見出し画像

Ⅰー30. 韓国軍がいた戦場:中部ビンディン省(2)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(31)
★2015年12月23日~2016年1月3日

見出し画像:軍隊を北部へ「集結」させた地点の遺跡(クイニョン市)。
      1954年のジュネーブ協定後、クイニョン港はカマウ、ヴンタウ
      とならんで南部から北部に「集結」する軍隊を海上輸送した主
      要な三つ港のうちの一つであった。

はじめに

  今回は前回に引き続いて、中部ビンディン省での聞き取り調査の結果をご報告する。今回はビンディン省のタイソン県での聞き取り調査の結果である。タイソン県はビンディン省の西部にあり、西山朝(1778~1802年)を創建した阮氏三兄弟の出身地として有名である。現在、同県フーフォン市には、阮氏三兄弟のうち阮恵(グエン・フエ、光中帝)の業績を讃える立派な光中(クアンチュン)博物館が存在する。また、ベトナム戦争関連では、同県の旧ビンアン(Bình An)社(現在のタイヴィンTây Vinh社・ゴーザーイGò Dài村)において1000人余りの村人が韓国軍によって虐殺されたところとして知られている。

クアンチュン(光中)博物館の入り口(タイソン県)

今回の調査日程は以下の通り。
12月23日:成田空港発、ノイバイ空港着。ハノイ市内のホテルに投宿。
12月24日:協力者のダイ氏と精算・打合せ。
12月25日:ハノイ人文社会科学大学ベトナム学研究所にて手続き。
12月26日:ノイバイ空港発、クイニョンのフーカット空港着。同空港にて、
     ベトナムの公認宗教の一つ「明師道」を調査する学習院大学の武
     内教授の調査団と合流。金南仏堂、宝南仏堂を訪問。
12月27日:前日に引き続き、ビンディン省内にある福南寺、雲南寺を調査。   
12月28日:午前、ビンディン省退役軍人会へ表敬・打合せ。昼、武内調査団
     とホアンハウ・レストランで食事をした後、別れて第5軍区司令
     部ゲストハウスに投宿。
12月29日:タイソン県フーフォン市へ車で2時間ほど移動(途中で朝食をと
     る)。同県の退役軍人会事務所にて4人にインタビュー。午後、
     クアンチュン(光中)博物館を参観。フーフォン市内のホテルに
     投宿。
12月30日:タイソン県退役軍人会事務所にて4人にインタビュー。午後、ビ
     ンアンの虐殺記念碑を見学。
12月31日:タイソン県からクイニョン市に戻る。
1月1日:フーカット空港でダイ氏と別れ、タンソニャット空港へ。
1月3日:タンソニャット空港発、成田空港着。

 今回の聞き取り調査では8人の退役軍人にインタビューしたが、遺憾ながらその後のミスにより、2人分の記録を喪失してしまった。残りの6人は全員がタイソン県出身で在住の男性。以下の記載は、名前、生年、入隊年、入党年、退役年、最終階級、備考の順である。
1.サム、1931年、1946年、1949年、1987年、大尉、北部に「集結」
2.ホア、1941年、1960年、1965年、1982年、中尉、捕虜交換兵
3.フオック、1947年、1965年、1968年、1989年、?
4.タイン、1954年、1972年、1974年、1987年、?
5.ダウ、1947年、1970年(社隊)1973年(県隊)、1971年、1976年、?
6.キー、1948年、1965年、1970年、1970年、?

タイソン県退役軍人会事務所がある同県祖国戦線(タイソン県フーフォン市)

1.サム(1931年生まれ):最初の妻に裏切られた抗仏・抗米の
              戦士

(1)抗仏戦争期
 1946年に軍隊に入った。年齢不足であったが、なんとか認められた。入ったのは第5軍区で2番目に設立された中団で、ベトナムの南中部で活動していた。この中団には、北部から「南進」(筆者注:1945年9月に仏軍がベトナム南部を再侵略したのに際し、ベトナム民主共和国政府が北部と中部の人々に抗戦を呼びかけた運動。1946年3月までに数十万人が志願して南部に行き仏軍と戦ったといわれる)で来た兵士も含まれていた。
 軍隊は各種の銃を寄せ集め、その中には日本軍が使った銃もあったが、銃の数は不十分であった。制服の支給はなかった。最初は裸足で、北から来た人がサンダルの作り方を教えてくれた。1950年になってようやく制服が支給されるようになったが、布はフランスが残していった織機でつくったものであった。
 当初、クアンナム、クアンガイ、ビンディン、フーイエンは解放区で、フランスは再占領できなかった。第5軍区の司令部は今のビンディン省ホアイアン県に置かれていたが、同軍区は食糧や衣料の自給自足を目指した。衣料は北部では中国の援助を受けていたが、当地では自家製であった。しかし品質は粗悪で、北部に行った時は馬鹿にされた。
 1953・1954年頃、中部高原のコントゥムに行く途上のマンデン(Măng Đen)、コンライ(Kon Rẫy)の仏軍の陣地を攻撃し、コントゥムをたった3日で解放した。その頃、武器は敵から奪ったものが主で、北部から武器はまだ入っていなかった。兵士はすべてフーイエンとビンディンの地元の人だった。「南進」の兵士は1950年頃にはいなくなった。戦死したり、北部に帰ったりし、中にはこちらに定着した人もいた。
 抗仏期、士官学校の教官にフン(Hùng)という名前の残留日本兵がいた。ベトナム語が堪能だった。彼はその後、北部に行った。サムの部隊の教官には、フランス兵だったドイツ人もいた。

(2)ジュネーブ協定後の北部への「集結」
 1954年、サムの所属していた中団は、クイニョン港からポーランド船で出航し北部に「集結」した。大砲を牽引するのに使用していた象7頭も同行した(到着後、象は動物園に寄贈された)。タインホア省のサムソンに上陸し、同省ティンザー(Tĩnh Gia)県に駐屯した。ここに駐屯中、ヴォー・グエン・ザップ将軍が慰問に訪れ、中国製の衣服・下着、毛布をプレゼントしてくれた。サム達の部隊は第324師団に編制された。ゲアン省のバランアン(Ba Làng An)地方に行き、カトリック教徒の反乱を鎮圧した。部隊のうち、健康に問題のある人は農場に異動した。サムは、師団から文化補習に派遣され、学校に行ったことがなかったので1年生から始め、9年生までの補習を受けた。あと1年で大学に入れ、本当は続けて勉強したかったが、南部に対する気持ちが強く進学を断念した。
 1959年、党の15号決議が出ると、補習学校も南部に行く人を選んだ。同年末に集合し、翌年に南部に行く準備をしたが、サムは病気になりとどまった。1960年末まで補習学校に通い、病気も癒えた1961年に南部に向けて出発した。途中で負傷して数か月治療し、ビンディンに着いたのは1961年末であった。この頃のホーチミン・ルートは、まだ未整備で、行軍の痕跡を残さないように森をかき分けて進んだ。

(3)ベトナム戦争中
 サムはビンディン省に帰って、ビンディン省隊に入ったが、省はサムを含む23人を下部の県・社に派遣した。ビンケー(Bình Khê)県(当時。今のタイソン県)の革命組織には、県党委14人のうち、書記をはじめ多くが殺されたり、捕えられたりして、副書記しかおらず、組織は壊滅状態だった。さらに下部の社に行けといわれてサムは故郷のビンフー(Bình Phú)社に戻った。ここも革命組織は壊滅状態で、サムは公安と民政の人と3人で「ビンフー社工作隊」を設立し、革命組織の再建に取り組んだ。サムはザン村(thôn Giang)で「単線」(被組織者は組織者1人しか知らない)方式で基礎づくりに着手した。サムは部隊に属していたが、社村レベルの基礎建設・政権工作にも従事し、支部書記で工作隊隊長だった。1963年にサイゴン政権が揺らぐと、解放勢力の勢いが強まり、サムは県隊の政治員になった。
 ビンディンとフーイエンの中団が合併して、第3師団となった。その後、北部の人も同師団に加わるようになった。師団、中団の幹部には北部への「集結」帰りの人が何人もいた。北部からの人は県隊では幹部のみで、一般兵士にはいなかった。1964年の県隊政治補佐は北部人だった。その後も通信、軍医などの専門家で何人かいた。
 県隊に戻ってきた時、北朝鮮からの派遣団がいた。1964~1967年頃で、彼らは拡声器で韓国兵に対し呼びかけをおこなったが、結果は思わしくなかった。韓国軍の戦闘視察もしていた。韓国軍は当地では国道19号線沿いに駐屯し、苛烈な掃討をおこない、ビンアン(Bình An)社では人々を虐殺し、解放勢力側の53ー54作戦に対抗して1000人余りを殺した(筆者注:電子版の新聞 Dân trí の2016年2月27日付けの記事によれば、1966年1月23日~2月26日に旧ビンアン社の無辜の1004人の人が韓国軍によって殺害され、2月26日の一日だけで380人余りが虐殺された)。1972・1973年に韓国軍は当地から撤退した。

旧ビンアン社の虐殺跡に建てられた遺恨を刻む碑。上の黒字部分は「侵略的な敵アメリカへの恨みを深く刻む」、下の赤字部分は「ここで、1966年2月26日、アメリカ帝国主義の指揮下の韓国衛星国軍は無実の380人を殺害した」と書かれている。


虐殺跡の壁画(旧ビンアン社)


虐殺跡の壁画(旧ビンアン社)


虐殺跡の壁画(旧ビンアン社)

 米軍は当地には駐屯していなかったが、掃討には来た。ヘリコプターをトンボのように多数飛ばしてきた。砲弾を雨あられと降り注ぎ、その後に戦闘機の爆撃があり、歩兵が突撃してきた。ビンケー県(当時)は19号線で分断されてしまったので、19号線南の支部をあらたにつくりサムが県党委副書記として赴任した。
 1968年のテト攻勢の時は、ビンケー県庁を攻撃し、フーフォン市を1週間占拠したが、敵の反撃により、撤退を余儀なくされた。その時、県隊には2個大隊あったが、民と連絡がとれず、食糧と塩が不足しキャッサバばかり食べていた。1969~1972年は最も厳しい時期であった。
 1973年のパリ和平協定後、サムは4者軍事連合委員会で働くとともに、ビンディン省隊の幹部委員会に勤めた。ベトナム戦争の最終盤の1975年、サムの部隊はビンディン省東北部を攻撃し、その後、サイゴン軍の第22師団司令部を攻撃し、敵がクイニョンに行くのを阻止しようとした。3月28日、サムは敵の地雷にやられて負傷した。3月30日、敵はビンディンから敗走し、ビンディンは解放された。

(4)戦後と家庭生活
 戦後、第5軍区の戦争総括委員会に勤務。その後、部門替えし(大尉で退役)、省党委に異動した。県の主席などを歴任し、1987年に退職した。
 19歳で結婚し、妻子をビンディンに残して1954年に北部に「集結」した。北部「集結」中、妻は北部出身のサイゴン軍兵士と結婚してしまった。サムは、1970年に再婚した。二度目の妻は、戦死した友人の妻だった。子どもが3人いる。妻は亡くなり、今は末娘と二人暮らし。末娘は枯葉剤被害者で知的障がいがある。

サム氏(タイソン県退役軍人会事務所にて)

2.ホア氏(1941年生まれ):1973年の捕虜交換者

 1960年に部隊に入る。第6軍区を支援する部隊で、カインホア省に出征した。1970年に負傷して敵に捕らえられ、フークオック島に収容された。1965年に入党していたので、収容所では党支部書記を務めた。1973年、軍事境界線近くのタックハン川での捕虜交換で釈放され、その後北部に行った。北部ではバックニン省の工兵軍政学校にいたが、静養が主だった。1974年にビンディンに戻り、タイソン県隊に入った。翌年、故郷は解放された。
 ホアの故郷からは第6軍区を支援する人員を提供していたが、その中にはチャム人も含まれていた。ただ、ホアによれば、チャム人は故郷を離れて死ぬのをとても恐れるので、解放軍にもサイゴン軍にも入ろうとしなかった人が多かったという。サイゴン政権はそれをやむなしとしていたという。

12世紀後半に建てられたチャムの塔・ズオンロン(Dương Long)塔(タイソン県)

3.フオック(1947年生まれ):クアンチの戦いに参加した人

 1965年に県隊に入隊。1970年に負傷し、北部のハーナムの重症負傷兵収容所で治療・静養。1972年に南部に戻り、第320B師団・第12中団・第68小団に所属してクアンチで戦闘する(筆者注:イースター攻勢で)。数か月後、北部に再び行く。1974年にビンディンの故郷に戻った。クアンチで戦ったことは忘れらない神聖な思い出。1981年に軍隊をやめた後、県党委検査委員会に勤務。1989年、勤続年数が換算(quy đổi)で32年になったので退職した。

4.タイン(1954年生まれ):サムとホアの部下だった県隊兵士

 1972年に県隊の第2大隊に入隊。当地は中部全体の中でも戦闘が激しい所で、アメリカ、韓国、タイ、ニュージーランドの軍隊、サイゴン軍と戦った(オーストラリア軍はバーリア・ヴンタウ地方)。入隊した時の隊長はサム(①)で、サムが省隊に移ると、1974年に隊長はホア(②)になった。1975年の作戦では、敵の第22師団・第40中団の陣地を第52中団と連携して撃破した。
 戦後、カンボジアに2度行った。最初は戦争勃発直後に部隊を引き渡す任務のため。2度目は、カンボジア領内での県レベルの幹部増強のため派遣された。1987年に軍隊から県の商業部門に移り、1996年に県の農業室に異動した。2000年に退職。

5.ダウ(1947年生まれ):サイゴン陥落の日、アメリカがヘリ
              コプターを使って避難せざるをえな
                                            かった理由(?)

  ダウの故郷は元々は解放区で、解放区の学校に通った。ダウの家は貧しかったので、12歳から17歳まで同じ村の家に住み込みで牛飼いをした。戦略村が設置されるようになると、味方による破壊と敵による再建が繰り返された。元の村が敵に占領されて戦略村にいれられた時、革命側の人と連絡を取り、伝単を配る手伝いをするようになった。1970年4月、家を出て社隊に入った。ダウはM.16を支給された。最初の1か月で2度の戦闘があった。2度目の戦闘は、村長(ấp trưởng)選挙の妨害だった。
 その後、県の安寧委員会に移った。仕事は県党委書記のボディーガードだった。1971年に敵が10日余り掃討に来た時、県党委は避難したが7日分の食糧しか持ってこず、食糧が底をつき、塩とライターでもって少数民族にキャッサバと交換してもらってしのいだ。
 1972年に武装安寧に異動した。この組織は県党委常務が創設した。主要任務は、悪玉を始末することであった。パリ協定後は、陣取り合戦に勝つことであった。敵の民兵は強力だった。陣取りの任務が終わると武装安寧は解散し、隊員のほとんどは県隊に移ったが、ダウは武装宣伝に異動した。拡声器を使って敵側に「民族和合」政策を宣伝した。
 1973年4月、県隊の中隊長となった。大隊幹部学級で6か月学んだ後、第1大隊の政治員に任命された。ビンディンには、クイニョン(民用)とゴークアイン(フーカット)(軍用)の2つの飛行場があった。1975年、ダウの部隊はゴークアインの飛行場を攻撃した。飛行場を占拠し敵兵数百人を生け捕りすると、どこからか不思議なことに味方のパイロットが登場した。ゴークアイン飛行場で敵から奪ったA-37を修理して、ファンランの飛行場に移した。4月29日、その飛行機を使ってタンソニャット飛行場を攻撃。そのためアメリカは航空機を使ってサイゴン市内から避難できず、ヘリコプターを使って避難せざるをえなかった。
 戦後、ダウは1976年に退役。枯葉剤被害者。

ダウ氏(タイソン県退役軍人会事務所)

6.キー(1948年生まれ):兄弟で袂を分かった兵士

 キーの兄はサイゴン軍・第22師団の軍医だったが、密かに革命側と気脈を通じており、解放軍に医薬品を提供していた。キーはサイゴン政権下の学校に5年生まで通った。1964年に地元の社(xã Bình Tường)が解放されると、社の青年団のリーダーを務めた。1965年に県隊に入った。サム(①)が最初の隊長だった。1966年8月に第3師団に補充された。同年末に負傷し、1969・1970年の1年半治療した。負傷したのは、クアンガイ省ハインティエン(Hành Thiện)県の米軍陣地攻撃の時。治療後、1970年末に軍隊を離れた。
 1971年、地元の社で党書記となる。ここは競合地区で夜は解放勢力、昼はサイゴン政権が支配していた。サイゴン軍兵士とともに韓国軍兵士も沢山いた。その頃、同社には党員はキーを含めて3人しかいなかった。1年余りの工作で16人が入党し、タイソン県でも強力な社の一つとなった。2年余り、同社にいた後、県や他の社で工作を続けた。再び負傷し、クアンナム省にあった第5軍区の病院で治療した。退院後、再びタイソン県やビンディン省文化情報局に勤務した。クアンチュン(光中)博物館館長も務めた。
 平和になると、誰もが生き残って幸運だと思い、食べ物と住む家さえあれば死んだ人と比べてどれだけましかと考えた。生活は苦しかったが精神的には安らかだった。当時は負傷の補償を政府からどれだけしてもらえるかなど考えもしなかった。

タイソン県の田園風景

おわりに

(1)韓国軍の存在について語ってくれたのは、サム(①)、タイン
   (④)、キー(⑥)で、サム(①)を除いて、言及は少なかった。サ
   ムは北朝鮮の派遣団のこと、旧ビンアン社での虐殺のことを語った。
   ライダイハン(韓国人との混血児)のことについて言及した人はいな
   かった。実際に当地においてライダイハンの数が少なく存在感が薄か
   ったからなのか、意識的に言及が差し控えられていたのかは不明であ
   る。

(2)タイソン県では国道19号線の防衛が大きな課題であった。この道路を
   切断されると、中部高原の死活問題になる。この道路をめぐって、タ
   イソン県の解放勢力は韓国軍とサイゴン軍第22師団と対峙した。タイ
   ン(④)によれば、韓国軍とサイゴン軍以外に、米軍、ニュージーラ
   ンド軍そしてタイ軍とも戦ったという。

(3)抗米戦争において、ビンディンを含む第5軍区の戦場での主力軍は第
   3師団であった。地方部隊の省隊・県隊は人材や食糧の調達において
   は自立性が高かった。ただ、専門人材や武器などは北からの支援に頼
   るところが大きかった。一方でビンディンはホア(②)に見られるよ
   うに、第6軍区などに兵員を補強してもいた。

(4)前回のホン(④)のように、ホア(②)とフオック(③)は北部で治
   療・静養している。職位・階級、負傷の重症度によって違うのであろ
   うが、17度線を越えて負傷兵が運ばれているのは興味深い。

(5)ビンディンは、ジュネーブ協定後に北部に「集結」する人が多かった
   地方の一つである。今回のインタビュイーの中ではサム(①)がそう   
   であるが、ビンディンからの「集結」部隊は1960年ぐらいから南部に
   戻っていったようである。サム(①)は1961年にビンディンに戻っ
   た。北部帰りの「集結」者は解放勢力の枢要な地位に就いていった。
                               (了)
 





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?