊の中尉時代の88ドンより減った。

1972年、B52による北爆は激しかった。カウの家族は二つに分かれ、カウと二人の子どもはフート省に疎開し、妻と他の二人の子どもはハノイの自宅に残った。爆撃は熾烈で、家族の生死がわからず、あらゆる物が不足し、生活は苦しかった。カウは化学工業総局の自衛民軍小団の小団長となり、高射砲や歩兵銃で敵機を攻撃した。74年に退職し、79年にクアンチに戻ってきた。

ロック氏

(2)ロック(1928年生まれ、軍隊在籍期間:1946~1979年、入党年1948年、最終階級:大佐)

クアンチ省チエウフォン県チエウチュン社出身。生まれ育ったのはカムロ県で少数民族が居住している地区。父親はそこで教師をしていた。カムロで通った学校ではフランス語で授業を受けた。17歳の時(1945年)、当地に日本軍1個小団ほどが駐屯した。日本軍はベトミン側に銃を引き渡し、日本人兵士15人ほどが「衛国団」に入り、クアンチ市で小隊幹部に武術を数か月教えた。ロックはクアンチ省で最初の中団である第95中団に属していたが、その頃、「衛国団」の武器は少なく、主に槍と地雷で攻撃していた。そこで敵の中に味方を送り込む敵兵攪乱工作が重視された。これにより多くの戦いで捕虜を捕まえた(仏軍ベトナム人兵士を含む)。

ロックは46年から共産党のシンパであったが、知識人だったので登用はされたが、あまり信用はされていなかった。48年に国道9号線攻撃で捕虜を捕まえた功績で、同年にようやく入党することができた。翌49年には中隊長に選ばれ、5か月後には大隊の政治員になった。52年にヴィンリン県の県隊長兼大隊長に選ばれた。その頃はまだ軍隊内の階級・職務規程が整備されておらず、投票で選ばれた。軍隊の食糧も乏しく、時々兵士を家に帰して食事を取らせ、健康回復をはかった。

ディエンビエンフーの戦いが行われている時、クアンチ省のチエウフォン県では敵の掃討が激しかった。敵はディエンビエンフーで敗北したのを知っていても、依然として掃討を行ない、米を収奪し、徴兵をしようとしていた。

ジュネーブ協定後、ロックはフランス語が堪能であったため、境界画定作業グループに加わった。高地はなるべく味方側の領域に入れるか、DMZ(非武装地帯)に入れるように努力した。1955年に第271中団に異動し、北部ゲアン省に「集結」し、小団の参謀長を務めた。60年に国道9号線戦線がつくられるとそこに赴任した。68年のテト攻勢の時は軍区司令部にいて作戦計画を立てた。71年の南ラオスの戦い、72年のクアンチでの戦いの時も司令部。75年の時はクアンチ戦線からクアンチの特殊部隊2個小団を率いて、チティエン軍区の第6中団と呼応してフエを攻撃した。解放後、第4軍区軍政学校の地方軍事担当副校長(大佐)を79年まで務め、退官した。

ヴィエン氏

(3)ヴィエン(1929年生まれ、軍隊在籍期間:1950~1957年、入党年:1950年、最終階級:上士)

クアンチ省ハイラン県ハイチュオン社出身。両親は貧しく、父親はゴムプランテーションの労働者。子どもの頃、ヴィエンは他人の家に働きに出ていた。50年に軍隊に入る(第95中団・第310小団)。彼が軍隊に入ったのは、生活があまりに苦しかったからである。ヴィエンは学校には行けなかったが、軍隊で7年生レベルまでの補習を受けることができた。入隊当初、衣服はすべて中国の援助品であった。

1953年にヴィエンの大隊全員がフランス軍の捕虜となった。翌日、フエに送られ、さらにダナン、カムランに移送された。54年8月にビンディン省で釈放され、ポーランド船に乗って北部に「集結」し、ゲアン省のクアホイに到着した。部隊は収容所に入れられていた時に兵士が密告しあうなど、分裂状態に陥っていた。それで捕虜交換部隊の「改造」のため、ライチャウ、ディエンビエン、ソンラなどの西北地方の道路・橋梁建設に従事させられた。その後、ヴォー・グエン・ザップ将軍の配慮もあり、部隊はニンビン省で学習した。

ヴィエンは1957年に事故により足を切断。治療後、軍隊をやめ、統一委員会の斡旋で北部フンイエン省の南部生産連合、農場省、社会救済省などに、71年まで勤務。それから電気機械工場で働き、77年にクアンチに戻り、材木工場に勤務。81年に退職した。

ザイン氏

(4)ザイン(1930年生まれ、軍隊在籍期間:1949~1979年、入党年:1949年、最終階級:少佐)

クアンチ省チエウフォン県チエウヴァン社出身。貧雇農の家族で父親は1928年から革命活動に加わり、5人兄弟全員が革命に参加し共産党員。45年八月革命後に地元ゲリラとなり、49年に第364師団に入隊。2年余り、中部ラオスに駐屯。病気になり、帰郷して静養。52年、社の青年団書記に。54年3月、クアンチの武装公安になる。

54年7月に徒歩で北部に「集結」。58・59年には「競争戦士」に顕彰される。南部の戦場への派遣が決められ、ハノイでの特別休暇3か月が与えられ、その後ハドンで訓練を受けた。60年にハドンを出発し、同年11月に目的地に到着。ハノイからヴィンリンまでは覆いで偽装した自動車に乗り、そこからは徒歩で軍事境界線を越えた。

ザインの部隊(当初は6人で1961年に補充されて25人)は少数民族の居住区に駐屯し、当初は地元民と暮らしていたが、敵に通報されるのをおそれ、ジャングルの中を転々とした。食糧は地元の少数民族の人々に頼った。衣服・薬品は北部から補給され、毎月、サイゴン政府の通貨2000ドンが支給された。部隊の任務は、基礎組織の構築と悪玉の抹殺であった。ザインは、64年に頭髪が抜け落ち、腹痛がするようになったため、北部で治療。幸い、3か月で回復し、同年、中部高原のザライ・コントゥムで1年間学習した。学習が終わると大隊長に。クアンチでは64年に一斉蜂起が起き、翌65年にクアンチ省隊が成立した。ザインは省隊の後方支援に従事するようになった。

1967年に戦争はエスカレートし、米軍のヘリコプターによる攻撃で死者の数が増えた。後方支援でも死者が多かった。クアンチでも枯葉剤が散布されて、67・68年は川じゅうが白濁し、水が飲めなかった。

1979年に退役。抗米戦争は「艱難辛苦、悪烈、犠牲」だった。苦しさに堪えられず脱走・投降した兵士もいたが、その数は非常に少ない。独立と自由を達成するために高い代償を支払わなければならなかった。最初に南部に入った25人の部隊は、ほとんどが戦死し、75年には2人しか残らなかった。

ダイ氏

(5)ダイ(1930年生まれ、軍隊在籍期間:1947~1958年、入党年:1951年、最終階級:中士)

クアンチ省チエウフォン県チエウタイン社出身。同社は故レ・ズアン書記長の出身地でもあり、抗仏期は村じゅうが革命側についていた。ダイはクアンチ省に属す諜報グループで活動を始め、47年にアジトが露見したため、抗戦に参加し、第95中団に所属。52年9月に捕まり、フエの収容所に入れられる。そこには1万人近くが収容されていたが、ダイを含む250人はカムランに船で移送された。当時、陸路は国民党が占領していたからである。さらにファンティエットの収容所に移される。53年3月、第812中団によって救出される。4日後、警衛隊に配属され、監獄の看守をした。抗仏戦争が終結すると、ビントゥアン省では夜に人民裁判が開かれ、数万人が参加し、悪玉の射殺も執行された。

1954年に第812中団に復帰し、ヴンタウから大型船で4昼夜をかけて北部に「集結」した。タインホア省に到着し、そこではヴォー・グエン・ザップ将軍も迎えにきていた。抗戦中の古い衣服を脱ぎ捨て、新しい衣服に着替えた。すべて中国製だった。民家に泊まったが当時の民の生活は苦しかった。とくに55年は45年とならぶ飢餓状態だった。第812中団はタインホア省やナムディン省のカトリック教会に赴き、鎮圧した。教会のなかには銃で攻撃してくるところもあり、部隊の21人が死亡したこともある。タイビン省では中団全員で軍服を脱いで平服になり、国際監視委員会にカトリック教徒の南部への移動を阻止するように働きかけたこともあった。土地改革の時には「闘訴」の支援をし、地主打倒の叫び声があがるとそれに唱和した。

1958年の軍隊8万人削減でダイは建設部門に異動し、ハノイ西方のハドンでレンガ・瓦づくりに従事した。ハドンでは、南部の生徒・学生が反抗したミエウニャー事件が発生した。彼らは党最高幹部チュオン・チンの説得も聞こうとしなかった。ダイはその後、2年余りタインホア省イエンディンのトンニャット国営農場で働いた。国営農場という「社会主義建設」で栄誉に感じたが、生活は苦しくいつも空腹であった。それからタインホア省の電気工場に76年まで勤務した。80年にクアンチに戻ってきた。戻ってきたばかりの頃、ドンハーの街にはまだ沢山の地雷が残っていた。

フィー氏

(6)フィー(1932年生まれ、軍隊在籍期間:1962~1987年、入党年1964年、最終階級:大佐)

クアンチ省ゾーリン県チュンザー社出身。幼少時、学校に行けず、他の村で牛飼いの手伝いをする。54年に村に戻り、「忠堅青年団」に入り、革命活動に参加。56年に捕まったが、非識字者だと言い張り、釈放される。その後、再逮捕されそうになったので、ベンハイ川を渡って、ヴィンリン県の招待所に。ヴィンリンでは建築水利現場で働いた。

1962年3月に徴兵検査を受け、身長が足りなかったが、懇願して南部出征兵士にしてもらう。最初は歩兵だったが、64年7月に特殊部隊に選ばれる(クアンチ特殊部隊第10大隊、K10)。K10は地方部隊に属していたが、ハノイ近郊のゴックホイにある特殊部隊司令部で訓練を受けた(注:クアンガイ省のティンによれば、特攻(特殊部隊)司令部の訓練学校は、ハノイ市郊外のゴックホイNgọc Hồi、バックザン省ルックナムLục Nam、ホアビン省スアンマイXuân Maiの3か所にあった)。

K10は精鋭部隊で敵軍の小団も殲滅させる戦いぶりで、66年にはB40、B41などの銃を装備できるようになり、連戦連勝を重ねた。しかしテト攻勢後、クアンチの解放軍はラオスに撤退せざるをえなくなった。70年頃には敵軍の増強によって、K10の損耗は大きくなった。フィーは69年12月に「人民武装勢力英雄」に顕彰され、北部のグエン・アイ・クオック学校に派遣されて学んだ。その後、チティエン軍区に戻り、特殊部隊として戦い、ドンハー市隊長に。76年からは高級軍事学院に入学するために、ランソンの学校で10年生レベルまでの補習を受けた。その間、2期国会議員にもなったが、生活は苦しかった。87年に退役。

タン氏

(7)タン(1936年生まれ、軍隊在籍期間:1954~1976年、入党年:1960年、最終階級:大尉)

クアンチ省チエウフォン県出身。父親は1945年から革命運動に参加し、タンも抗仏戦争に51・52年頃から参加していたが、正式に入隊したのは54年。54年の抗仏戦争終結後、父親とタンは北部に「集結」。2年後には戻るつもりでいた。母親はクアンチに残り、「集結」者・「ベトコン」支持者の家族だということで苛められた。父親はハノイ市ホアンキエム区人民委員会で働き、区の副主席まで務め、67年に病死。

「集結」の時、タンの部隊(第341師団・第270中団)は、ゲアン省まで徒歩で行軍した。そこで100人余りが選ばれてソンタイでの大閲兵式に派遣された。その後、タンの部隊は軍事境界線を守るため55年からヴィンリンに駐屯。DMZの2キロ外に駐屯した。DMZ内は武装公安が防衛の任務にあたった。軍隊では58年になってようやく階級が整備されるようになった。

タンは、第4軍区で約半年、特殊部隊の訓練を受けた後、先発隊40人の一員として1960年末に南部に入った。ケサンの手前の国道9号線沿いのジャングルに駐屯した。ホーチミン・ルートを守るための偵察が任務で、当時それは極秘であった。そのため敵との戦闘は避けた。61年にホーチミン・ルートがラオスまで延びると、部隊では食糧生産のための畑づくりも始まり、日中での行軍もおこなわれるようになった。

1964年のチティエン一斉蜂起はクアンチ省カムロ県から始まり、平野部を一時制圧し、戦略村を破壊した。この蜂起が南部全域に波及し、ひいては米軍の直接介入を招くことにもなった。一斉蜂起後、当地の解放勢力側は強まった。タンは軍区司令部に勤務。68年のテト攻勢の時、クアンチでの都市攻撃は短期間で終わった。しかしテト攻勢はアメリカにデスカレーションさせた。テト攻勢後から71年まで、敵の「平定」攻勢は強力だった。しかし敵は71年の国道9号線・南ラオスの戦いで大敗し、形勢は逆転した。

チティエン軍区と第5軍区のほとんどは枯葉剤を散布された。散布されて30分すると植物は萎び始め、午後には萎びて、翌日には枯れ果てた。

1972年のクアンチの戦いの時もクアンチ西部の司令部にいた。72年4月30日にドンハー市、カムロ県、ゾーリン県が解放された。そこでタンはドンハー市に移動した。しかしその後、敵が激しく反攻し、クアンチ古城で解放軍は81日間持ちこたえたが、再占領された。この戦いにはハノイの学徒兵が数多く参戦していた。73年にタンは臨時革命政府に勤務し、75年の戦争終結後はフエで遺骨収集の中隊を指揮した。76年に軍隊をやめて、ドンハー市で党工作に従事するようになった。

注:学徒兵によるクアンチの戦いを描いたベトナム映画に「燃える草の匂い(Mùi Cỏ Cháy)」(2011年制作)がある。知人の 「たいすけ」さんにご教示いただいた。
https://www.youtube.com/watch?v=kuAXKBFuvTY

ラン氏

(8)ラン(1937年生まれ、軍隊在籍期間:1968~1979年、入党年:1962年、最終階級:中尉)

クアンチ省カムロ県カムヒュウ社出身。8人兄弟の4番目。10歳の時に両親が亡くなり、11歳から他人の家の牛飼い手伝い。52年に家に戻り、「平民学務」学級に2年生レベルまで通学。その頃の地元はゲリラ地区で、敵が掃討に来ることもあった。54年に北部への「集結」が始まった1か月後、村の何人かの人と一緒に北部へ「勝手に」越境。越境者を南部受入委員会が懇切に面倒をみてくれた。その斡旋でヴィンリン県に配置された。

ヴィンリン県は南ベトナムのクアンチ省に属しているが、暫定的軍事境界線となっていたベンハイ川の北側に位置し、北ベトナムの2つの特区のうちの一つとなっていた(もう一つは中国国境のクアンニン省)。ランはホーサーの町で青年工作や町の人民委員会の通信文化部門に従事した。南部から越境してきた人には家が与えられ、何人かが一緒に住んだ。各人には月に13キロの米が配給され、自炊した。配給キップは支給されたが、給料はなかった。それで南部から来た人たちで「仕立て合作社」を設立した。しかし月に15~20ドンしか稼げなかった。

1959年にヴィンリンの武装公安に入隊した。武装公安の任務は境界の警備で、敵の越境を阻止することであった。また北部の体制の優位性を示すことも重要な任務で、境界線にかかるヒエンルオン橋(見出し画像)のたもとでの宣伝活動もおこなった。とくに96㎡の巨大な国旗掲揚台用の旗をつくるのには難儀した。68年まで旗づくりなどに携わり、同年に北部ソンタイ省の軍政学校で補習を9か月受講する。その後、南部に出征する予定だったが、なかなか機会がなく、後方勤務に。1等兵の1年後に下士、2年後に中士、3年後に上士となり、上士の時に正式の配属となり、月60ドン余りの給料をもらえるようになった。

ヒエンルオン橋そばの国旗掲揚台

最も困難な時期は1966・67年頃で、B52の爆撃が激しかった。食糧補給の受け取りにも苦労した。この頃は痩せこけて幽霊のようで、飢餓ではないが、きわめて苦しく、安眠することもできなかった。

ヴィンリンで後方勤務をしていたが、軍隊の後勤局と内商省の計画を受け取るために、1年に2回ハノイ出張があった。自転車で6・7日、時には9日かかった。お米を携帯し、民家に泊めてもらい、煮炊きした。ヴィンリンの後勤委員会の中では最年少だった。委員会の主任はかつてフランスの紅帯兵(khố đỏ :インドシナ連邦政府軍のベトナム人志願兵)の大尉だった。

1975年4月のクアンチ作戦で初めて南部の戦場に入った。後勤機関も1個小団を編成し、戦闘には参加しないものの、フエ、ダナン、フーイエン、トゥイホアなどの接収にあたった。接収中に地雷により負傷。その後も後勤機関に属し、79年に退役。

ズン氏

(9)ズン(1939年生まれ、軍隊在籍期間:1961~?、入党年:1964年、最終階級:中佐)

クアンチ省ヴィンリン県ヴィンクアン社出身。地元の青年団やゲリラに参加した後、61年7月にソ連に留学に行けるといわれて県隊に入ったが、実際には南部への出征だった。集められた72人はそう言われても誰もひるまず、むしろ喜んだ。覆いをしたトラックでゲアン省のタンキーに行き、そこで3つの部隊が合流した。それはラオスの小団(全員ラオス人)、第5軍区に行く小団、チティエン軍区に行く小団であった。そこで3か月訓練を受けた。家族との手紙のやり取りはできたが、こちらの住所はソ連になっていた。訓練では3つの銃(短銃、Sten、AT)の使い方と少数民族語(タオイ語とターイ語)、南部情勢を学んだ。南部への出発日の前日、ホー・チ・ミン主席が視察に来た。ホー主席は15分ほど演説をした。61年10月25日に南部に向けて出発した。

ハー氏

(10)ハー(1942年生まれ、軍隊在籍期間:1965~1980年、入党年:1969年、最終階級:中尉)

クアンチ市出身。1954年、12歳の時に家族で北部に「集結」し、最初はフンイエン省、次にハタイ省に住み、それからハイフォン市で高校に通った。その頃、南部から「集結」した子弟はハイフォン市に集中していた。62年に高校を卒業し、百科大学の入学試験を受け、電信を学ぶ。当時、南部の子弟は希望すれば南部に行って戦えるということだったので申請し、65年に第365師団・第275中団に入隊。防空・空軍のミサイル部隊に配属される。

翌66年、ソ連のアゼルバイジャンに留学。その頃の海外渡航は秘密活動をするようなものだった。ダフック飛行場(現在のノイバイ空港)に集まり、3か月政治学習を受けた。ソ連に行く途中、中国領内では軍服を脱いで平服に着替えた。当時、中越両国の関係は微妙だったからで、中国国境を越えるとまた軍服に着替えた。ソ連では駐屯地内の学校で通訳を介して戦術・戦略・修理技術を学んだ。授業中の資料は持ち出し禁止だった。

67年に帰国し、タインホア省以北でミサイル部隊の修理を担当した。69年から71年にはラオスにいた。72年末のハノイのクリスマス爆撃の時はザーラム飛行場にいた。ハーの父親はクアンビン省党委・常務だった。ハーは80年にビンチティエン省(当時)の裁判所に異動。軍隊在籍中、ハーは一貫してミサイル部隊の技術者であり、直接の戦闘経験はない。

フイ氏

(11)フイ(1952年生まれ、軍隊在籍期間:1972~1980年、入党年:1974年、最終階級:少佐)

北部クアンビン省トゥエンホア県チャウホア社出身。10年生まで通学。1971年に合作社の会計係に。翌72年5月に召集され、クアンビン省隊の第46小団に入隊。民家に泊まりながら、50日間ほど訓練を受ける。訓練後、南部の戦場に。RPD軽機関銃を担いで、夜間に徒歩で軍事境界線を越えた。地元ゲリラが道案内をして渡河した。補充された3個小団はみなクアンビン省出身者だった。中国製の服が支給されていたが、戦闘時は全員が半パン、半袖シャツだった。クアンチ城近くに着いた時には、RPD軽機関銃はなく、戦闘は主にB40、B41、手りゅう弾を使用した。フイの部隊は城内には入らず、川べりに駐屯した。

戦闘で負傷し、1か月足らず前方治療所で治療を受ける。治療後、第320B師団・第48中団・第42小団・第20大隊の偵察部隊に補充される。この偵察部隊はゲアン省出身3人、クアンビン省出身3人、ハノイ出身1人で編成。73年1月のパリ協定調印時は、チエウフォン県チエウフオック社にいた。サイゴン政府軍に攻めたてられたが、再占領した。72年のクアンチの戦いの頃のドンハー市は、米軍の艦砲射撃によって廃墟のようになっていた。

1973年9月に北部タインホア省に。その後、ハソンビン省(当時)にある第320師団特殊士官学校に入学。18か月訓練し、さらに南部クアンナム省のチューライで78年まで訓練を受けた。4年の訓練コースであったが、カンボジア紛争のため、3年半で切り上げ修了になった。

1978年、第3軍団とともにカンボジア入り。第198特殊部隊小団に所属。第9軍区とともに79年1月にタケオを攻撃。2月24日に中国が攻めてきたとの知らせを受け、27日にサイゴンに撤退し、翌28日に民用機で北部に戻った。ハノイ市のザーラムで数日間、政治学習をした後、3月1日にランソン省の800高地に。1個1小団が1地区を、1個大隊が1つの丘を守り、食糧は3つに分けて、3・4か月分を確保した。中国軍は3月5日に撤退し始めた。しかしハートゥエン省(当時)では84年まで戦闘があった。フイの偵察部隊は中国の南寧や憑祥まで偵察に出かけた。彼の部隊は83年にハバック省(当時)に撤退した。フイは86年にビンチティエン省(当時)に異動し、96年に退役。

フオン氏

(12)フオン(1947年生まれ、青年突撃隊在籍期間:1966~1969年、入党年:1971年)

クアンチ省チエウフォン県チエウラン社出身。1962年に秘密の革命基礎と連絡しあうようになり、ゲリラ隊に入る。4・5年生まで学校に通い、字が読めたので文書を運ぶ役目をする。65年に捕まり、クアンチ監獄でさまざまな拷問を受けるが、非識字者で字が読めないと言い張り、口を割らなかった。同年末に釈放される。66年3月、軍隊に登録したが、青年突撃隊にまわされ、クアンチ省最初の青年突撃隊の参加者になった。当時の名称は「クアンチ省解放青年突撃隊」。

第一の任務は、ジャングルを切り開き、米や負傷兵をホーチミン・ルートに運び、銃・弾薬を輸送することであった。フオンは69年までの4年間、青年突撃隊にいた。隊員はほとんどがクアンチとトゥアティエン出身の人で3分の2は女性だった。その後、北部からも人員が補充された。青年突撃隊は軍隊に似た組織編成で、大隊・中隊・小隊とあり、その頃は2個大隊、約200人がいた。その後、恋愛事件などがあり、男性中隊と女性中隊に分かれた。

青年突撃隊はジャングルの木を切って小屋をつくり、そこに住んだ。1日2回の食事。朝3時から10時まで米を運び、11時に昼食。休憩後、3時からまた続けた。米は北部からの補給もあったが、主に平野部から調達した。この調達は敵軍と遭遇することも多く、犠牲が多かった。衣服は自前で、1年に1着だけ支給があった(68・69年は2着)。米の支給はあったが、他の食糧や手当の支給はなかった。朝はお粥で、米を運搬しているのに、空腹だった。空腹に耐えて、部隊に米を供給した。家族との連絡は取れなかった。手紙を出すと、秘密が漏れやすいからである。

1968年は戦闘が激しく、犠牲者が多く出た。フオンの中隊でも12人が亡くなった。隊員が亡くなると、なんとかして死体を回収しようとした。

1969年、北部へ行き、ハイズオン左岸軍区軍政学校で、高校卒業レベルまでの補習を受けた。70年7月にチティエンの戦場に戻った。72年のクアンチ古城作戦の時は、ゾーリン県西部にあったチティエン区党委の通信部門にいた。72年にタックハン川以北が解放されると、翌年にドンハー市に戻った。戦争はまだ終結していなかったが、ドンハー市は解放されていたので、結婚した。それ以来、ドンハー市に住み、クアンチ省郵便局に勤務した。87年に退職。

タム氏

(13)タム(1947年生まれ、青年突撃隊在籍期間:1966~1968年、入党年:1966年)

クアンチ省ヴィンリン県ヴィンロン社出身。郷里は非武装地帯。64年頃、タムの村では生徒たちは北部に疎開し、青年たちだけが残っていた。日中は耕作し、銃を携帯し、敵機がくれば応戦した。夜には、民兵は船着き場に集まり、各人50キロの弾薬をゾーリン県近くまで運んだ。弾薬を渡して、朝3時にはベンハイ川北岸に戻った。南岸で負傷した人は北岸に搬送された。

タムは学校を7年生まで通い、18歳の時は合作社の副主任を務めていた。「民工火線(最前線民工)」に2度参加し、それから青年突撃隊に入った。タムの集落(thôn)からは3人(男1人、女2人)が入隊した。青年突撃隊での生活はとても苦しかった。爆撃はしょっちゅうで、枯葉剤も浴びた。マラリアにかかり、髪の毛が抜け落ちたこともあった。

1968年10月に北部に行き、化学検査法を3年間学ぶ。学校を出た後、北部フート省のヴィエットチー市にある軽工業省の大学に2年間勤務したが、ヴィエットチー市は空爆が激しかったので、同省の農村部に疎開した。77年にクアンチに戻り、ドンハー市にあるビンチティエン農産食品会社に勤務し、定年まで働いた。

ドンハー市レ・ズアン公園にある故レ・ズアン書記長像

(14)トゥー(1943年生まれ、南ベトナム軍在籍期間:1965~1975年)

クアンチ市出身。両親はクアンチ市で商売をしていた。長兄はフランス軍の兵士となり、その後サイゴン政府軍の兵士に。67年にクアンチでゲリラとの戦いで戦死。次兄もサイゴン政府軍兵士で今もクアンチ市に健在。3番目のトゥーは、2人の兄が兵士なので兵役を免除されるはずだったが、65年に「動員」された。

3か月訓練を受けた。訓練期間中にも1250ドンの給料がでた(その頃、米100キロが500ドン。訓練後は2680ドン)。第22歩兵師団に入隊。この師団の主要任務はザライからクイニョンまでの国道19号線の防衛。小隊長として解放軍と戦闘した時、敵の待ち伏せ攻撃をくらい、上官から叱責・打擲を受け、部隊から脱走することを決意。一旦脱走はしたものの、結局部隊に戻った。サイゴン政府は逃亡兵を重く罰する法律を公布していたが、幸い、逃亡理由を聞かれただけで罰せられなかった。

空挺部隊への異動希望が叶い、非常に厳しい訓練を受けるが、よい成績を収める。空挺部隊は精鋭の機動部隊だったので、各地に出動し、部隊の犠牲はとても大きかった。1975年4月30日までに残ったのは20%にすぎない。戦闘で最もこわかったのは、ゲリラの長釘板であった。多くの人がこれで負傷した。68年に結婚し、妻子はサイゴン政府からの食糧供給が十分に受けられるよう「軍人官舎区」に入居させた。

サイゴン軍の最大の弱点は、自分たちの内部に敵方の潜入を許したことである。部隊の多くの人が革命側に協力し、作戦計画が漏れているのを目撃した。高級士官の中にも革命側の協力者がいた。このことが軍隊内部に疑心暗鬼を生み、悪い結果をもたらした。1970年に解放軍の人と話す機会があった。どうして北の人は南を侵略するのかと聞くと、北も南も共にベトナムで私たちは外国の侵略者を追い出しているだけで、自分たちの身内を討っているわけではないと返答され、それに反論することができなかった。

1974年に重傷を負い、戦争終結時まで病院で治療を受けた。ズオン・ヴァン・ミン南ベトナム大統領が降伏を宣言した時、病院を逃げ出し、ヴンタウに向かった。幸い、その途中で妻子と落ち合うことができた。その後、ドンハー市に戻り、4か月の改造学習に行った。この時の主な仕事は、地雷除去とサイゴン軍兵舎の解体であった。改造学習から戻ると、乗り合いバスの運転手助手をした。今は引退し、末っ子のタクシー運転手と同居している。

★元南ベトナム兵士のトゥーにインタビューできたのは偶然の出来事であった。計画的・組織的にベトナム国内で元南ベトナム兵士に聞き取り調査をおこなうことは難しい。ベトナム戦争のオーラル・ヒストリーにおいても、ベトナム国外在住の元南ベトナム兵士の回想記・聞き取り調査は相当数あるが、ベトナム国内在住の元南ベトナム兵士のそれは無きに等しい。
そんな中で、2020年に出版されたファン・トゥイ・ハーの『わたしはお父さんの娘』(Phan Thúy Hà, Tôi là con gái của cha tôi, Nhà Xuất Bản Phụ Nữ, Hà Nội, 2020)は、20人近くの国内在住・元南ベトナム兵士への聞き取り調査をまとめたもので画期的で、感動的なルポである。いつかこの本についても、紹介していきたい。

『わたしはお父さんの娘』(2020年)

まとめ

以上の聞き取り調査の特徴的な点として以下の点が挙げられる。
(1)これまであまり知られていなかった中部クアンチでの抗仏戦争の様相が窺える(カウロック)。とくにその初期に残留日本兵が参加し、貢献していたとのロックの証言は貴重である。

(2)1954年ジュネーブ協定後、クアンチは軍事境界線上にあり、何人かの人はベンハイ川を渡ってヴィンリンに向かうなど(ザインフィータンラン)、境界線を越えたヒトの動きが多く見られた。クアンチ省は境界地方ということもあり、北部に「集結」した人が多かった(カウロックヴィエンザインダイタンランハー)。北部での「集結」部隊の境遇について、従来あまり言及されることはなかったが、土地改革への支援、道路・橋梁建設、国営農場建設などに関わっていた実態が明らかになった。

また、軍隊の転換点となった1958年の軍制改革により8万人の兵員削減がおこなわれ、「集結」した人の多くが軍隊から離れたことも分かった。カウヴィエンダイは他部門に異動し、ベトナム戦争終結時にも北部に残っていた。クアンチ省の退役軍人は、北部に「集結」して居残るか、地元のチティエン軍区に戻るかどちらかで、1975以前は他の南部地方に出征するケースは少なかったと推測される。非武装地帯の警備には武装公安(ザインラン)があたったことも確認された。

(3)北部兵士の1960・61年頃の南部入りは極秘裏に進められ、隠蔽がはかられ、南部出身者がまず投入された(ザインタンズン

(4)1964年のチティエン一斉蜂起が南部の戦局を大きく変えた(特にアメリカの介入を招いた)との認識をもつ人が複数いたことが注目される(ザインタンなど)。

(5)クアンチは枯葉剤が大量に散布された地方の一つであるが、川が白濁するほどの散布がエスカレーションの時期になされており、インタビュイーのうち3人が本人もしくは子どもが枯葉剤被害者となっている(ザインタンタム)。

(6)偶然かも知れないが退役軍人のインタビュイーのうち、1940年代以降に生まれた人は少なく、1972年のクアンチの戦いに参加した人も少ない。当地の解放勢力側にとって、1940年代世代、1950年代前半世代は空洞の世代かも知れない。これらの世代では、トゥーの場合のように、クアンチには元サイゴン政府軍兵士だった人が多数存在していると思われる。しかし彼らへの正式な聞き取り調査はまだ困難な状況にある。

(7)クアンチの青年突撃隊は手当の支給などがなかった点において北部の青年突撃隊と異なり、南部タイプの青年突撃隊である。

帰国へ

クアンチ滞在中、聞き取り調査の合間を縫って、3月5日午後にクアンチ博物館を見学。6日午前に烈士親族受入施設、ヴィンモック(Vịnh Mốc)の地下トンネル、ヒエンルオン橋と展示館を見学。

3月8日午後、フエのフーバイ空港へ。ここで相棒ダイ氏と別れる。わたしは、ホーチミン市に向かう。翌9日午前、ホーチミン師範大学に行き、副学長と面会し、日本語学科スタッフと昼食。10日深夜、帰国の途に。
3月11日昼前、帰宅。数時間後に東日本大震災が発生。

★今回の聞き取り調査については以下の拙稿を参照。
拙稿「ベトナム中部クアンチ省における抗仏・抗米戦争の記憶 ー退役軍人等への聞き取り調査からー」『東京外大 東南アジア学』第19巻、2014年。
147ー161ページ。




















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?