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ジョン万次郎ミュージアムに行ってきました。

こんにちは!私はアメリカのFairhaven, MAにあるジョン万次郎ミュージアムに足を運んできました。

11 Cherry St, Fairhaven, MA, United States

ここは、万次郎が初めてアメリカで一夜を過ごした、ウィリアム・ホイットフィールドと家族の家です。
万次郎はまだ十四歳の頃、漁に出ていた仲間と航海中に嵐が襲い遭難しました。そして、伊豆諸島の鳥島に漂着した後、約五ヶ月の間ごくわずかな水や海藻、海鳥などを食べてなんとか生き延びていました。同年の1841年6月27日に、ウィリアム・ホイットフィールドが率いていたジョン・ホーランド号の船長として日本近海に向けて航海していました。その時に餓死寸前の万次郎含めた五人と遭遇し、万次郎達は無事保護されました。ウィリアム・ホイットフィールドは万次郎達を日本に帰そうとしましたが、その頃日本は鎖国していた為彼らは帰国することができませんでした。そして彼らはハワイのホノルル港へと向かい、万次郎以外の4人はそこで下船し、万次郎だけウィリアム・ホイットフィールドと共にアメリカ本土へ向かいました。万次郎の頭が良かったのもありますが、本人の希望やウィリアム・ホイットフィールドに気に入られていたのも理由です。アメリカ本土にたどり着いた後、万次郎はこの家でアメリカに来て初日の一夜をウィリアム・ホイットフィールドや彼の家族と共に過ごしました。そして万次郎はオックスフォード・スクールで小学生達と混じりながら英語を学び、バートレット・アカデミーで、英語、数学、測量、航海術、造船技術を学びました。しかし、故郷に帰りたい気持ちはどんどん大きくなります。万次郎は帰国するための資金を得るために、サンフランシスコへ向かう為スティグリッツ号で海を渡り、金鉱を採掘する仕事に就きます。そして漂流から11年目にしてようやく日本に帰国し、母親と再開することができました。

万次郎の話はとても長いので短く文にまとめるのはとても難しいですね。

少し話をショートカットしているので、細かい部分は少し抜けています。

それにしても万次郎は凄い方だなと思います。
彼は14歳で死にかけた後、見たことがない風貌の人達に助けられ、知らない土地で知らない言語を使って生き延びる事がまず難しいと思うからです。

私が初めてアメリカに来た時は小学校6年生の終わり頃でした。その時は英語なんてさっぱり理解出来ず、全然喋れなくて友達を作ることができませんでした。多分私が万次郎だったら、完全に抜け殻状態になって無気力になっていたと思います。笑

今回ツアーをしてくださったのは、ジェラルド P . ルーニーさんです。
彼はジョン万次郎ミュージアムの理事長を勤めています。奥さんは日本人で、日本との交流をとても大事にしています。

左に立っているのがジェラルド P . ルーニーさん

まず建物の中に入ってすぐの部屋には、今の上皇様と上皇后様がアメリカに訪問された時の写真と、日野原重明さんの写真がありました。日野原先生は、ジョン万次郎ミュージアムの修理の為に多額の寄付をされたそうです。私が小学四年生の頃横浜市都筑図書館で行われたビブリオバトルで、日野原先生の『いのちのおはなし』という本のスピーチで優勝したことがあり、まさかここで日野原先生とつながるとは思っておらず、本当にびっくりしました。

更に、二階の部屋にはジョン万次郎の生涯を描いたキルトが展示されていました。それは、東日本大震災の被災にも負けず、力強く活動されたキルトの会の方々からの寄付だったそうです。ジョン万次郎が作った日米のつながりが現在も息づいているのだなと、人の思いが感じられて嬉しかったです。

キルトの会の人たちが作ったジョン万次郎の生涯

ミュージアムの中には万次郎が使っていた部屋も残っていて、昔と今のベットの仕組みの違いを発見したり、服などを仕舞う木箱の蓋の裏には鯨の絵が描かれてあったり、万次郎って絵心まであったんだなと思いました。

ウィリアム・ホイットフィールドの部屋には彼専用の椅子が残っていて、常にあの椅子を使って作業していたのかなと想像すると、少し切ないような、しかし歴史を感じるような気がしました。

ツアーの最後にはクランベリージュースとクッキーを振る舞ってくださって、テーブルを囲んで昔の資料を見せてくれたり、お話を楽しみました。楽しいエピソードが聞けて良かったです!

たくさんの人に訪れてもらいたいミュージアムでした!





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